第105話 二つ目の結び目
アリアの風読みが捉えた異変は、すぐには形にならなかった。
「ラスティカの方……何かが動いてる気がする。でも、まだ遠い。はっきりしない」
亜麻色の髪を風になびかせたまま、アリアは眉を寄せて空を探っている。確証のない胸騒ぎだけが、診療所の朝の空気にうっすらと滲んでいた。マルクスが外の見張りから戻り、銀縁の眼鏡を押し上げる。
「不確かなら、待つ意味はありません。動けるうちに、次を解くべきです」
俺は左腕の薄くなった紋様を見下ろした。一つ目の結び目が解けて、上腕の黒が淡く滲んでいる。残りは六つ。早いに越したことはない。
「やろう。二つ目だ」
ユイが頷いて、また俺の左手の横に座った。
◇
「次にほどけやすいのは、五番目」
ユイの紫がかった灰色の瞳が、紋様の奥を覗き込む。
「でも、三番目より糸が複雑。絡まり方がきつい。……たぶん、さっきより時間がかかる」
マルクスが懐中時計を開いて、文字盤に目を落とした。
「十秒が限界です。それを過ぎれば、変換器が暴走する。一秒ごとに声をかけます。八秒で、私は中断を進言します」
シアが俺の背後で、両手に調和の光を灯した。白銀と金色の間の光が、昨日よりも濃い。一度の成功が、シアの自信を確かなものにしていた。安定膜が、俺とユイの間にゆっくりと広がっていく。光が漂うたび、清浄で花に似た匂いが部屋に満ちて、昨日まで窓辺にあった野花の残り香と溶け合った。
「いつでも」
俺は蝕を細く発動した。聖と魔の天秤を、指先で支える感覚。ユイがそっと、紋様に触れた。
一秒。二秒。三秒。
ユイの瞳が細まる。一つ目の時と同じ集中。だが、その表情が四秒を過ぎたあたりで、わずかに歪んだ。
「……糸が、多い。五本ある。三本じゃない」
五本。ユイが「三本」と見立てていた結び目は、奥でもっと複雑に絡んでいた。表面から視えた数と、手を入れてから分かる数が違う。
五秒。
「一本目……引いた。二本目、引く」
ユイの声に、力みが混じり始める。額に汗の粒が浮かび、それが頬を伝った。指先が、小刻みに震えている。
魔印の奥で、何かがざわめいた。
糸を引かれた紋様が、抵抗するように脈打つ。黒い魔素が、ユイの指先を伝って、その細い腕に流れ込もうとしている。シアの安定膜が押し返す。だが、昨日より押し返す力が要っていた。膜の表面が、波打つように揺れている。
六秒。
「カイトさん、均衡が——」
シアの声。俺は蝕を立て直した。聖と魔の境界が、ユイの操作のたびに揺れる。一つ目の時より、揺れが大きい。天秤の上で、二つの皿が激しく上下する。それを指先一本で抑え込む。
七秒。
「三本目……っ、引いた。あと、二本」
ユイの呼吸が荒くなり、肩が大きく上下する。蝕で支える天秤が、その乱れた呼吸に合わせて揺れた。
八秒。
「ユイさん、八秒です」
マルクスの声が飛んだ。中断の合図。だがユイは、手を離さなかった。
「まだ……あと一本で、ほどける」
ユイの紫がかった灰色の瞳の奥に、白い光が滲んだ。
瞳の色が、薄れていく。変換器が、限界を超えようとしている。魔印の魔素が、堰を切ってユイの体に流れ込もうとする。安定膜が、悲鳴のように軋んだ。
「ユイちゃん!」
シアの叫びと同時に、両手の調和の光が一気に膨れ上がった。白銀と金色の光が、ユイの全身を包み込んだ。流れ込もうとする魔素を、温かい光が押し戻していく。敵として弾くのではなく、受け止めて、行き場を変える。
ユイの瞳の白い光が、すっと引いた。紫がかった灰色が、戻ってくる。
その一瞬の隙に、ユイの指が最後の糸をつかんだ。
引いた。
ほどけた。
左腕の奥で、二つ目の結び目が緩む感触があった。一つ目より深く、重い手応え。長く絡まっていた紐が、ようやく解ける。
ユイが手を離した。同時に、糸が切れたように、テーブルに突っ伏す。
「ユイ!」
駆け寄ると、ユイは荒い息を繰り返していた。額も首筋も汗で濡れて、前髪が貼りついている。指先は——赤い。昨日は無事だった指先が、今日はうっすらと火傷の色を帯びていた。八秒の接触が、安定膜の守りをわずかに超えていた。
だが、ユイは顔を上げて、笑った。
「……ほどけた。あと、五つ」
息も絶え絶えなのに、その声には確かな手応えがあった。
俺は左腕を見た。五番目のあたり、鎖骨の上の紋様が、淡く滲んでいる。二か所目の薄い色。墨が水に溶けていくように。
外套の奥から、ノアの低い声が響いた。
「結び目が二つ、解けた。魔印の進行速度は……元の三分の一にまで低下している。確実に効いている。残る五つを全て解ければ、進行が完全に止まる可能性がある」
三分の一。数字が、希望の輪郭を描いた。
メルティアがユイの汗を布で拭い、砂糖を多めに入れた紅茶を差し出す。ユイは両手でカップを受け取って、一口飲んだ。鉄の味のしない、ただ甘い紅茶を。
「ありがと、メルティアさん」
「……無理しすぎよ、ユイちゃん」
♪はなかった。メルティアの赤い瞳が、ユイの赤い指先を見つめている。
◇
「今日は、ここまでだ」
その言葉に、ユイの指先の火傷が答えを返していた。三つ目以降の結び目は、もっと深い位置にある。接触はさらに長くなる。十秒の壁を超えれば、シアの膜でも守りきれない。ユイの体を、今日はもう休ませなければならない。
ユイは何か言いたげに口を開きかけたが、自分の震える指先を見て、小さく頷いた。
「……うん。明日、三つ目」
ユイがそう呟いた、その時だった。アリアが勢いよく立ち上がった。
亜麻色の髪が、窓から吹き込む風に大きく揺れる。眼鏡の奥の瞳が、限界まで見開かれていた。
「見えた」
その声は、はっきりと震えていた。
「ラスティカの東街道。白い法衣の集団。……十人、ううん、もっといる。聖騎士団の、一隊」
診療所の空気が、凍りついた。
二つ解けた。確かに効いている。だが残りは五つ。そして、白い法衣の波が——こちらへ近づいていた。
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