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第104話 三つの手

 朝の診療所には、まだ花の匂いが残っていた。

 ユイが窓辺の花瓶を片付けて、テーブルの上を空にしている。昨日まで黄色い野花が飾られていた場所に、今日は何もない。空いたテーブルが、これから始まることの重さを静かに語っていた。

 配置は、昨夜のうちに決めてあった。

 俺がテーブルの前に座り、左腕を出す。袖をまくると、手首から肩へ、首の付け根から顎の下まで這い上がった黒い紋様が、朝の光に晒された。41%。ノアが昨夜測った数字が、この紋様の現在地だった。

 ユイが俺の左手の横に座る。紫がかった灰色の瞳は落ち着いていて、怖がっている色はどこにもない。シアが俺の背後に立ち、その掌には白銀と金色の中間の光がすでに灯っている。温かくて、何も排除しない光。

 リーゼは入口の扉の前に立ち、メルティアは部屋の隅から全体を見渡せる位置に。マルクスは外で見張りに就き、アリアは風読みで周囲の気配を探っている。全員が持ち場につくと、リーゼが低く言った。

「手順通りに」

「ユイの接触は十秒以内。シアの安定膜は接触の前に展開。カイトの蝕は薄く、結び目が解ける瞬間にだけ均衡を取る。……始めて」

 ◇

 シアの光が先に動き、白銀と金色の間の光が、俺とユイの間にゆっくりと広がっていく。薄い膜のように、二人の間の空気そのものを包み込む。温かい。調和の光が肌に触れるたび、舌の上に蜂蜜に似た甘さがかすかに走った。感覚侵食の混線さえ、今日はこの光の優しさを伝えてくる。

「安定膜、展開しました」

 シアの声は静かだった。十二秒の限界を超えて、光は安定している。遺跡で掴んだ力が、今この部屋で本物になっていた。

 俺は蝕を、糸より細く発動した。

 光と闇を、体の奥で薄く重ねる。戦闘で使う蝕とは違う。力で押すのではなく、天秤を指先で支えるような、繊細な均衡。魔印の脈動に呼吸を合わせて、聖と魔の境界線を保つ。

「いつでもいい、ユイ」

「うん」

 ユイの小さな手が伸びて、指先が俺の左前腕の紋様に触れた。

 一秒。

 ユイの瞳が、すっと細まった。表面の黒を透かして、その奥を視ている。

 二秒。

「……見えた」

 三秒。

「三番目の結び目。糸が三本、絡まってる。一本目を引けば——ほどける」

 ユイの指が、紋様の上を何かをつまむように動いた。俺の目には何も見えない。だがユイの指は、確かに何かを掴んでいた。目に見えない糸を、指先の感覚だけで手繰っている。見えない手術。この世界でユイにしか視えず、ユイにしか引けない糸を。

 四秒。

 魔印の奥が、ざわりと疼いた。糸が引かれている。紋様の内側で、千二百年誰も触れたことのない構造が、十四歳の少女の指で動かされている。

 蝕の均衡が、わずかに揺れた。すかさず立て直す。聖と魔の天秤を、指先で支え続ける。シアの安定膜が、ユイの手の震えを包み込んでいる。

 五秒。

「二本目……引いた。あと、一本」

 ユイの額に、汗が一粒浮かんだ。

 六秒。

 ユイの指が、最後の糸をつまんだ。

 引いた。

 ほどけた。

 左腕の奥で、何かが緩む感触があった。きつく縛られていた紐が、ふっと緩むような。長く詰めていた息を、ようやく吐き出せたような。

 ユイが手を離した。七秒。閾値の三秒手前で、最初の手術が終わった。

「……っは」

 ユイが大きく息を吐いて、それから自分の指先を見た。赤くなっていない。シアの安定膜が、変換器の暴走を完全に抑え込んでいた。

 俺は左腕を見下ろした。黒い紋様の一部が——上腕のあたりだけ、色が薄くなっていた。

 消えてはいない。墨で描いた線が、水で一度撫でられたような、そんな淡さ。だが確かに、薄い。この紋様が刻まれてから、初めて見る色だった。

 ノアの声が、外套の中から響いた。

「結び目が一つ、解けている。魔印の進行速度が……低下した。完全に止まったわけではない。だが、確実に遅くなっている」

 部屋の空気が、一度に緩んだ。

 シアが安定膜を解いて、長い息を吐く。リーゼが扉の前で、握っていた拳をほどいた。メルティアの赤い瞳が、俺の左腕の薄くなった紋様をじっと見つめて、それから小さく、本当に小さく、笑った。

「効いてる」

 ユイが言った。紫がかった灰色の瞳が、まっすぐ俺を見ている。

「お兄ちゃん。ほどけるよ、ちゃんと。あと六つ、ぜんぶ」

 その声の確かさに、胸の奥が熱くなった。守られるだけだった妹が、今、俺の命の結び目を一つずつ解いている。小さな指で。誰にも視えない糸を手繰って。

「ああ。……頼む」

 それだけ言うのが、精一杯だった。

 ◇

 窓の外で風の音が変わって、アリアが顔を上げた。亜麻色の髪が、窓から入る風に揺れた。眼鏡の奥の瞳が、ラスティカの方角へ向く。

「……なんだろう。空気が」

 アリアの声が途中で止まり、風読みの瞳が細くなった。

 一つ解けた。確かに効いている。残りは六つ。

 だが、外の空気が——変わり始めていた。


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