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第103話 嵐の前

 ミルフィ村の診療所は、夕暮れの匂いに包まれていた。

 窓辺に活けた野花と、ユイが昼間に煮ていた薬草の残り香が、診療所の古い木の壁に染みついている。明日、ここで魔印の結び目を解く。ユイが一番落ち着ける場所で、ユイの目を頼りにする以上、この村の診療所以外に選択肢はなかった。

 エリシアから届いた最終的な理論書を、テーブルの上に広げた。アリアの風読みで一文ずつ伝えられた手順を、リーゼが几帳面に書き起こしたものだ。

「手順は三つ」

 リーゼが碧い瞳で紙面を辿りながら読み上げる。

「ユイが魔印に触れて、結び目を視る。制限時間は十秒以内。それを超えると、変換器が暴走する。シアが調和の光で、ユイとカイトの間に安定膜を張る。ユイの暴走を、その膜で抑え込む。そしてカイトが蝕で、結び目が解ける瞬間の聖と魔の均衡を保つ」

 三人の力が同時に噛み合って、初めて一つの結び目が解ける。リーゼが紙の端を指で押さえながら、最後の一行に目を落とした。

「七つの結び目を、一度に全部は解けない。まず一つ解いて、効果を確かめる。……それからよ」

 シアが頷いた。ユイも、紫がかった灰色の瞳で真剣に聞いている。明日の自分の役割を、十四歳の少女が静かに飲み込んでいた。

 ◇

 リーゼだけが、窓の外を見ていた。

 膝の上に、鞘に収めた聖剣を置いている。碧い瞳が、暮れていく空の色を映していた。

「リーゼ」

 声をかけると、碧い瞳がこちらを向いた。

「もし三者同時操作が、不完全だった場合」

 リーゼの指が、鞘の表面をなぞる。

「私にも、できることがある」

 それ以上は、口にしなかった。聖剣の吸収。父を蝕んだ力で、俺の魔印を引き抜く。最終手段として握った覚悟を、リーゼはまだ言葉にしない。言葉にすれば、それを使う前提になる。三者同時操作を信じている今は、まだ。

 俺も、聞かなかった。

 ◇

 日が落ちてから、アリアが診療所に駆け込んできた。

 亜麻色の髪が、夜風で乱れている。息を切らしながら、眼鏡の奥の瞳が険しかった。

「白い法衣の男が、通信を送ってる」

 アリアの風読みは、空気を渡る魔素の流れを読む。教会の通信網も、その例外ではなかった。

「風読みとは別の方法。たぶん教会の聖印通信。暗号化されてて、中身までは読めない。でも——頻度が、上がってる。この三日で、何度も王都に向けて飛ばしてる」

 マルクスが銀縁の眼鏡を押し上げた。灰色の外套の中で、その横顔が硬くなる。

「セドリックが、気づいている可能性があります」

 ペンを置いて、マルクスは続けた。

「考えてみてください。ユイの能力。シアの帰還。あなたの魔印。それが全部、ラスティカとミルフィ村に集中している。外から眺めているだけでも、何かが起きようとしていると推測はつく。あの男は信仰では純粋ですが、目は悪くない」

「ヴィクトルに報告していると」

「ええ。そして局長は、報告を受けて動く」

 マルクスの銀縁の奥の目が、俺を見据えた。

「動くなら、明日までに。私たちが結び目を解くより、先に」

 診療所の窓の外で、夜が深くなっていく。どこかで、白い法衣の男が王都へ向けて言葉を飛ばしている。その内容は読めない。だが、こちらの時間が削られているのは確かだった。

 ◇

 夜。診療所の暖炉に、火を入れた。

 メルティアが、紅茶を淹れてくれた。

 カップが、七つ並んだ。俺、リーゼ、シア、メルティア、マルクス、アリア。そしてユイ。ユイの分だけ、メルティアは砂糖を多めに入れる。いつもの手つきで、いつものように。

 七人で暖炉を囲むと、狭い診療所がいつもより少しだけ暖かく感じられた。

 明日、魔印の結び目を解く。三人の力が噛み合えば、進行が止まる。噛み合わなければ、ユイの変換器が暴走するかもしれない。あるいは、結び目を解く前に、教会が踏み込んでくるかもしれない。

 考えれば、いくらでも最悪の想像はできた。

 だが今は、紅茶が温かい。

 ユイが砂糖多めの紅茶を両手で持って、ふうふうと冷ましている。シアが旅の話を、ぽつりぽつりと語っている。山村の老婆のこと、調和の泉の光のこと。リーゼが珍しく相槌を打ち、マルクスが「その村の標高は」とデータを聞きたがって、メルティアに「♪ 無粋ね」と笑われている。

 アリアが、レクスに今夜の通信を送ると言った。明日のことを伝えておく、と。

 俺は、その輪の真ん中で、ぬるくなる前の紅茶を啜った。鉄の味は、相変わらず舌に張りついている。だが、その下の温かさは、ちゃんと伝わってきた。

 全員が、ここにいる。

 今夜は、それでいい。

 暖炉の炎がゆらりと揺れて、壁に七人分の影を伸ばした。寄り添うように、重なり合って。

 その影が、ひとつでも欠ける明日が来ないことを、俺はただ願った。


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