1 タイラー・オーニール
希代の人物が現れるときは、世の中が変わる時である。様々な分野でそのことは言えるだろう。
政治、経済、娯楽。さらには部屋の間取りに至るまで変えてしまう魔力がある。
野球においても、そういった存在がいる。
例えば、あまりに高い打率を残す選手がいたら、人々はヒットを狙うようになる。
例えば、たくさんのホームランを打つ選手がいれば、人々は長打を打ちたくなる。
例えば、剛速球を投げる選手がいたら、人々はキャッチボールをするときに力を籠めるようになる。
そんなことを何故するのか、と言われれば、ひとえに憧れと虚栄心があるからだ。
──あの人に近づきたい、自分をもっと大きく見せたい
そう思うことは、人として決して劣等な感情ではない。むしろ健全で、成長するには必要な感情である。
野球界に一躍、旋風を巻き起こしたタイラー・オーニールだって、最初はそういう感情からボールを投げ、バットを振り始めた。
ただ、一切の妥協をしなかった。そこが他とは違う部分だったのかもしれない。
──・──・──・──
タイラーの野球の源流は、兄のジェイソン・オーニールにある。
4歳違いの兄は、弟から見てスターだった。
優しさもある。厳しさもある。人の中心に立てるような存在感もある。そして、そういった大人びた部分を見なくても、とても足が速くて力持ちだった。
タイラーは幼少期、いつも兄の後ろについて歩いていた。
兄は努力家だった。頭も良かった。
勉強では学年でも1、2を争うような成績を残したし、クラブチームに入ってやっていた野球でも、練習を人一倍やった。
兄がチームでの練習に参加する時、タイラーは母親と一緒に見に行き、いつも真っ暗になってから帰った。
タイラー少年にとっては、それが楽しかった。兄の輝く姿を、間近に見られたからである。
無邪気なタイラー少年は、兄の懸命な姿を見て喜び、はしゃいでいた。
しかし、幼心にも兄がそうならざるを得なかったのはわかっていた。
オーニール一家はタイラーが生まれたばかりの時に、父親が交通事故で死んだ。
家の中で大人といえる存在は母1人だけになり、兄は父親の代わりになって、タイラーの面倒を見るしかなかった。
兄のジェイソンは、決して子供らしい心が無かったわけではない。むしろ、そういった面では元来、底抜けに明るかったのかもしれない。
ただ、この家庭環境はジェイソンに
──俺が、家族を支えなくちゃならない
という意識を植え付けたことは間違いなかった。それはジェイソンが、タイラーに言った
「お前は心配するなよ。好きにやってれば良い」
という言葉の中の悲しい響きとして、感じ取ることができた。
それでもタイラーにとって、ジェイソンは間違いなく憧れの存在だった。
憧れの存在の行動を真似て、その人に近付こうとするのは当然である。タイラーも勉強を頑張り、なおかつ兄と同じように野球を始めた。
ジェイソンは優秀な選手だった。だから、チーム内でも
──その弟なら
と、期待する感情は大きかった。
実際、タイラーは同年代の選手よりもよく考えて、よく練習した。
近くにいる兄のジェイソンの行動に倣って、誰よりも遅くまでグラウンドに残った。
「痛くない?」
手の平にマメを沢山つくれば母は心配したが、タイラーは痛みを我慢して笑顔を作った。
ここで「痛い」と言っていたら、上に昇れない。上に昇れないまま、憧れの存在に近づくことなんてできない。
自分の兄はそういった存在なんだと、8歳のタイラー少年は思っていた。
──・──・──・──
タイラーが11歳のころ、ジェイソンが怪我をした。
1ヶ月や2ヶ月で治りきるような怪我じゃない。一生影響を残し続けるような、大きな怪我である。
タイラーはジェイソンがうなだれている姿を、何度も見た。
片親で、弟がいて。自分が束縛されない世界がグラウンドにあっただけに、それを失ったのは、ジェイソンにとって大きなショックなのだ。
慰めることは、簡単にはできない。ただ、ひとつ救いを求めるのならば。
タイラーはジェイソンの抱いていた将来像を、自分が見せるために努めようと思った。
タイラーは今まで以上に努力した。
クラブチームでの練習以外にも、朝にはピッチングの練習をして、夜には素振りをした。
自分で練習をするときにはジェイソンも付き合い、練習がしやすいように補助をしてくれた。
母は
「野球ばっかりで困った子ねえ」
と言っていたし、ジェイソンは
「あまり無理すると、体を壊すぞ」
と心配していたが、2人ともタイラーに大きな目標があるのだと信じて疑わなかったから、むしろ微笑みを浮かべながら、タイラーの練習する姿を見ていた。
その練習のおかげだろうか。タイラーは立派な、いや立派すぎる選手になった。
投手としても、野手としても、アマチュアの中では抜けた実力を持っていた。
それだけに、彼を注目していたプロチームは
──投手か、野手か
ということで頭を悩ませていたが、ただ1チームだけは、違う方針を打ち出した。
「投手としても、野手としても、育てる」
言ったのは、クロークハッチ・チェッカーズである。
最初、チェッカーズの方針は「古い」と言われた。
投手と野手は分業しようという流れが出てきていたのに、なぜ旧来の手法を持ち込もうとするのか。
それが、ほかのチームの首脳部からするとわからない。
現場にいる人間がそう思うのだから、外から見てても思う人はいる。
──世間の注目をひきたいんだろう
とか
──選手に無茶をさせて何になる
とか、そういう意見が飛び交ったが、チェッカーズ側の意見は変わらなかった。
そして晴れて、"Two-way Player" として入団すると、タイラーに対する評価は一変した。
投げて良し、打って良し。足も速いし、外野守備もうまい。
──完璧じゃないか
と思ったのは、チェッカーズの試合を見ていた観客、記者、関係者の全てである。
チェッカーズ側も、タイラーに不必要な労を負わせないように気を使った。
投手のローテーションを組みなおして、登板に十分な間隔を空けられるようにし、野手として出場するときも途中交代を活用して、疲れを溜めさせないようにした。
稀代の才能を潰さないよう丁寧に使えたのは、周りのチームメイトや監督、コーチも十分に気を使っていたからである。
周囲の人間には、この素晴らしい選手の登場に心を躍らせていたせいか
──ひいきしやがって
と思う人間はいなかった。
それは場にいる人間が全員、野球という競技を愛していたからに他ならない。
タイラーも、その心を分からないはずが無かった。
皆から支えられるということは、皆を支えるということに直結する。タイラーは他の野球人と比べても、圧倒的といえるパフォーマンスを発揮した。
ヒットを打ち、スチールし、ホームランを打ち、フィールドを駆け回って好捕をし、強肩でランナーを刺し、Kの文字を並べ、勝つ権利を絶対に譲らない。
タイラーは野球そのものだった。
そういう存在感は、他には見られないものだった。
そんな活躍を続けていれば、球界全体から見ても注目度は上がっていく。
タイラーはまだ若い。まだ若いが、チェッカーズといえばタイラー・オーニール。タイラー・オーニールといえばチェッカーズという図式が出来上がっていた。
彼のような圧倒的な存在に、世間は熱狂する。
野球を習い始める子供が増え、子供たちはタイラーを目標にする。
1人の聖なる存在は、世間を巻き込んで努力を助長した。
しかし、それでも
──彼のような存在は後にも先にも登場しない
などと思えるほどに、タイラーは野球界を牽引する存在になった。
──・──・──・──
タイラーは当時のチェッカーズの主力選手で唯一、戦争に参加しなかった。
本人は
「俺も国民の一人なんだろう? なら、行かせてくれ」
と言っていた。それは、ただ愛国心から来るものというよりも
──みんな全員行ってるのに、なんで自分だけ
と思う、責任と孤独によるものだった。
それでもタイラーが出征することは、チームが、ファンが、許してはくれない。
戦争が始まり、チェッカーズのメンバーが続々と戦争に向かうようになってくると、ひとつの署名活動が起こった。
チェカーズの、いや野球ファンによる、タイラーの兵役免除の懇願活動である。
タイラーは最初、この特権の受け取りを拒否しようかと思った。
だが、チェッカーズのフロントは
「タイラー。お前がいなくなってしまえば野球界は一気に冷え込む。どうか、残ってくれ」
と言って譲らなかった。
タイラーにとって、聞き捨てならないものだった。
「ほかのメンバーは行っても良いって言うんですか! 死んでも良いって言うんですか!」
そう激怒して、会議場の机を投げ飛ばしたりもした。
しかし、それでも
──タイラーを絶対に戦争に行かせるな!
という民衆の声は大きく、最後には政府の人間まで来て
「タイラーさん、民衆の心を癒してあげてください。あなたの役目です」
と、たしなめられるような格好で、チェッカーズのロッカールームに残った。
戦時中のタイラーは苛まれた。
次々とチームメイトが戦争に行き、その後の安否もわからないまま野球をし続ける。
腕を振るのにも、走るのにも、気力が削がれた。
──それでも
と、タイラーは思っていた。
いつかメンバーが返ってくるかもしれない。その時のために、自分はチェッカーズという名前とブランドを、残し続けなくてはならない。
今のチェッカーズに知っている顔は少なくなったが、それでも自分がいるだけで、彼らが帰って来れる。
帰ってくる場所があれば、いつか、また共に野球ができる。タイラーだけが諦める理由は無かった。
最初にチームメイトが兵役に出てから、実に8年間。タイラーは必死に動き続けた。
還ってきたチームメイトもいた。還ってこなかったチームメイトもいた。もとのチームメイトが還ってきたと知ると、タイラーは帰還を大いに喜んだ。
それでも、数年の内に辞めるチームメイトが多かった。
そして大抵のチームメイトが、そのあと野球界に戻ってくることは無かった。
タイラー自身、その連続に「空虚だ」とは感じない。
──自分がいることで、少しでも心が救われてくれれば良い
そう思っていた。
そして、その信念を持ち続けたままタイラーは1943年に、選手としては引退した。
──選手としては、やり切った
と思ったからである。
成績も下降線の一途で、もう自分の居場所は無いと感じていたせいでもあった。
しかしタイラーは満足していなかった。
まだ、チームメイトが全員、還ってきたとは言えない。タイラーはチームメイトが全員「還ってくる」まで、野球人生を終えるわけにはいかなかった。
野球人としての、チェッカーズの一員としての大きな役割は、タイラー自身が道標になることだった。
自分の名前を追えば、チェッカーズの名前のもとに集まれるようにしたかった。
そんなタイラーにとって
「タイラー。チェッカーズのコーチになってくれないか」
と言われたことは、神からの祐けに思えた。
タイラーは、ふたつ返事で要請を承諾した。
──・──・──・──
それから、何年の月日が経ったか。
ジェイコブ・フューリーが監督として、チェッカーズに帰ってきた。
野手の中でも、リーダーシップを執っていた選手だ。
はじめジェイコブが監督になろうというとき、1本の電話がタイラーのもとに掛かってきた。
「ジェイコブか。久しぶりだな」
しばらくぶりに掛けた言葉は、そんな当たり障りのない言葉だった。
タイラーは仲間たちとの思い出に浸るばかりで、会ったら何を話そうか考えていなかった。
「ずいぶん、声が老けたな」
ジェイコブの声も、相応に年老いて聞こえた。
「どうだ。良い若手はいるか?」
ジェイコブの問いかけに、タイラーは電話なのに首を横に振った。
「いいや。どうにも、あの頃のチェッカーズと比べてしまうんだ」
タイラーは、自分のあまりに曇った眼を嘲った。
あの頃のチェッカーズには、良い選手ばかりがいたのは確かである。だが指導者となった今、そんな風に今のチェッカーズを見てしまうのは、いけないことだと解っている。
「解っているが、どうにもな……」
声を聞いたジェイコブは庇うことなく、タイラーを咎めた。
「今を頑張っている選手たちに申し訳が立たないだろう! お前がそんなだと、チームは弱くなる」
「そうだ、その通りだ」
タイラーは肩を落とした。ジェイコブの言葉は厳しい言葉ではない。
──怒って当然じゃないか。女々しい
タイラーは目蓋を閉じた。
「だが──」
ジェイコブは言葉を詰まらせた。タイラーは息の詰まりを聞き逃さなかった。
「どうした。俺への説教はまだ終わってない」
この言葉は間違いなく、タイラーの自虐だった。だが、もうひとつ意味を付け加えるとするのならば
──帰ってきてくれて、ありがとう
という言葉を覆い隠すための言葉である。
「チェッカーズを守ってくれたんだろう」
ジェイコブがそう言ったとき、タイラーは大きく笑った。
「俺はそんなに待ってない。よく帰ってきてくれたな。待ってたぞ」
向こうのジェイコブが、大きく頷いたのが分かった。
「それなら良かった。それと……」
「それと、なんだ?」
「今回戻ってこれたのは、実はカーターのお陰でもあるんだ。シーズンが終わったら、アイツに会わせてやるよ」
「そうか……アイツの悪癖は治ったか?」
「いや、どうだろうな。だが前よりも、だいぶ良くなってるよ」




