8 ジョニー・ワイルドボア
──グラウンドが懐しい
たぶん、ジョニー・ワイルドボアだけではない。
それは元のチームメイトもそうだろうし、自分たちを見ていた観客も、同じ感覚でいるはずだ。
「懐かしい」と思えるのは、確かに経験したからである。現実として場に居なければ、懐かしむことができない。
自分は少なからず努力をした。その過程がなければ、想いに爽やかさを持たせられない。
ただ、どうだろう。
「懐かしい」と思うことは、過去の記憶を俯瞰することである。
俯瞰するということは、距離を置くということである。
距離を置くということは、自然と遠くに立つということである。
つまり「懐かしむ」ということは
──すでに、手の届かない場所に自分がいる
という事ではないのか。そう思うことは、果たして間違いなのだろうか?
──なぜ、こんなことを考えているんだろうな
自室の椅子に腰を掛けて、ウィスキーの入ったグラスを片手に、アルコールでぼんやりし始めた頭を必死に働かせて、考える、という事についてすら考えた。
たぶん自認できない頭の片隅に、そういった思考を巡らせるだけの養分があるはずなのだ。ジョニーが生きている間、ずっと栄養素を供給し続けるに違いなかった。
その本を探索して突き止めない限りは、ジョニーのいま抱えている問題に、明確な答えを当てがうことはできない。
──ああ、痛い
こめかみの辺りが痛んだ。二日酔いを起こしている。
ずいぶん前から、アルコールを摂らない日は無い。その月日を数えることすら止めた。
数えていないのは何故か、と言われれば、ジョニーは思考に伴った瞬間的に訪れる得体のしれない苦痛を紛らわす為に飲んでいるのであり、恒久的な愉しみの為に嗜んでいるのではない、と答える。
つまり苦しみの回数を数えていられるほど、心に余裕が無い。
今日は曇っていて、部屋の中は薄暗い。
普通の人なら灯りを点けたくなるだろう。
ジョニーは部屋を暗くしたままで、ずっと酒を飲んでいた。
酒浸りになっている、と言って良い。朝に酒を飲んで職場に行き、夕方に帰ってくると、また酒を飲む。一日でウィスキーの瓶を一本、空けることも多い。
ジョニー自身、仕事はそつなくこなしていたが、同僚からは
「酒はやめろ」
と言われていた。
──わかっているさ
相手の要求に応えようと、努力しているからではない。
努力しているように見せかけて
──自分は頑張っている
と、自慰をする為である。
そして、その慰めを肴にして、また酒を飲む。
──俺はこんな人間だったかな
考え始めると、陰鬱な気分になる。自分を責めている時間が、いちばん苦痛を感じるものだった。
ジョニーが元は快活な人間だったからこそ、苦痛をより強く味わうのかもしれない。
──だとすれば、快活だった時期を思い出せば良いんじゃないか
ジョニーも思っていた。だが思い出そうにも、そこに付随してくる感情というのは
「そうしよう」という活力ではなく「あの時が懐かしい」という後顧ばかりなのだ。
つまりジョニーは、過去の景色を遠くから傍観するだけになってしまった。
スクリーンに映し出された草原と、現実の草原とは全く違う。
青い匂い、吹き抜ける風、柔らかな感触。その全てが足りない。
ジョニーの心には、いつの間にかカビが生え始めている。
──・──・──・──
過去の話である。
自分が暗い気持ちでいると、周りが羨ましくなるのは人の常だ。
──なぜ、そんなに笑えるんだ
そう思うことはしょっちゅうである。
ジョニーが働いている整備工場での話。
レンチを右手に持った同僚が、そのレンチを振りながら、ジョニーに力説をしてきた。
「ジョニー、子供はいいぞ! お前も儲けたらどうだ?」
この同僚の女房はつい最近、出産したそうだ。
ジョニーは
「良かったな。大事にしてやれよ」
と言ったが、声も顔も笑っていなかった。
同僚はジョニーのことを
「お前は仕事人間だな」
と揶揄うように言ったし、ジョニーも
──仕事以外に興味はない
という態度をとっていたから、本心がバレることはなかった。
ジョニーは同僚のことを恨んだ。
──俺に無いものを持ちやがって
と思った。
他人が見れば、意地汚いと思うことでも、ジョニーにとっては純粋で素直な気持ちである。
当時のジョニーは周りに黙っていたものの、妻と別れたばかりだった。
もともとの妻とは戦争が始まる以前に結婚し、戦争中にジョニーが兵士として出征した時も、健気に待ってくれていた。
仲は良好だった。
良好だったはずなのに、なぜ別れることになってしまったのだろう。
思い返してみれば、ジョニーに原因があることは明白だった。
ジョニーは戦争に行ってから、人格が変わった。
もともとは小ざっぱりして豪快な男だったのに、陰気で妬みを抱くような男になった。
ジョニーの妻は、そういったジョニーの変わり様を咎めた。
「あなたはそんな人じゃなかったでしょう?」
妻も、ジョニーを責めることはできない。なぜならジョニーを変えてしまった世上の空気を、自分でも痛いほど感じていたからである。
──無理もないわね
と、思っているだろうことは、ジョニーにもわかった。
ただ、この頃のジョニーは、その想いを素直に受け止めることができなかった。
母性のある慈悲を、支配的な侮蔑に感じた。
ジョニーは、妻の「支配」に反抗した。
「そんなに面白いか? どうせ心の中では笑ってるんだろう?」
いま思えば、この言葉はそっくりそのまま、ジョニーが自分自身に対して思っていた事かもしれない。
だがこの時は、妻に対しての攻撃として現れた。
「そんなことない。挫けちゃダメ」
ジョニーの妻は健気だった。ジョニーが心無い言葉を言っても
──それは全て彼の苦しみの裏返しだ
と思って、必死に付き合った。
彼女の泣く声が、ドアの向こうから聞こえてきたこともある。
だが、ジョニーはこの時も
──気を引くために演技をしているんだ
としか思えなかった。
ある日、ジョニーの中にある感情が爆発した。
妻の侮蔑に耐えることができなくなったのである。
「俺のことを見下しやがって!」
その一言とともに、ジョニーは妻を殴った。
ジョニーは力が強い。彼女は椅子から落ちるほどの衝撃を受けた。
その瞬間、彼女の目の光が鋭くなったのをジョニーは覚えている。
彼女は無言のまま、その場を後にした。次の日、彼女は姿を消した。
妻との間に子供はいなかった。
戦前はお互いに過ごす時間が楽しくて
──2人でいれれば、それで良い
と思っていたから、子供を授かるまではいかなかった。
戦後はジョニーが妻を蔑ろにしたから、その機会はついに訪れなかった。
──もしも子供がいたら
そう空想することがある。
子供がいることで、妻とぶつかり合わずにいられたんじゃないか。同僚が
──子供は良いぞ
と言った時に恨んだのは、目の前にいたはずの大事な存在を自分から手放してしまったという後悔を反転させて、相手にぶつけているだけだったのか。
思考というのは複雑怪奇で、ときどき有り得ない繋がり方をするときがある。それが病的なものになるときもある。
ただ、重要なピースが自分の中にはまだ足りない。
椅子の背もたれに背中を預けると思い出せそうな気がするが、最後の扉が塞がれていて開けることができない。
妻が出てから1年たった時のことである。
弟のディックが、ジョニーの家を訪ねてきた。
どうやら1年前の妻との諍いも、耳に入っていたようである。
「兄貴……」
その口調には残念さと憤慨が込められていた。ディックは兄のことを殴るまではいかなかった。だが内心では
──兄貴がこんな人間になり果てるなんてな
と思っていて、さんざん怒鳴りたい気持ちはあったに違いない。
「なんで自分の嫁に手を挙げたんだ」
ディックは声の震えを抑えながら、ジョニーに問いかけた。
「さあな……」
ジョニーは声をくぐもらせた。
1年の間に自省はしてきた。だが、たかが1年である。1年の間に
──はい、自分が悪うございました
などと言えるほどに自分の愚行を見切れるほど、踏ん切りはついていない。
弟にも、兄の葛藤は見えている。
「兄貴は、反省できているのか?」
ジョニーは黙って、首を横に振った。
「そうか……それなら、まだ立ち直れるな」
ディックがそう言ったのは、反省しなければ立ち直れるのだ、と言ったのではない。自分の兄が、今まさに道筋をたどっている所なのだと察知したから「立ち直れる」と言ったのである。
弟のディックは、ジョニーに
「俺はこう思うんだ」
と独白されるたび、断言をすることなく自分の考えを伝えた。
迷っている人間に断言を与えてしてしまうと、誤った道を示したときに引き返せなくなる。
ディックは心理学者ではなかったが、直感的にその方法を選んだ。
断言されなかった分、ジョニーは自分で考えた。自分の今まで行ってきた思考方法を、印象的な事象に限ってではあるが、考え直す機会ができた。
最初のうちは、直近のショッキングな出来事(つまり、妻との別れ)を思い出して
──自分は拗けた人間なんだ
と、自分を責めた。
世の中には「真っ直ぐな人」がいる。
自分の信じることを曲げず、突き進むということを恐れない人のことを、世間ではそう言う。
そのことを考えてみれば、ジョニーのやったことは自分の存在を曲げて、前に進むこともできず、恐れてばかりいる。
自分で自分のことを「拗けた人間」と思うのは当然のことだった。
そして、そこまで考えている自分すらも、縮こまっている「拗け者」に思える。
弟のディックは、兄が持ち掛けた
「自分は、ひねくれ者なんだろうな」
という問い掛けに「そうだ」とも「違う」とも言わなかった。
ここでも、ディックは断言を避けた。
ジョニーは最初
──弟は、俺に呆れたのか
と思った。ともすれば、もう見捨てられているとすら思った。
何でもかんでも弟に訊くような兄のどこが、ディックにとって有益なのか。
そう考えずにはいられなかった。
ディックは「ひねくれ者」の問い掛け以降、しばらく姿を見せなくなった。
──やっぱり、見捨てられたか
当然だ、としか思えなかったジョニーは、人から離れて生活するようになった。
これより以前は、ただ塞ぎ込んでいるだけだったが、今度は自嘲することが多くなった。
何をやっていても、自分がちっぽけに思える。誰かが殺しに来ないことが、異常だとすら思えた。
それでも、どこか癖がついてしまったのか、1人で黙考することは止めなかった。
仕事が終わり、家に着き、酒を片手にして椅子に座ると、自然と頭が回り始める。頭の中に過去の光景が映し出され、それぞれにどんな意味があったのかを考える。
無駄な人生を送ってきたなど、誰も考えたくない。ジョニーもそれは一緒だった。
だが、全部が空虚に見える。
他人の人生を、他人の目を通して追体験しているだけなのではないか。
人生の意味が見いだせないというよりも、もともと在ったものが、今の自分からは無くなっているように感じた。
真っ直ぐ生きることは、今の自分にはもうできないだろうと、思うしかなかった。
しかし、長く考えているうちに、視界が開けた。
何を信じているかは、最初から決まっているのか?
突き進む道はどこで、どうやって見つけるものなのか?
恐れないという心は、どうやって育まれるものなのか?
ただ真っすぐに突き進んでいる人が、そういったものを見つけられるほど、辺りを見渡せるのだろうか。
じつは誠実で正直に見える人ほど、心の中には複雑な曲折が含まれているのではないか、と思った。
様々に見聞きするうち、心は複雑に折れ曲がっていき、多様な曲線を描いて心を形づくる。そうして出来上がった図像を遠くから見て、細部が見えないばかりに
──整頓されている
と誤認して、人格を指して「真っ直ぐ」と言うのではないのか。
つまり、初めから直線を描こうとしている人間は、人格的に「真っ直ぐ」になりえないし、このことを自分に当てはめてみると
──直線的に進みすぎたのではないか
と、言うことも出来るんじゃないか。
ジョニーが自省している最中、そういう考えで過去を振り返ってみると、どこか納得がいく。
彼女に対して暴力を振るった時も、人に対して敵愾心を向けた時も、弟が自分を見捨てたんだと思った時も、自分の中にある不快感や猜疑心そして恐怖に正直すぎた。
自分は真っ直ぐ進みすぎたあまりに、藪の中に突っ込んだのだ。そして道を見つけることができなくなり延々と彷徨っているのが、今の自分なのだ。
滑稽だった。
しかし、自分のたどってきた人生が無駄ではなかった、ということを証明できた気もした。
いまの自分は、紆余曲折の最中にいるのである。もしも、あるていど心の混乱が収まる時が来れば、自分は猪突猛進するだけの人間ではなく、少しばかりは善い人間になれる気がする。
ジョニーは過去の自分に対して、申し訳が立ちそうだと思った。
愛する人を傷つけ、酒に溺れ、殻の中に閉じ籠ったが、それに向き合うことができそうな気がする。
まだ心は曇っていたが、少しだけ青空が見えたような気がした。
──・──・──・──
それから3ヶ月ほど経った時に、弟のディックがジョニーのもとを訪ねてきた。
ディックは決して、ジョニーを見捨てたわけではなかった。ただ自分の抱えている仕事が、忙しくなっただけである。
ディックも
──兄貴が心配だな
と思っていたが、どうにも離れた所の兄に会う時間が、取れずにいたのである。
ディックから見たジョニーの表情は、以前よりも明るくなっている。
「良いことがあったのか?」
と、ジョニーに聞いてみた。
「少しだけな」
ジョニーは笑う顔までは見せなかったが、前向きな言葉を放った。
ディックは安堵した。もしかしたら、兄が死を考えるほどに追い詰められていないかと思っていたからである。
ひとまずは、健康体に近付きつつあることを喜んだ。
ただ、印象として以前の「一直線な人間」という感想は持たなくなっていた。
何か思うことがあったのか、柔らかみのある雰囲気をまとい始めていたのを、家族らしく感じ取っていたのである。
──・──・──・──
そういった背景も含めて、今のジョニーがいる。
それからのジョニーは、悩むことはなくなった──
と、言いたいところではあったが、ひとつの結論を得たジョニーはそれから、得た結論に則って、自分の人生を見返す作業を始めた。
むしろ、これからが本当の闘いだった、と言っても良いのかもしれない。
いつものように、暗い部屋の中でウイスキーグラスを片手に椅子に座り、酔いにも任せながら思考を廻らせていく。それが、ジョニーの日課になっていた。
すっかり、快男児から静かな中年男になったジョニーは、ひとつの重要な問題を考えようと思った。
戦争を境に自分がどう変わっていったのか、振り返ろうとしたのである。
しかし、それについて考えを及ばせているうちに、ジョニーは大きな問題にぶち当たった。
──考えるためのピースが足りない
ジョニーはグラスを揺らした。
戦争を境にして自分が無くしたものの中に、野球選手としてのキャリアがある。
ジョニーはもともと、チェッカーズの野球選手だった。
それこそ、スターティングオーダーに名を連ねるような選手だった。
戦争で徴集されたのは1933年、35歳のとき。帰還を果たしたのは、38歳のとき。
戦争に出る前ですらベテランだった。そこから3年である。選手として復帰することはできなかった。
野球選手だった頃の自分を思い出そうとした。
しかし風景は思い出されるものの、伴う感情は
──グラウンドが、懐かしい
というノスタルジーのみだった。
自分がどういう感情だったのか。そして、どういう努力をしたのか。
ノスタルジックな風景として思い出せても、そこからもう一歩が踏み込めない。
ジョニーは、以前の自分と今の自分が、別人になったことを意識せざるを得なくなった。
──これでは、自分の人生を見直せない
なるべく、実在した感情を思い出そうとした。
それでも、思い出せなかった。
──自分の心はカビているのかもしれない
ときおり思考の場を屋外に移したりもしたが、やはり、あの頃の感覚は思い出せない。
春の風は、ジョニーにみずみずしさを取り戻させてはくれないらしい。
悶々としていたある日、ジョニーのもとに1通の手紙が届いた。
差出人は「ゲーリック・トラバース」となっている。
──トラバース? 記憶にないな
ジョニーは、封筒を開いて書き記してあるメッセージを読んでみた。
読んでいくうちに書いてあることが自分にとって、とても大きな意義を持つことに気が付いた。
時間をかけて、もう一度読み直した。
──これは、行かなければならない
ジョニーの頭の中には、草原の匂いと、風と、そして感触がよみがえった。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、奥にしまっていた野球道具を引っ張り出した。




