27 エド・ウィーランド
「チェッカーズで最も幸運な男」と言われる選手がいる。
その選手はチャンスの場面で結果を求められ、そして正答してきた。
しかも、ただのチャンスではない。
チームの結果、ことにリーグの順位に影響を及ぼすような時でこそ結果を残しており、その名前はチェッカーズファンのみならず、この国のベースボールリーグでも有数の存在感がある。
彼にも自覚はあった。自分が結果を残すべき場所は、決まってチームの行方を左右する場所でもある。
いうなれば両腕に、チェッカーズという船の舵が握られているのだ。
最初はプレッシャーに押し潰されそうになった。それでも何年と、ポジションを全うする内に、いつの間にか「自分はラッキーだ」という風に思えるようになった。
自分から前に行きたがる人間ではない。むしろ、引っ込み思案かもしれない。
だが、この一瞬。この1打席だけは彼が主役になるし、それを譲る気もさらさら起きない。
メンタルが強いわけではない。
だが、どこか類稀な物を持っているのは、疑いようもない事実だった。
──・──・──・──
最初にメジャーな舞台で打席に立ったのは、入団から6年が経った1922年のことである。
1アウト1.2塁の場面。具合の悪い当たりが出れば、ダブルプレーの場面である。
しかも、この試合は連敗脱出が掛かっている。なおかつ2塁ランナーは同点のランナーである。
つまりエド・ウィーランドは初打席早々、このチームの起爆剤となれるのか、それともチームに点き始めた灯を消してしまうのか、この二択を突き付けられることになった。
エドも、チームの状況は頭に入っている。
──マジか
と思ったのも無理はない。
ここで打てば救世主だが、もしもダブルプレーになれば、かなり印象が悪い。
もしかしたら、この1打席だけで下に落とされるかもしれない。
エドは力んでいた。
右のバッターボックス。ボールをよく見ようとしたが、緊張で目が乾いている。
おかげで、初球を見逃してしまった。
──ああ、終わりだ
そう思ったのは、最初のボールが打つのに絶好の球だったことが、わかったからである。
2球目、3球目とボールの判定が出た。
これも見送ったのではない。振ることができなかった、と言ったほうが正しかった。
エドはすでに
──下に落ちたら、どうやって過ごそうか
ということにすら考えが及んでいる。完全に上の空だった。
しかし、4球目にエドの運命が変わった。
相手はストライクを取りに来た。試すかのように、真ん中付近に真っすぐを投げてきた。
──やばい、打たなきゃ
バットを焦って振った。
すると、バットにボールが当たった。
野球選手というのは「打った」という感覚があれば、反射的に1塁ベースに向かって走るように訓練されている。
この時のエドも
──ボールの上っ面じゃないか
と思いながらも、全力で1塁に向かって走り出していた。
こうなると
──下に落ちたくない!
とか
──頼むからセーフになってくれ!
とか思いながら走るしかない。
塁間が異様に長く感じたが、90フィートは90フィート(約27.43m)である。
エドは真正面しか見ず、必死に走った。
エドは1塁ベースに頭から突っ込んだ。
歯を食いしばり、目をつむって、多分この瞬間を写真で撮られたのならば、相当に不細工に写ったに違いない。
──ああ、俺はツイてないな……
手が1塁ベースにたどり着いた瞬間、エドはそう思った。
だが、なぜかスタンドからの声は沸き上がった。
──なんだ?
目を上げたエドが見たのは、ファウルグラウンドに飛んでいくボールだった。
このとき、エドはベースに縋り付くことしかできなかったが、チームメイトから話を聞くと、こんなことが起こったのだという。
エドの放った打球は高く弾んだ。
そのぶん三塁手が前に出て処理して、3塁にも2塁にも送球はできなかった。
せめてバッターランナーだけはアウトにしようと、三塁手は1塁に送球した。
しかしながら、ボールが手につかなかったらしい。ボールは大きく逸れてファウルグラウンドを転々とし、その間に2塁ランナーがホームに生還した。
1ヒット1エラー。打点こそ付かなかったが、チームはこの後に勝ち越して、結局エドは代打に成功したのだ。
──なんだ、そうだったのか
エドはホッとするのと同時に、自分にツキがあったのだ、と思うようにした。
それから後のことである。
エドは毎試合のように終盤の得点機会で代打として登場し、打てたり、打てなかったりした。
ただ、チームから見てもファンから見ても、満足のいくような成績だったことは確かで、いつの間にかエドは愛される選手になった。
エドにとっては嬉しい半面、もどかしい部分がある。
あまりにもピンチヒッターとしての需要が高まりすぎて、スターティングオーダーには名を連ねさせて貰えないのだ。
──俺にも、1試合に4打席回ってきてくれればなあ
と、思うことは多かった。1日1打席しかないせいで、4日で4打数1安打とかになるよりも、1日の内に4打席が回ってきて4打数1安打になったほうが気が楽なのである。
数日間打てていないというのは、結構キツイ。
頭が痛くなることもある。
それでも、チームのコーチ陣からは
「お前みたいな選手がいてくれると、戦術が立てやすくて助かるんだ」
と言われているものだから、スターティングオーダーに入れてください、とも言いづらい。
同じような立場にいる選手に、ゲリック・バードという選手がいる。
ただ、彼はエドのような経緯でスターティングオーダーに入らないのではなく、打撃は天才的だが、守備が下手だから出しづらい、という理由がある。
裏を返せば守備が上手くなれば、先発の座が確約されるような選手である。
エドは守備がまずいわけではないし、健康面での不安があるわけでもない。
そういった意味では、ゲリックとはスターティングオーダーに入りたいという気持ちに、明確な違いがある。
「ゲリック。俺はゲームが始まった瞬間から、打線の中に入っていたい」
11歳も歳下のゲリックにボヤいたこともあるが、そういった理由もあってか
「そんなことを言われても……チームで明確な役割があるのは幸せなことじゃないですか」
などと言われて、軽くあしらわれた。
また、打撃に秀でているという点で似ている、ダニー・ゴールドバーグにも話を聞いたりしてみたが
「自分は、むしろエディーさんが羨ましいくらいですが……」
と、こちらもまた、期待していた答えは得られなかった。
落胆をした、とまではいかないが
──あ、俺は代打から逃れられないな?
と察して、これ以降はむしろ「最もツイている人間」として振舞うべきなのだと考えを変えた。
こうなると、迷いも何もない。エドは代打屋として打ちまくり、チームに多くの得点をもたらした。
あるシーズンでは中盤までに、打点のチーム内順位で三番目につけていることすらあった。
ここまでくると、エド自身が主役になる試合だって出てくる。
ヤケクソになったのか、腹を括ったのか、とにかくエドは打ちまくっていた。
そんなエドにもあだ名がついた。
「ゲーマー」。非常に単純なあだ名ではあったが、この頃のエドには、文字通り試合の行方を決定づける場面での活躍が目立った。
優勝を目前にした試合でも、エドのやることは変わらなかった。
ベンチの中でバットを握る感触を確かめ、打席に立つ直前には軽く素振りをし、ピッチャーのタイミングを見ながら打席に立ち、ボールにコンタクトする。
どこか緊張感が漂う試合ですら、エドは打点を平然と上げた。
エドが打席に立つと、相手がなぜかエラーを頻発するのも特徴だった。
変な回転がかかっているのか、それともエドのオーラが奇妙なのかはわからないが、よくエラーをする。
命拾いをすることも多かったが、そこも含めて、エドの実力といえば実力である。
──やはりエドは「ツイている」
そう褒めるファンはエドが打席に入るたびに歓声を上げて、彼を援護した。
あるいは、そういったファンと一体になった攻撃こそが、エドのツキを演出していたのかもしれない。
エドにとって、これだけの活躍の場を得られていることは、幸運以外の何物でもない。
確かに、エドは試合の途中からしか出ることはできなかったし、それを恨むこともあった。
ところが恨んでいた立場こそが、自分にとっても他人にとっても、かけがえのない場所になるとは。
エドは
──何があるのか、わからないもんだな
と思いながら、チーム内の競争を余所目にして、自分の仕事を全うしていった。
しかし、そのツキは野球と綿密に繋がっているものだったから、世の中の流れに対して発揮されるものとは言えなかった。
自分の周りが不穏になっていくことまでは、止められなかったのである。
──・──・──・──
──ツイてないなあ
そうエドが思うのは、何年ぶりだったか。
最初に思ったのは、兵隊としての訓練を受けているときのことである。
とても小さなことだったが徴集されてすぐ、行軍の訓練で靴の紐が解けた。
野球でスパイクの靴紐が解けたことは、1回も無い。それなのに兵士の格好をした途端に起こったのである。
周りは歩き続けているから、立ち止まって結びなおすわけにもいかない。
結局、ブーツがゆるんでいく不快感を堪えながら、最後まで歩き切った。
次に思ったのは、出征前に軍用のリュックを支給された時のことである。軍製品らしく頑丈な作りで、普段から使いたいとすら思っていた。
訓練中、備品を詰め込んでいると、端の糸がほつれているのが見えた。
──まあ、気にすることもないだろう
そう思っていたが、すべての備品を詰め込み終わってからリュックを持ち上げると、その端の部分から底が抜けて、詰めていたはずのものが下に落ちた。
唖然としたエドは、すぐに交換を要求しに行った。
3度目に思ったのは、出征に同行する上官を見た時のことだった。
──アイツと一緒に過ごすのか
と思ったエドの感覚は、間違ってはいない。
なにしろ、この上官は「部下いびり」で有名な人間だったからだ。
──頼むから、本番では違っててくれ
皆が思っていた事だったが、その上官は前に立つなり、エドの頬を平手打ちした。
エドは落胆した。
4度目に思ったのは、現地に着いた翌日のことである。
エドが向かった土地は気温も低く、雨の降らない土地だった。少なくとも、現地に着いた時期は雨の降らない季節のはずだった。
しかしながら一夜を過ごし、目が覚めた途端に頭上の空が曇り始めて、ぽつぽつと雨が降り始めた。
雨具は用意されていた。だが
──雨の心配がない土地だって言ってたよな?
という疑問が出てくると、エドはやはり
──ツイてないなあ
と思わざるを得なかった。
5度目と6度目は、現地で移動している最中に起こった。
まず小さな戦闘に巻きこまれたことである。エドの入っていた部隊が、道中で敵の小部隊に鉢合わせたこと自体が予想外だった。
その証拠というべきか、お互いがお互いの存在に気が付いた時点では、なんの音も立たなかった。
徐々に騒がしくなっていき、発砲をしあうまでに騒ぎが広がった。
銃弾が飛び交っていたが、準備をしていたおかげか負傷する兵は、エドの側にはいなかった。
そして牽制をしあっている内に、エドの銃が弾詰まりを起こした。地に体を伏せながら
──なんで、いまジャムるんだよ!
と、イラつきを隠せなかった。
戦闘の最中、銃や装備品に不具合が起こるのは、文字通り命取りになりかねない。
エドは排莢口の辺りを叩いて薬莢を出そうとしたが、どうにも噛んでしまって出すことができない。
発砲音が止むまで、エドは排莢行為を繰り返した。
何とか生き残れたという安堵と、ツキの無さで溜息をついたエドだったが、そういった行為を見逃さなかった男がいた。
あの、上官である。
「エド」
上官がわざわざ、エドのもとに近寄ってきた。
──俺のほうに来なくていいって
エドが思ったとしても、上官には関係がない。
「お仕事ご苦労。おい! みんなが敵と戦っている間、こいつは自分の銃と戦っていたぞ!」
笑いながら上官が言ったとき、皆は上官から標的にされたくない一心で、笑うフリをした。
──ああ、もう
エドは頭が重たくなるのを感じた。
そういう細かい不幸が降りかかったが、エドは兵士としての役割を全うしようと考えていた。
きっちりと仕事をしていれば、生き残りの確率は増えると思っていたからである。
目的地に着き、戦闘が発生した。
1日、2日と日が経って、少しばかり静かになった。砲火に気を付けながら、塹壕の陰から敵方を覗く。
向こう側からは音が聞こえることも、煙が立つこともない。
──やっとか
小康状態になったらしい。エドはやっと、息を抜くことができた。
この間に、前のようになったら困ると考えたエドは、銃をメンテナンスした。分解をするまではしないが、見える所は布巾で汚れを拭き取った。
それが終わると、エドは壁に寄りかかって目を閉じた。
なんせ、緊張感のせいでロクに休めていない。休むのなら今だ、とエドは体から力を抜いた。
「おい、エド」
近くにいた兵士が声をかけてきた。
──せっかくの休憩の時間が……
エドは重たい気分で、目を開いて応じた。
「なんだ。お前も休んどいたほうが良いんじゃないのか?」
「それが、そうもいかないんだよ」
「なんで?」
「見張りをしなきゃいけないからだ」
確かに、話しかけてきた兵士の首からは、双眼鏡がぶら下がっている。
「大変だな、お前も」
「ああ……ちょっと頼まれてくれないか? 小便に行きたくなっちまったんだよ」
「おまえ……」
見張りを代わってくれということらしい。
この頼みを聞かず
──さっさと行って、さっさと帰ってくれば良いじゃないかよ
と退けることもできたが、この時のエドは聞き分けが良かった。
「わかった。やってやるから、さっさと行ってこい」
「助かる。じゃあ、ちょっくら行ってくるわ」
エドは不機嫌さを崩さず、粗相に行く兵士の背中を見届けた。
──じゃあ、やってみるか
エドは双眼鏡を目に当て、体を塹壕から少しだけ出した。
しばらく眺めていると、向こうの様子が少しずつ分かってくる。
端で体を横たえている奴もいるし、律儀に銃を構え続けている奴もいる。身を屈めながら移動している奴も見えた。
──面白いもんだな
興味を持ちつつ眺めていたが、早めにあの兵士には、帰ってきてもらいたい。
それから少しして、双眼鏡をエドに預けた兵士が返ってきた。
「いや、悪い悪い」
悪びれもしていない態度が、なんとも気に食わない。
「ほら、さっさと持ち場に戻れよ」
呆れた声で言ったエドが、双眼鏡を渡すために身をよじった瞬間だった。
エドは右胸の辺りに熱を感じた。
──なんだ?
そこを抑えると、温かくぬめっている。自然と体から力が抜けて、倒れていった。
次第に熱が激痛へと変わっていく。
「クソッ」
エドは呻いた。近くにいた兵士はその様子を見て
「攻撃だ!」
と叫んだ。見張りを変わった兵士が
「おい、大丈夫か!」
と言いながら、エドの体を押さえている。
「いや、大丈夫なわけないだろ……」
「すぐに衛生兵は来るだろうから、辛抱だぞ」
エドは痛みに耐えながら、体を横にしている。
「ああ、まったく……」
「どうした? あまり喋るな」
意識が飛びかけたところで、エドは呟いた。
「まったく、ツイてねえな……」




