9 マット・テイラー
血筋というものは、意外と当てにならない。
マット・テイラーの父は医師であり、母は看護婦だった。
医療に従事する一家の生まれではあったが、進む道は全く違ったといって良い。
幼少期のマットは物静かな、いかにも良家の生まれといった感じの、物分かりの良い子供だった。
父の言うことも、母の言うことも、よく聞いた。しかしそれは、ロールス・エイブラムスのような束縛された従順さというよりも、両親の性格を引き継いだ素直さの表れだった。
その素直さゆえに、マットは幼いころ
──父さんや母さんのような、人を助ける人になる
という夢をみていた。それはつまり、医者になりたい、ということに他ならなかった。
そんなマットが抱く夢の潮目が変わったのは、13歳になってからのことである。
父と母、そして弟と一緒に球場へと足を運んだ。
午後2:15からプレイボールが宣告される、デイズ対ブラウンソックスの試合だった。
両チームはこの時、首位を争っていた。それだけに、ファン同士の熱のぶつかり合いには心を揺さぶるものがあった。
球場に
「Let's go Days!!」
「Brown sox!! Go we go!!」
というふたつのチームを応援するコールが鳴り響く中、試合は延長16回まで続いた。
16回の表にデイズが2点を勝ち越したが、裏にブラウンソックスが3点を取り返してウォーク・オフ。
この劇的な試合を見た少年時代のマットは、目を輝やかせた。
それ以降、野球の虜になったマットは、野球の試合がラジオで流れていると、必ず聞くようになり、自分でもボールを持って遊ぶようになった。
あまりに、のめりこんだマットの様子を心配して、父は
「マット、熱に浮かされるなよ」
と忠告したが、マットは上の空で、何も聞こえてないふりをした。
──・──・──・──
高校、大学と進学をし、親の言いつけを守って医療と衛生の知識を学んでいたが、その一方で野球も続けた。
相応の、絶え間ない努力が必要だったが
──これだけやってれば、親は何も言わない
ということを目論んでの行動だった。
両親はマットの目論見の通り、マットに何も言わなかった。
──野球をやり続けているのは心配だ
とは思っていただろう。だが医学についても勤勉である息子を責めてしまうのは、親として余りに身勝手だと黙っていたのだ。
マットは昼間、大学のキャンバスでの勉強をそこそこに野球をし、夜になるとペンを持って予習と復習に励んだ。
眠気が強くて双方にエラーをすることもあったが、それでも周りの10人が10人
──マットは頑張り屋だ
と思うほどに、すべてに打ち込んだ。
マットの前には、ふたつの道が出来上がっている。
ひとつは、親と同じように医者となって、父の病院を長男として継ぐという道。
もうひとつは、自分の好きな野球で、自分自身で未来を切り開いていくという道。
マットは迷わなかった。
──自分は、野球をしたい
そのことを親に告げた時、父親は強烈な剣幕で息子を叱りつけた。
「おまえは……医者という仕事がどれだけ尊いのか、知らないのか!」
「知っているよ」
「ならなぜ、その道に進まない! 優秀なお前が医者にならないなんて、患者はどうなる!」
「自分のやりたいことは、自分で決めたい」
「世迷いごとを言うな。お前はとんだドラ息子だった、なんということだ……」
父の落胆は、マットにも痛いほどわかった。
患者のことを第一に考えてきた父が、自分の息子にもそういう道を歩んでほしいと思うのは、当然なのだ。
現に、そういう父のことをマットは尊敬していた。
──それでも
と言いかけた時、マットの父は
「野球なんて、ごろつきがやるものだ」
と、小さく呟いた。
マットにとって、聞き捨てならない言葉だった。
父に鋭い目を向けて言った。
「父さん。自分は、野球で人を喜ばせたい。それが世の中の良薬になると信じています」
──・──・──・──
マットは、クロークハッチ・チェッカーズに入団した。
ポジションはライト。入団時の触れ込みは
「走攻守、何でもできるオールラウンダー」
だった。
実際、喧伝に耐えうるだけの素質を持っているのは間違いなかった。
塁間を走るのに3秒半しか掛からず、バットを振ればコンタクトに優れ、守備に回れば好捕を連発する。
ルーキーながらシーズンを通して出場し、残した数字は
「.257 4本 48打点 32盗塁」
というものだった。
紛れもない、トップ・プロスペクト。
そういう選手が注目されないはずもなく、瞬く間にスター選手の仲間入りを果たすことになった。
ファンが見るマットの姿は華々しいが、彼自身は泥臭い野球を好んだ。
手を抜かず全力でプレーをする。そのぶん怪我もしたが、これも勲章だった。
しかしチームメイトに対する態度は、温和で柔らかいのが常だった。
自分で努力した分、他人の努力や美点が見える。そういう物の見方をしている。
たちまち輪の中心に入ったマットは、リーダー格として、クセ者揃いのチェッカーズを取りまとめることになった。
特に手を焼くのはカーター・フレイマンとサイモン・ポーリーのいざこざだった。
カーターはサイモンを軽蔑し、サイモンは傷付いても言葉に出さない。
──いっそ、反抗してくれれば良いんだが
そんなことを思っていたが、サイモンはそういう事をしないと知っている。
彼は優しすぎる。そう思った周りは、サイモンに代わってカーターを叱りつけた。
「カーター、目に余る行為だ。聞いているこっちの身になれ」
カーターは白人同士なら気を許す。だから、黒人であるサイモン以外のチームメイトが取り成すしかない。
「馬鹿言うなよ。あんな黒犬と一緒に野球をする身にもなってほしいね」
「彼は尊厳を持つ、ひとりの人間だぞ。彼が犬のようだというのなら、お前はもっと下卑た存在だ」
「それならそれで結構。あいつが黒犬なのには変わりない」
カーターを諭そうとすると、いつもこういう堂々巡りをする。
いっそ、社会的な罰があったほうが良いが
──俺は、あいつと野球をしたい
と言っていたサイモンの言葉を無視もできない。
マットも、カーターの中にある「サイモンを認められない」という呪縛を知っている。
時折、カーターの口の端が曲がるのがその証拠だと思っている。
──自分たちは野球で繋がった仲間じゃないか
そう思うし、口に出そうとするが、そんなに単純でもない。
板挟みの中で、マットもまた苦しんでいた。
「どうしたんだ、マット」
背中越しに声が聞こえた。昨年入団した、リック・ハートだった。
「いや、考え事を」
軽口を叩くように言ってみたが、重々しい表情までは変えられなかったらしい。
リックもすぐに感づいた。
「ああ、サイモンとカーターのことか」
「まあね……」
マットは肘を使い、頭に杖をついた。
リックは息をのんだあと、ひと息に言った。
「カーターはクズだよ。仲間を認められないなんて、あんまりだ」
マットは、普段の明るい言葉遣いをしないリックに驚いた。
「そうか、そう思うか」
「ああ、思う」
しばらく沈黙した。
──簡単に認めて良いんだろうか
マットはそう思った。
「いっそ、追い出すか?」
マットはリックに訊いてみた。
リックは即答した。
「それもいいと思う。オーナーに直訴すればすぐに決まる」
なら、そうしようか。マットがそう思った瞬間、父親の元を離れるときに言った言葉が渦巻いた。
──野球は、良薬になると信じています
あの後、母から手紙が届いた。
「父さんは本心から言ったんじゃないの。あなたを手放すのが惜しかっただけ」
それくらい分かっている。それでも、あえて絶交に近い形で家を出たのは、自分が信じたことを成し遂げたいからだ。
──どこか、信じ切れていなかったかな
マットは、席を立とうとするリックを呼び止めて
「カーターは信ずるに値しないかもしれない。だけど、野球の持つ力を信じてみようと思う」
と言った。
リックは
──やってみればいいじゃないか
と、目だけで言った。
──・──・──・──
しかし、マットの信じたものは想像よりも無力だったらしい。
カーターは心を入れ替えることをしなかった。
その彼を口汚く攻撃したのが、ロールス・エイブラムスである。
ロールスは時に、カーターがサイモンに対して使う言葉よりも、もっと悪意のある言葉を使って罵倒した。
周りの人間も
「これじゃあ、カーターのほうが被害者に見える」
と言って止めようとしたが、ロールスは
「自分の行為は正しい」
と言って、それを寄せ付けなかった。
マットが、ロールスも比較的に話を聞くハリー・ボルドウィンと共に
「その悪口を止めることはできないのか、ロールス」
と言ってみても、返答は
「ごめんだね」
と素っ気の無いものだった。
マットはなにも、カーターを擁護しようとしているわけではない。
カーターには、相応に反省をしてもらわなければならない。
ただ、カーターの粗暴さが収まったとしても、まだロールスがいるとなれば、皆の気は休まらない。
ほかにも、オイラン・エッガーという暴れん坊がいる。せめて、ロールスだけでも気を収めてくれれば楽だった。
マットから見て、ロールスはカーターやオイランとは違う。
ただ、気分のままに暴れているというわけではない。理知的な部分を見せながらも、自分の頭の中では言葉が反復していて、それを吐き出さなければパンクしてしまう。
そんな風に見える。
少なくとも、頭は切れる人間なだけに、言葉を聞き入れるだけの器もあるはずだと思っている。
それでも、ロールスは皆の言葉を聞き入れない。
──孤独をこじらせている
と考えているのはマットだけではなかった。
このチームはよく「ビックリ箱」と言われる。
外から見た選手の個性が際立っていて、面白みがあるから言われている訳だが、内から見たら全く別なのだ。
個性が強いということは、個人の我の強さもあるということ。
そういうチームを取りまとめるのは、並大抵の器では務まらない。
幸い、経験の豊富なロラン・バークライや、投手のまとめ役であるアイク・ウィリアムス、チーム全体を総括するジェイコブ・フューリーといった面々がいるし、監督のゲイリー・マクドナルドが、このチームの気風にうまく嵌っている。
ただ彼らがいなくなると、どうなるかわからない。
そういう怖さがチェッカーズにはある。
──外から見た自由奔放さとは裏腹に、実は時限爆弾のような組織だ
マットはチェッカーズを、そう考えている。
自分もできる限り、チームメイトの相談に乗るようにしているが、人ひとりで出来る範囲には限界があった。
こういうことが頻発する限り、自分の精神は持たないとも感じた。
1927年のシーズン、マットは29歳だった。
これくらいの年齢になると、自然とチームを取りまとめる役割が出てくる。
気苦労が多かった。カーターやロールスの問題もそうだが、どうにも世間の空気が悪い。
このころ、西側の国の戦争が活発になって
「こっちでも始まるんじゃないか」
という噂が広まり始めていた。
そういう物騒な話があると、血気に逸る人間がいる一方で、怯える人間もいる。
マットはどちらかとえば怯える側で、
──みんなのメンタルが乱れないだろうか
ということを常に考えていた。
実際、まだ他人事とはいえ、いらぬことを考えてしまう。
──もし、火の粉が飛び掛かって来たら
燃えるのは自分かもしれないとは、臆病で繊細な人間ほど考える。
それが露骨に表れていたのが、カール・フォスターだった。
彼は「カール・ベア」と呼ばれるような大きな体を持っていたが、その一方でかなり臆病な性格だった。
ジャスティン・ラッセルも臆病と言われることが多かったが、今回に関しては反応がにぶい。
マットはカールのケアをするためにも、と会話をすることが多くなったが、話しているこちらの気が滅入るほど、カールは弱気な人間だった。
カールの中では、憶測が憶測を呼び、収拾がつかないことが常なようだ。
「カール。みんなを疑うようなことはよせよ?」
マットはそう言うのが精いっぱいだった。
カールは時たま、人が信じられなくなる。だから釘を刺しておかないと、さらに気負うことになる。
ピッチャーとしては致命的だと思われた。
こういうことを繰り返すと、マット自身にまで相手の考え方が伝染するときがある。
結局、世間やロッカールームの雰囲気に流されてしまったのか、マットは調子を崩した。
そのあと調子は戻らなかった。それでも使われ続けて、プロになってから初めて、打率が.250を切った。
──今年は、疲れた
思ったのも束の間のこと、次の年には戦争が始まった。
マットは戦時中も2シーズンをプレーしたが、成績が上がりきらず、ついに
「徴集状 マット・テイラー」
と書かれた紙と共に、野球人生は幕を閉じることになった。
マットは最初、開放感に包まれたが、すぐに
──大変なことになった
と実感した。
ひと通りの訓練を終え、送られた先は西方の激戦区。死傷者も多い。
マットは戦塵にまみれ、爆発音に耳を侵されながら、それでも生き延びようと、ただそれだけのために戦った。
しかし、前線へと送られたのち、砲火に撃ち抜かれて命を落とした。
33歳になって、間もなくのことだった。
──・──・──・──
マットの葬儀には、多くの人が参列した。
父母の姿もあったし、チェッカーズのマウンドを守り抜いているタイラー・オーニールと、監督のゲイリーの姿もある。チェッカーズのファンの姿も、疎らながら在った。
戦時中とは思えない参列者の数に、地元の報道紙は
「マット・テイラーには人徳があった」
と誉めそやした。
ただ、マットの父はそう思っていなかった。
「マットは、普通の人間です。努力家で、勤勉で、優しく、そして野球の魅力に取りつかれた、普通の人間でした。そのような人間がこれほどに囲まれ、想われるというのは、マット自身がどうこうというより、あなたがたの優しさが、そうさせているのだと思います」
マットはそういう父の、息子であった。




