16 ロールス・エイブラムス
子供の時の記憶。
大人になってからも色濃く残るそれは、決して、美しいものばかりでは無い。
ロールス・エイブラムスは今になってもなお、トラウマから抜け出せないでいる。
彼の親は、とても厳格だった。ロールスがミスすることを許さない。
それは父も、母も、同じだった。
子供に対する愛情というものは、時に歪むことがある。
その歪み方とは人それぞれだが、ロールスの両親の場合、我が子の将来を心配するあまりに暴力的な行為に出ることも、珍しくなかった。
例えば、7歳のロールスが手を滑らせて皿を割ってしまった時の話である。
「ロールス。7歳にもなって、なんてどんくさいの!」
鼓膜が震えるほどの声を出した母親は、ロールスの腕を力いっぱいに掴んで、自分の部屋に引きずり込んだ。
ロールスの母親の部屋には「おしおき道具」があった。
つる状の植物を使って作られたはたきである。
ロールスは何も言葉を発しなかった。
発せなかった。
母親はロールスが何かミスをしたときに、必ずはたきを使って尻を叩いた。
その痛みと、狂気的な行動の仕方に、子供のロールスは圧倒されていた。
時にその「おしおき」は、1時間もかかることがあった。
終わった頃には、ロールスは精魂尽き果てている。本当だったらベッドに体を横たわらせたかったが
「ロールス・エイブラムス。反省するまで立ってなさい!」
とヒステリックに叫ぶ母親の前で、そんなことはできなかった。
父には、母のようなヒステリックさはない。
ただその分、すべてを計算してやっているような冷酷さがあった。
ロールスは小さなころ、蝶が好きだった。
親から離れた場所にいるときには、必ず蝶を追いかけた。たとえ蝶の柄が地味であっても、ロールスにとっては構わなかった。
そんな好きなものを、手に入れたくならない子供はいない。
ある日、幼いロールスは小さな黄色い蝶を見つけて
──きれい
と思い、必死に追いかけて捕まえた。
ロールスは喜んだ。
黄色の蝶は、この辺りでは珍しい。それを得たという事実は、ロールスを興奮させた。
そして、ふだん恐怖の対象である父親にも、そのことを自慢した。
右手に蝶の羽をつまみ、嬉々とした表情を見せながら
「お父さん、見て!」
と、無邪気に言い放った。
父は始め、とても冷たくロールスを横目に見たが、にっこりとしてロールスに向き直った。
「どこで、取ってきたんだ」
ロールスに問いかけた。
「え、えっとね、ちち近くの公園で、と、飛んでたの」
ロールスは問いに答えた。無邪気な笑みを浮かべながら
──お父さんも喜んでくれるかな
と思った。
「そうか」
父親の口角が引き上がったその瞬間、ロールスの左頬に衝撃が走った。
何が起こったのかを判断するのに時間がかかった。視界からは父親が消えている。
そして、頬がじんじんとしてくると、ようやっと、どうなっているのかを理解できた。
──父さんがぶった
わかった時、ロールスは悲しいとは思えなかった。ただ唖然とするしかなかった。
父親の顔を覗くように見てみると、いつもの冷たい目線に戻っている。
「おまえはクズだ」
と、最初に父が言った。
「おまえは、生き物の自由を奪うクズだ」
ロールスは、体を震わせることしかできなかった。
心の中では
──ちがう
と思っていても、それを言葉にすることは、圧倒的な存在である父親の前ではできない。
ようやっと涙が出てきたが、それを必死に堪えようとした。
涙を流す自分を父が見たら、どう言うのか。きっと
──被害者面をするな、ぼんくら
と、言うはずである。
──・──・──・──
ロールスは13歳の秋まで、外では礼儀正しく、内では服従しながら生きた。
ところがある日、ロールスの頭の中に電撃が走ったような感覚があった。
──ああ、そういうことか
電撃が走り、途端に善人の皮を脱ぎ始めた。
すぐに実家を飛び出し、自ら生計を立て始めたロールスにとって、全てが理不尽だった。
自分の親がしてきた仕打ちも、善人ぶる周囲の人間も、社会も。
苦しまないために痛みを麻痺させていた分、それが痛みであると感じとった反動は、とても大きい。
ロールスは全てを攻撃するようになった。
口応えをするような人がいれば、容赦はしなかった。
その人の言説だけではなく、人格まで攻撃して木端微塵にしようとした。
そして、ことあるごとに勝利した。
──周りにいる人間は、めくらばかり
そういった人間に勝って、自分の正しさを証明する必要があった。
ロールス自身、頭は良かった。だから人に言葉を投げつけるとき、自分にある道理を曲げることなく、相手にある欠点を責めることは容易だった。
ただ、やればやる分だけ、周りには嫌われた。
──あいつは気が狂ってる
と言われ、孤立した。
──・──・──・──
そんなロールスには、弁舌よりも自慢できるものがあった。
彼はマウンドからボールを投げる才能に恵まれている。
下から風が吹きあがっているかのように感じられるストレートに、そのストレートと見分けの付かないスプリッター。このふたつを操ることができた。
もともとは両親が、健康面の増強の為にさせたのが始まりだった。
誰よりも肩が強かったロールスは、クラブチームのコーチに
「ピッチャーをやると良いんじゃないか?」
と言われて、その日のうちにマウンドに立った。
クラブチームの中にいる時は、親からの目は届かない。
そのせいか幼少期から、ロールスは自由に体を動かすことができた。
思い通りに体を動かせた時の、ロールスのポテンシャルは素晴らしかった。少なくとも、チームで一番のボールを投げていたのは間違いない。
そしてクラブチームへの所属は、家を飛び出した後も続いた。
一人暮らしのロールスは飲食店で働き、稼いだ金で読書と野球を楽しんだ。
親のいる実家では礼儀正しく座っていたロールスも、一人きりとなった今では足を投げ出し、寝そべって座るようになった。
子供たちが集うクラブチームの年齢制限もあって、大人の集うクラブに所属するようになってからも、群を抜いたピッチングは続いた。
しかしながら同時に、より強くなった社会常識と、人間関係とで苦しむようにもなった。
──育ってからも馬鹿なやつが多い
そう思ったロールスは
──こんなところに居れるか
と、怒りを露わにしてクラブを抜け、一人で勝手にやろうかと思った。だが
「ロールス、君には才能があるんだ。どうか、一緒にやってくれ」
と、年老いたコーチから乞われて、しぶしぶクラブに残った。
その老人コーチは、普段は頼りないほどに優しかったが、勝負ごとになると一気に鋭い感性を働かせる人だった。
他人への罵倒を繰り返すロールスも老人コーチに対しては、排撃する気力が生まれなかった。
我慢の甲斐もあって、ロールスはプロのチームに入団することになった。
「いい選手だと認められたんだな。おめでとう」
老人コーチは、柔らかい笑顔でそう言った。
自分を認めてくれる人間はいない、と思っている中で、あくまでも認めてくれていた人間と離れなければいけない。その哀愁は今までの関係も含めて、ふだん刺々しく人と接するロールスにすら
「今まで、ありがとうございました」
と、温和に言わせる出来事だった。
荷物をまとめ、クロークハッチという町に向かったのは、クラブを抜けた3週間後の木曜日のことである。
──・──・──・──
クロークハッチ・チェッカーズというチームには、多様な人間がいた。
人に分け隔てなく接する柔和な人間がいるかと思ったら、自分よりも狭量な人間もいる。
理知的な人間がいるかと思えば、逆に頭がすっからかんな人間もいる。
──ほかのチームもこうなのか
ロールスは最初の内、そう思っていたが、入って暫くしてから周りが見えてくると
──このチームが特別なようだ
ということに気が付いた。
そんな特異点のようなチームの中でロールスもまた、持った性格から突飛な人間として知られるようになった。
しかしそれはファンからではなく、チームメイトからである。ファンから見たロールスは、優秀なリリーバーの一人という程度のものだった。
「ロールスもいい加減にしろ!」
普段は温和で、自分を出さないマット・テイラーを怒鳴らせたことがある。
きっかけはカーター・フレイマンとの言い合いだった。
カーターを醜い奴だ、と常々見下していた。
チームメイトのサイモン・ポーリーのことを黒人である、という理由で差別していた。
同じように粗野な奴は何人かいる。
その中でも一本気なジェフ・オーガスタや、自分の内面をさらけ出すようなオイラン・エッガーといった面々と比べると、正直さもなければ自分の核もない。
「ドブでも飲んでろ、クソッタレ」
その呟きから2人はヒートアップし、殴り合いになったところで、大柄なダニー・ゴールドバーグとカール・フォスターが、羽交い絞めする格好で止めた。
「お前は自分の弱さが怖いんだ。仔犬の吠え方によく似ているよな?」
「減らず口だけのお前が言うのか? 陰気なのはそっちだろうが!」
「オウム返ししかできないバカはすっこんでろ、キチガイはキチガイらしくクソだけ産んでろ!」
「てめえ、ぶっ殺してやる!」
チームメイトが力づくで止めた後も、こういったやり取りが延々と続いた。
あまりに醜悪だと思ったマットが見かね、あえて怒鳴ったのである。
そのあと、チームのまとめ役でもあったジェイコブ・フューリーが
「あとは、俺が話を聞く。上にも知ってもらう必要があるな」
と、目を怒らせながら言ったあと、2人とロラン・バークライ、エルヴィス・ホールトンをクラブハウスに残した。
「悪いのはカーターだ。俺に悪いところなんか一つもないだろう?」
ジェイコブから話しかけられたロールスは、悪びれずにそう言った。
「確かに、カーターは悪い。サイモンに対する態度は見落とせない」
疲れた様子のカーターに鋭い視線を向け、そのまま、それをロールスに向けた。
「だが、お前も十分悪い」
ジェイコブはため息を吐いていた。
──結局、こいつも臆病なだけだ
ロールスはジェイコブを心の中で見下した。
自分にとっての悪は、皆にとっても悪のはずだ。それを止めようとしたのに責めを受けるのは理不尽だ。
ロールスは反論した。
「ジェイコブ、なぜコイツを庇うんだ? それも悪行じゃないか」
これを聞いたエルヴィスが、ロールスの目を見て
「ロールス、ジェイコブはカーターのことを庇ってなんかいない。お前は人の言葉を聞かなすぎる」
と言った。
目線の先で、カーターとロランが2人きりで話してる。
排除するべき人間が、ああやって誰かと話していることが許せない。
「ロールス、ひとつ言っておく。チームというものにいる以上、嫌いなものを嫌いなままでいるのは良くない。少なくとも忍耐を覚えられなければ、災難を招くぞ」
ロールスは
──やはり、こいつは臆病者だ
と思った。
──・──・──・──
チェッカーズの中で、ロールスが比較的穏やかに話せる人間が3人いた。
ひとりはエルヴィス。
ひとりはマット・テイラー。
そして、もうひとりはハリー・ボルドウィンである。
エルヴィスは賢かった。よく本を読み、知識を多く蓄えている分、会話の中に含蓄される理知的な言葉や態度が、ロールスを冷静にさせた。
だから、自分と話すに足る人間だと思っている。
マットは育ちの良さと、人を熱くさせない冷静さを持っていた。
だから激しやすいロールスでも、心を静めたまま話すことができた。
その分、本心を出すことも無かったが、話していて心地の良い存在ではあった。
ハリーに対しては、その2人とは違う理由で穏やかになった。
それは人格に影響されて、というものではない。ただハリーを前にすると、今まで回っていた舌が回らなくなる。
この3人とはよく話した。
ロールスにとって、自分に無いものをくれる、そんな存在だった。
それでも、別れというものは急にやってくる。
戦時下、徴集された4人は、全員が別々のところに配属されることになった。
エルヴィスは通信基地に、ハリーとマットは前線に送られた。
ロールスは後方支援の部隊に配属されることになったが、ハリーとは全く違う方面である。
しかし、ロールスの癖はここでも止むことはなかった。
同僚には見下した発言をし、上官に口応えばかりして、次第に嫌われ者になった。
最初は彼に付き合おうとした人間も、戦場のくすんだ空気もあって、次第にロールスから離れていった。
ロールスは
──薄情なもんだな
と思いながら、ひとりきりで荷を運んだ。
ひとりで居ると、かつて ”仲間” として野球をやっていた面々の顔を思い出す。
それほど年月が経っていないはずなのに、懐かしさがある。
──こんなところにいるくらいなら、野球がしたい
そんなことを思っていると、飛行機のエンジン音が聞こえてきた。
戦場では日常茶飯事である。音で、大きめの航空機であることは判断できた。
音がこちらに向かってきている。このままだと真上を通りそうだ。
「敵だ!敵だぞ!」
と、叫ぶ声が聞こえた。
ロールスはその声でハッとして、音のほうを見た。黒光りしている機体は、確かに見慣れたものではない。
──まずい
ロールスは走り出したが、すぐに笛を鳴らすような音が鳴り始めた。
少し先から爆発音が聞こえる。
空襲だ。きっと、支援基地となっているこの場所を狙っている。
すでに周りは退避を始めている。爆発音は近づいてきている。
──そういえば、塹壕の場所はどこだ
ロールスは聞いたことがない。人と話すことを怠ったせいで、聞きそびれていた。
そうなると、ひたすら逃げるしかない。
大きな音が後ろから迫ってきている。
物陰を見つけ、そこに身を飛び込ませた。
爆風は壁ごと、ロールスを吹き飛ばした。
耳が聞こえなくなっている。
何も聞こえない中、ロールスは過去を思い出していた。
両親が憎いのに、両親から与えられた野球に縋っていた自分がいる。
ひとりを誇りに感じていたと同時に、物足りなさを感じていた時間がある。
ハリーとうまく話せなかった理由も、今ならわかる。
意識が切れる瞬間、浮かんだのは両親の姿だった。




