冬の蜃気楼
悠里が外に出てくると言い出したとき、私、秋篠奈留、は直感的に何かが起こると思った。
それは彼の目線や癖からも伺えたし、今日一日は何かにつけてメモリアルになり得る危険な日なのだから、思考を止めなければ必然警戒に至るものだろう。
気づかれないよう慎重に時間と間隔を空けてから、私も悠里の後を追うことにした。
なけなしの高アルコール飲料を和佐君にプレゼントし、元々打ち上げで摂取していた量と合わせて彼の限界量を超えることだろう。つまり戻りが遅い私たちを心配して外に出てくる友人の心配は不要ということだ。
我ながらどこまでも計算づくめの思考で感情が乏しい気がして嫌になる。けれどもそれが今の私の役どころなのだと思えばどうってことはない。
冷静を装いつつも、五分ほど先にクリスマスの夜の世界に飛び出した親友のことが不安で仕方がない。
もしかしたら、という気持ちは前々から何となく抱いていたけれど、それがもしも今日的中してしまったら、私は私でいられるだろうか。
児童館の外への扉の前までやってきた。その向こう側は大学の正面出入り口まで一直線なのだが、そこまで来て足が止まった。不安もあるが、一本道であるその場には死角が無いことに気が付いたからだ。一体何から気づかれないために死角を求めるのか定かではないが、私はとっさに踵を返して百メートルほど先にある書店部用の書籍搬入口の方から外に出ることにした。
――ここなら、植木があって正面入り口まで見られずに近づけるかな。
誰の視線を気にしているのか曖昧なまま、私は静かに暗唱番号を入力して搬入口の扉を開く。
年末の夜も更けたこの時間はおよそ人間が活動できるような環境ではない。コートを羽織っているとはいえ長らく暖房の利いた部屋で体を動かしていたので、外気に触れた瞬間に思わず縮こまってしまうほど外は肌寒かった。
幸いにして照明設備は非常通路の緑の明かり程度で、期待していた植木の連なりも出入り口付近からの視線を上手く隠してくれそうだった。あとはその場所まで都合数百メートルの道のりを進んでいくのみ……。
――けれど、
目的地に着くまでの途中で、私は足を止めざるを得なくなった。
「…………………………え」
暗い夜道にうっすらと、一人の人影が見えた。
それは周囲の薄暗さと、その人の来ている服のグラデーションも相まって、朧気に人の形を象っている程度に過ぎない。近づけば辺りの闇に溶けてしまいそうな微かな在り様は、夏場に見る蜃気楼のようにも思えた。あれは夏場の気温と眩い光の屈折によって起こる現象なのに対し、こちらは凍り付くような乾燥した世界の、宵闇の暗さに滴り落ちた水墨のそれのようである。
「どうして…………」
そんな不確かな実像でありながらも、私はそれが誰なのか、瞬時に理解した。ここで気づけないようでは彼の傍で目を光らせていた意味がないというもの。
相手は気づいてはいない。木々が微かに揺れ、遠くで車が風を削り取っている以外に音を立てる者はいないのだが、何かに気を取られているのだろうか。
――少しずつ、対象に詰め寄る。
あるいはそれが本当に蜃気楼であるのか、幽霊の類であれば、もういっそそちらの方が気が楽である。何せこのままでは、私は魔王(友人)と戦うことになるのだから。
…………。
……。
「……来てたんだ」
「……っ!」
真後ろに迫るまで声をかけなかった。そうすることで自分の言葉にインパクトを与えたかったからだ。既に刀は抜かれている。
「秋篠、さん……」
スーツ姿の彼女は口を歪めたままこちらには目線もくれず、居場所の悪そうな顔をしていた。普段の、といっても私が知っているのは高校時代の頃までだけど、彼女はそんな無作法な所作はしないので、よほど動揺しているのだろう。問題はそれが私によるものか他によるものなのか、だ。
「メリークリスマス。玲菜ちゃん」
少しは皮肉を込めて言えただろうか。
新星大学経済学部 一年
冬の蜃気楼こと深千代玲菜がそこに立っていた。