十階
◇◇◇◇
十階層・ルフィラン領、フォンアルの街。
夜の湿気を孕んだ風が、石畳の隙間をゆっくりと撫でていた。
雨の名残を吸った路地は黒く濡れ、頭上を横切る洗濯紐が月明かりの下で細く揺れている。崩れかけた石壁には古い水染みが浮かび、かびた木材と鉄錆の匂いが沈殿していた。
その上を。
ひとつの影が疾走する。
青髪の少女だった。
細い身体が夜を裂くたび、腰まで流れる青髪が月光を弾き、深海のような蒼を揺らめかせる。短いスカートの裾が翻り、白い脚が屋根の縁を鋭く蹴り抜いた。
速い。
だが、その表情には明確な焦燥が滲んでいた。
少女は振り返る。
赤い瞳が背後にいる何かを探す。
誰もいない。
追跡の気配もない。
スキルの反応も感じない。
なのに。
「……なんで」
喉が乾いていた。
逃走経路は変え続けている。
裏商人用の抜け道を通り、スキルで偽装工作を展開し、追跡スキルの攪乱も撒いた。転移石も惜しまず砕き続けた。
それでも。
逃げ切れた感覚だけが、どうしてもなかった。
まるで最初から、自分の行き先すべてを把握されているような感覚。
嫌な汗が背を伝う。
少女は速度を上げた。
屋根を蹴る。
空気が裂ける。
そのまま隣の建物へ飛び移った瞬間だった。
「いやぁ、よう逃げるなぁ」
声。
真横。
「――ッ!?」
反射で身体が跳ねた。
石壁を蹴り、強引に距離を取る。
視線の先。
月明かりに照らされた屋根の端へ、男がひとり腰掛けていた。
片膝を立て、頬杖をついている。
最初からそこにいたみたいに、自然に。
「普通、転移封鎖された時点で諦めるんやけど」
欠伸混じりの声だった。
気怠げで、やる気がない。
「裏ルート知っとるんは偉いな」
少女は息を呑む。
どうやって先回りした。
考えても、考えても。
何ひとつ分からない。
男は視線だけを向けてくる。
その目には執着も敵意も薄かった。
ただ、処理対象を確認しているだけの温度。
それが、余計に恐ろしい。
「まぁでも」
男は小さく首を鳴らした。
「ダンジョンマスター相手に逃走を選ぶんも、あんまおすすめせぇへんな」
少女の背筋を冷たいものが走る。
ダンジョンマスター。
その言葉の重みを、このダンジョンで知らない者はいない。
全階層を攻略した怪物。
地形、魔物、生態、アイテム。
ダンジョンの生き方を、すべて知り尽くした存在。
だから逃げ切れない。
「……化け物」
思わず漏れた呟きに、
「失礼やなぁ」
男は苦笑した。
「ちゃんと社会に貢献しとるダンジョン警備隊やで?」
その瞬間。
少女は地面を蹴った。
迷わない。
会話を続けた時点で終わる。
本能がそう叫んでいた。
青い髪が夜へ散る。
男はそれを見送り、小さく息を吐いた。
「元気やなぁ……」
立ち上がる。
次の瞬間。
その姿は、もう消えていた。
屋根の上を風だけが通り抜けていく。
◇◇◇◇
二十六階層・フィリストル領。
乾いた大地が、轟音と共に砕け散った。
衝撃で地面が沈み込み、岩盤へ蜘蛛の巣状の亀裂が広がっていく。巻き上がった土煙が視界を覆い、その中心で巨躯の怪物が咆哮していた。
二十六階層ボス・ゴブリンジャイアント。
通常のゴブリンとは似ても似つかない。
山のように膨れ上がった肉体。
岩を積み重ねたみたいな筋肉。
握られた棍棒は、もはや武器ではなく攻城兵器だった。
振るうたび、大気が軋む。
轟音が遅れて鼓膜を叩き、大地そのものが震えていた。
だが。
「遅い」
ソルは、わずかに身体を傾けるだけでそれを躱した。
棍棒が地面へ叩き込まれる。
爆音。
砕けた岩片が暴風のように吹き荒れる。
その中心へ。
ソルは、すでに踏み込んでいた。
黒い短剣が閃く。
一筋。
それだけ。
ゴブリンジャイアントの胸が深々と裂け、大量の血飛沫が宙へ噴き上がった。
怪物が絶叫する。
耳障りな咆哮が空間を震わせる。
ソルは片手で耳を塞ぎ、露骨に顔をしかめた。
「うるさ……」
緊張感の欠片もない声音だった。
背後ではラフィが笑っている。
「いやぁ、二十四階層のオーガより弱いですねぇ」
「ブルードラゴンの方が強かったです」
ルナも淡々と続けた。
数日前。
二十三階層でクラーケンを討伐。
翌日には二十四階層・オーガ。
そのまま二十五階層・ブルードラゴン。
異常な速度で攻略は進み、そして今。
二十六階層ボスですら、彼らにとっては障害にすらなっていなかった。
ソルが短剣を構える。
『貫通刃』
刃が淡い黄色の光を帯びる。
空気が鋭く裂け、周囲のオーラが一点へ収束していく。
ゴブリンジャイアントの巨体が、本能的な恐怖に後ずさる。
その時だった。
ぱきり、と。
本当に小さな音。
ソルの首元。
下げられていたネックレスへ、一本の亀裂が走る。
「……は?」
動きが止まる。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
だが、その隙を怪物は見逃さなかった。
ゴブリンジャイアントが咆哮する。
筋肉が膨れ上がる。
振り抜かれた拳が、真正面からソルへ叩き込まれた。
轟音。
空気が爆ぜる。
ソルの身体が砲弾のように吹き飛び、岩壁へ激突した。
凄まじい衝撃で壁面が陥没し、無数の亀裂が走る。
「ソルさん!?」
ラフィが目を見開く。
崩れ落ちる岩煙の向こう。
ソルはゆっくりと立ち上がった。
口元から血が流れている。
だが。
それ以上に。
空気が変わっていた。
重い。
息苦しいほどに。
周囲の空気が沈み込み、大地そのものが圧迫されているみたいだった。
抑え込まれていた何かが、外へ漏れ出している。
ソルは掌の中のネックレスを見下ろした。
砕けた魔石。
細かな破片。
感情が抜け落ちたような静かな目。
逆に、それが恐ろしい。
ゴブリンジャイアントが再び咆哮し、突進してくる。
巨大な棍棒が振り上げられる。
だが、ソルは避けない。
歩く。
真っ直ぐ。
タッ、タッ、タッ、と。
静かな足音だけが響いていた。
振り下ろされた渾身の一撃。
それを。
ソルは短剣一本で受け止めた。
轟音。
衝撃波。
地面が砕け散る。
なのに。
ソルの身体は、一歩も下がらない。
短剣が、す、と動く。
本当に、それだけだった。
次の瞬間。
ゴブリンジャイアントの首が、ずるりと滑り落ちる。
巨体が傾き。
ポトン、と。
異様なほど軽い音を立て、首が地面へ転がった。
沈黙。
遅れて巨体が崩れ落ち、轟音と共に砂煙が舞い上がる。
ソルは、その死体すら見なかった。
砕けたネックレスを強く握り締める。
「転移」
低く呟く。
だが。
反応はない。
空間は沈黙したままだった。
転移の光も、消滅反応も現れない。
ソルの眉が、わずかに動く。
「ラフィ、ルナ」
静かな声。
なのに、空気が震えた。
「十階層の転移石、あるだけ出せ」
ラフィが即座にアイテムボックスを展開する。
青白い光が空中へ広がり、大量の転移石が次々と現れた。
「はいはい、ありますよぉ!」
ソルはそれを掴む。
握り潰す。
砕ける。
また掴む。
握り潰す。
だが。
反応はない。
「どうしたんですか!?」
ルナの声。
しかし、ソルは答えなかった。
ただ静かに天を見上げて、目を閉じる。
呼吸の音がハッキリと聞こえてきた。
その周囲だけ、空気が異様に重くなる。
『パッシブスキル・オールオン』
瞬間。
圧が増した。
空間そのものが軋む。
ラフィとルナですら、一瞬息を呑むほどに。
ソルはゆっくり目を開ける。
「……十階層か」
呟き。
次の瞬間。
ソルの姿が、その場から消えた。
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