商談
◇◇◇◇
十階層・ルフィラン領、フォンアルの街。
表通りから外れた石路地は、昼だというのに薄暗かった。
頭上を横切る洗濯紐。雨水を吸った石壁。湿気を孕んだ空気には、古びた木材と鉄錆の匂いが深く染みついている。
人の喧騒は遠い。
路地の奥へ進むほど、街そのものから切り離されていくようだった。
その最奥。
半ば崩れかけた木造の屋台が、ひっそりと置かれている。
粗削りな木柱には、手書きで店名が刻まれていた。
【ラビットマウス】
軋む木板の隙間から、橙色の灯りが細く漏れている。
近づいた瞬間、空気が変わった。
熱気。
ざわめき。
金貨の擦れる乾いた音。
そして、高階層素材特有の濃密な魔力。
「……嘘だろ。三十五階層産か?」
「保存状態がおかしい」
「なんでこんな値段で売ってんだよ……」
「出会えたら人生変わるって噂、本当だったんだな」
抑えた声が、そこかしこで漏れていた。
「この武器があれば、俺もボス討伐に……」
誰かの震えた声が、熱気の中へ溶けていく。
粗末な木机の向こう。
ひとりの少女が静かに座っていた。
腰まで流れる青い髪。
ランタンの灯りを受け、その髪は深海のような色をゆらゆらと揺らめかせている。
赤い瞳が、客たちをゆっくりと見渡していた。
若い。
だが、その場の空気に呑まれている様子は微塵もない。
「次の方どうぞ」
少女は静かに言った。
机の上には、高階層素材が並んでいる。
高純度魔石。
深層魚の牙。
加工前の希少鉱石。
そして武器。
低層ボス程度なら一撃で両断できる剣。刃を受けても傷ひとつ付かない防具。
本来なら貴族商会か大手ギルドを通し、オークションで莫大な金額が付く代物ばかりだった。
それが、信じられない安値で置かれている。
「……安すぎる」
誰かが呟いた。
「初心者支援価格です」
少女は悪びれもせず答える。
「転売と、ラビットマウスの口外は禁止ですけど」
にこり、と微笑む。
柔らかな声音。
だが、その奥には奇妙な圧があった。
客たちは乾いた笑みを返しながら頷く。
逆らわない方がいい。
自然と、そう思わせる空気があった。
その時だった。
路地の角から、一人の男が姿を現す。
かつ、かつ、と。
一定の速度で石畳を踏み鳴らしながら、こちらへ歩いてくる。
熱気に吸い寄せられるような、気のない足取りだった。
誰かが振り返る。
男は立ち止まり、屋台を見回した。
積み上げられた高階層素材。
客たちの顔。
漂う緊張。
最後に、木机の向こうの少女へ視線を止める。
「あれ」
軽い声だった。
場違いなくらい、軽い。
「あ〜……なるほど」
納得したように頷く。
「ラビットマウスって、ここかぁ」
一瞬だけ。
空気が静まり返った。
少女は笑みを崩さない。
だが、赤い瞳だけが細くなる。
「……お客様ですか?」
「いや?」
男は笑った。
柔らかな笑み。
なのに、その奥だけが冷たい。
「通りがかっただけやで」
そう言いながら、床に置かれていた素材をひとつ摘み上げる。
見る。
戻す。
「へぇ。三十階層超えを、この値段でねぇ」
一拍。
「そら、上も焦るわ」
ぽつりと呟いた。
男は退屈そうに天井を見上げる。
「困るんよなぁ、こういうの」
独り言のように零す。
「頑張って高階層独占して、高値維持して、貴族様が市場握っとるのに」
視線だけが、ゆっくりと少女へ落ちる。
「全部壊してまうやん」
静かだった。
怒気もない。
殺気もない。
なのに、空気だけがじわりと冷えていく。
男は小さく息を吐いた。
「……まあ」
口元だけで笑う。
「今日は別に、殺しに来たわけちゃうんやけどな」
その言葉に、周囲の客たちの肩がわずかに緩む。
だが次の瞬間。
「これは処理せんといかんやろ」
空気が、凍った。
「今まで違法商売は腐るほど見てきたけど、ここは全部の商品と素材が一級品や」
男は笑みを浮かべたまま続ける。
「ノースレッドが、どうやってこんなん手に入れてるん?」
「ノースレッドですか? 私が?」
少女は目を丸くしてみせた。
「まさか。ほら、ここに領主様から頂いた販売許可証もありますよ」
差し出された紙を見ると、
「それ偽物やろ」
男は即答した。
ぴくり、と。
少女の笑みが固まる。
「あぁ、ダメダメ」
男は肩を竦めた。
「この辺一帯、もう転移禁止になっとるんよ」
柔らかい声だった。
だが、その言葉は絶望みたいに重い。
「そんなに沢山の転移石を握り潰しても、もったいないで」
少女の袖の中。
砕けた転移石の粉が、さらさらと零れ落ちていた。
男が路地の角から現れた瞬間から。
彼女はずっと、転移石を握り潰し続けていたのだ。
「このまま大人しく死んでくれると楽なんやけどな」
その瞬間。
男の頬を、風が掠めた。
「……まぁ無理か」
目の前にいたはずの少女は、消えていた。
残っているのは、揺れるランタンの灯りと、微かに漂う魔力の残滓だけ。
「追いかけっこダル……」
くるりと、踵を返すと、もう男はいなかった。
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