コンプリート
◇◇◇◇
二十三階層・バルドセイン領。
湿り気を帯びた空気が、肌にまとわりつく。
潮の匂いに、焦げ始めた醤油の香ばしさが混ざり合い、岩場の上に静かに沈んでいく。
じゅう、と音が鳴った。
鉄板の上で焼かれているのは、厚く切り分けられたクラーケンの触手。
白く締まった身に醤油が滲み、表面がわずかに色づくたび、甘辛い匂いが立ち上る。
その前に立っているのは、ルナだった。
無駄のない手つき。
火加減を見極める視線。
焼き上がりの一瞬を逃さず、迷いなく裏返す。
動きに淀みはない。
思考よりも先に、身体が正確な手順をなぞっている。
隣では鍋が静かに沸き、網の上では貝がぱちりぱちりと口を開く。
エビは鮮やかな赤へと変わり、身を丸めていく。
ルナはそれらを手早くまとめ、油を引いたフライパンへと滑らせた。
音が弾ける。
香りが、重なる。
魚の切り身を加え、火を通しすぎないぎりぎりのところで引き上げる。
すべてが、計算された間だった。
「……うん、いい感じ」
茹で上がったパスタを掬い上げる。
海鮮の旨味を含んだ湯気が、ふわりと立ち昇った。
そこへ具材を戻し、軽く混ぜる。
絡めるのではなく、まとめるように。余計な力は一切入れない。
「追加ですぜぃ!」
水を滴らせながら、ラフィが岩の上へと上がってくる。
濡れた軽装が肌に張り付き、光を弾いた。
片手に貝、もう片方にエビ。背には魚。
完全に、仕入れ役だった。
「ありがとうございます」
ルナはラフィが取ってきた海鮮を見極め、そのまま流れに沿って処理に入る。
迷いはない。
流れは途切れない。
料理そのものが、ひとつの完成された動きだった。
上空の配信ウィンドウでは、コメントが途切れることなく流れている。
:手際えぐい
:料理人じゃん
:そのパスタ完成度高すぎる
:欲しい!【¥500】
:買った!【¥10,000】
:ルナちゃんの手料理配信の為に登録してる
投げ銭が光となって弾ける。
その様子を、少し離れた岩の上からソルが眺めていた。
何もしていない。
本当に、何もしていない。
焼き上がったクラーケンを口に運びながら、ただ待っているだけだ。
「……うまぁ」
短く、それだけ。
「まだまだ出来ますよ」
ルナは落ち着いた声で応じる。
皿に盛り付ける。
色味、配置、余白。
一瞬で整えられたそれは、完成を知っている者の手だった。
「どうぞ」
差し出された一皿を、ソルは無言で受け取る。
一口。
咀嚼。
飲み込む。
「……うまっ!」
それだけだった。
だが、ルナは小さく頷く。
それで十分だった。
:評価シンプルすぎて草
:でもガチでうまそう
:この女できる
:女子力たか!
「えっと……料理配信って、こういうものでいいんですかね」
ルナはわずかに不安げに言う。
「いいじゃないですかぁ。あとお酒があれば完璧ですよぉ」
ラフィが笑う。
「私はあまり強くないので」
さらりと返しながら、ルナは串に刺したクラーケンを返す。
じゅ、と油が弾けた。
香りが広がる。
波の音が遠くで砕ける。
穏やかな時間だった。
どこまでも、日常に近い温度で。
◇◇◇◇
同刻。
八階層・ミドアーチ領、ラフィリンスローグ闘技場。
熱狂の残滓だけが、空気に沈んでいた。
観客はすでにまばらに散り、石畳には冷えた静寂が張り付いている。
先ほどまで世界の中心だった場所は、今や空洞のように軽かった。
「あ〜らら」
ひとりの男が、間の抜けた声を落とす。
「来ぉへんの!?」
肩をすくめる。
視線はすでに中央から外れ、空中の配信ウィンドウに向かっていた。
「ノースレッドやろ? 普通、こういうの飛びつく思うやん」
ぽつりと呟く。
結界。
封じられた闘技場。
転移不可。
周囲を固めていた魔法職。
整えられていたのは、逃げ場のない箱庭だった。
「天翼の覇者が相手してる間に、周りから魔法で囲んでな」
軽く指を鳴らす。
「上から落とすだけの簡単なお仕事。……やったんやけどな」
一拍。
そこに立つはずだった標的は、最後まで現れなかった。
「大犯罪者と攻略トップランカーの命を差し出して、終わりのハッピーエンド。みんなこういう美談、大好きやろ。……まあ、しゃあないか」
未練はない。
ただ予定がずれただけ。
「はいはい、解散。魔法職も無駄足やったな」
ひらりと手を振る。
残っていた気配が、ゆっくりと引いていく。
残されたのは、使われなかった殺意だけだった。
男は小さく息を吐き、思考を切り替える。
指を折りながら、次を選ぶ。
「今は違法に高層の素材流しとる連中の方が、よっぽど処理しやすいな」
席を立つ。
「現行犯で潰しやすいのから潰すか。どうせこのダンジョンのノースレッドは全員駆除対象やしな。めんどくさいのは理由の後付けぐらいや」
軽く伸びをする。
「黒龍、神狼……それの何が凄いねん」
興味なさげに、配信の映像へ視線を向ける。
「階層をフルコンプリートしたダンジョンマスターからしたら、あの辺はただの通過点やろ」
淡々と、そう言った。
「ここの貴族は何にビビっとるんや」
配信画面に映る討伐映像を一瞥し、
「まぁ、その一人が来ましたよって」
それだけ呟いて、画面を閉じた。
そして、そのまま歩き出す。
何事もなかったかのように。
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