対決
◇◇◇◇
八階層・ミドアーチ領、ラフィリンスローグ闘技場。
熱が、渦を巻いていた。
観客席は限界まで埋め尽くされ、それでも収まりきらない人の波が通路や壁際にまで溢れている。押し合う体温、重なり合う息遣い、興奮に濁った空気。そのすべてが、ひとつの中心へと収束していた。
闘技場の中央。
そこに立つ者と、そこに現れるはずの者へ。
上空には幾重もの配信ウィンドウが浮かび、世界へと接続されている。流れ込むコメントの数は、もはや流星のようだった。
【世界同時配信】
同時接続者数 51,948,000
ただの数字の羅列が、この場の異常さを物語っていた。
:さぁ来るぞ!
:黒龍を単独討伐した男だ!
:天翼の覇者とやり合うってマジかよ!
ざわめきは波となり、何度も何度も押し寄せる。
実況の声が、熱を煽るように響いた。
『天翼の覇者 vs 謎の最強プレイヤー!』
映像が切り替わる。
黒龍。神狼。常識を逸脱した戦闘の断片。
破壊と静寂の境界を踏み越えたようなその光景は、もはや記録ではなく神話だった。切り取られた一瞬一瞬が、瞳を煌めかせ、観客の鼓動を強く叩く。
その一角。
観客席の上段に、三人の少女がいた。
「ま〜ためんどくさいことやってるよ」
猫耳の少女フィナが頬杖をつき、気だるげに呟く。
「でも……本当に来るんですかね?」
セレスは視線を中央から外さずに、小さく言った。
「あわわ……」
ノエルは落ち着きなく周囲を見回し、肩をすくめる。
軽い。
あまりにも軽い反応。
だがそれは、余裕だった。
強さという概念に慣れきった者たちだけが持つ、揺るがない感覚。
だからこそ、この熱狂の中でも、天翼の覇者パーティーはどこか浮いている。
そして。
その熱の中心に。
ソフィアは立っていた。
白の重厚鎧が、光を鈍く弾く。背に負ったロングソードは巨大であるにも関わらず、まるで呼吸の一部のように自然に収まっていた。
ただ、立つ。
それだけで、空気が変わる。
歓声の声もおのずと、凛とした姿勢に引き締まる。
誰もが無意識のうちに息を潜めて、口を閉じた。
そこに強者がいると、理解してしまうからだ。
ソフィアは何も言わない。
ただ、待つ。
来るべき相手を。ただ信じて。
疑いは、一切なかった。
やがて。
乾いた鐘の音が、空間を切り裂く。
正午。
一瞬で、闘技場の視線が収束する。
だが、
入口にも、闘技場の影にも、ソフィアの前にも。
対戦相手はいない。
:え?
:……遅れてる?
:演出?
:全然来ないじゃん
:早くしろよ
空気はまだ重い。
期待が、生ぬるく沈んでいる。
五分。
十分。
期待は、徐々に濁りを帯びる。
:おい……来なくね?
:まさか、逃げた?
:世界配信で来ないことある?
:最強プレイヤー見たかった〜
:まさかね
誰もが『来ない』という可能性を、脳裏によぎらせた。
微動だにしなかったソフィアの眉が、わずかに動く。
逃げた?
その発想自体が、ソフィアには理解できない。
三十分。
空気が明らかに変わる。
ブーイングが混じり始め、熱は清潔な純度を失っていく。
実況が声を張り上げ、場を繋ごうとするが、変わり始めた流れは止まらない。
期待は、不安へ。
不安は、苛立ちへ。
一時間。
完全に、期待は崩れた。
:おい、どうなってんだよ!
:ふざけんな!
:時間返せ!
:誰も来ないwww
:最強(笑)
罵声が、風に乗り、ソフィアの背中にのしかかる。
観客席では、
「……あっこれ、もしかしてドタキャンされた?」
フィナがぽつりと呟く。
「あわわ……」
ノエルの声が震える。
「……ありえますね」
セレスは静かに言った。
誰もが認めたくなかった。
来ないという現実を。
その瞬間。
ソフィアの内側で、何かが軋んだ。
怒りではない。
もっと冷たいもの。
侮辱。
理解しようとした相手に、拒絶された感覚。
踏みにじられたという、確かな認識。
ゆっくりと、両の拳を握り、目を閉じる。
そして、開く。
紫の瞳に、熱が宿る。
足元の石が、微かにひび割れた。
「……正午と、言ったはずだ」
熱く滾った想いが、地面に落ちる。
動かなかったソフィアは出口に一歩、踏み出す。
「逃げるな、とも言っただろうが」
そして。
背中の剣を抜き取り、地面に叩きつける。
「うぁぁぁぁああああ!!!!」
怒声と共に闘技場の石畳の半分が引き裂かれる。
観客の声が、すべて押し潰された。
完全な静寂。
誰も、息をしない。
ソフィアは、高ぶらせた感情を荒い息として体から出していた。
振り下ろした感情は行き場を失ったまま、やるせない想いが胸の中で渦巻く。
吐いても吐いても溢れてくる。
「……なぜだ、ソル」
歯を噛み締めながら、認め始めていた男の名を呼んだ。
◇◇◇◇
その頃。
世界配信の片隅で。
ソルは、ルナを抱えたまま岩から岩へと軽やかに飛び移っていた。
不安定な足場を、迷いなく渡っていく。
湿り気を帯びた空気。
肌にまとわりつくような水気。
揺れる水面。
二十三階層・バルドセイン領。
ルナは抱えられながら闘技場の世界配信を見ていた。
「本当に行かなくていいんですか?」
「行かない」
それだけで、すべてが切り捨てられる。
「そうですか。ソルさんがそう決めたならいいですけど、今日は何やるんですか?」
ソルは足を止める。大きな岩へルナを降ろし、
「ボス討伐だ。配信をつけろ」
「分かりました」
ルナも戦闘準備に移る。
世界の中心で渦巻いていた熱など、最初から存在しなかったかのように。
「ラフィさんは何したらいいですかぁ?」
「お前は酒でも飲んでろ。そしてルナを頼んだ」
「了解したぜぃ!」
次の瞬間には、水面が、不自然に膨らんだ。
何かが、下から押し上げている。
歪み。
揺れ。
そして……。
巨影。
「ボス討伐・クラーケン。ルナ、足を掴まれるなよ」
「は、はい!」
その瞬間。
コメント欄が、ざわめいた。
:あれ?
:こいつ……
:闘技場いけや!
:は????
:おもろいwww
:いや待て、こっちか?
世界の熱が、ゆっくりと流れ始める。
闘技場から。
こちらへ。
しかしソルは、そんなことを一切気にしていない。
「……効率のない戦いに興味はない」
ぽつりと、呟く。
それだけだった。
誰に聞かせるでもなく。
ただ、自分の中で完結した言葉。
【ルナ《パーティー抜けました》】
登録者 92万人 → 198万
同時接続者数 3,948,000
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