脱兎
◇◇◇◇
屋根を蹴った瞬間、靴裏から伝わった瓦の感触が砕け散った。
夜の路地へ、乾いた破砕音が鋭く響く。
私は崩れかけた建物の縁へ飛び移り、そのまま滑るように着地した。濡れた瓦が靴底を削る。雨の残り香を含んだ風が頬を打ち、肺の奥へ冷たく入り込んだ。
息が熱い。
それでも脚を止めるわけにはいかなかった。
直後。
背後の屋根が爆ぜた。
「――ッ!?」
轟音。
石材と木片が夜空へ弾け飛び、粉塵が白く膨れ上がる。
その中心に、男は立っていた。
片手を振り下ろした姿勢のまま。
ただ、それだけ。
たった一度拳を振っただけで、建物そのものが吹き飛んでいる。
「避けるん上手いなぁ」
欠伸でも噛み殺すみたいな声だった。
気怠げで、平坦で、緊張感なんてどこにもない。
なのに。
全身の神経が壊れそうなほど警鐘を鳴らしていた。
肌が粟立つ。
心臓が嫌な音を立てる。
「……なんで追ってくるの」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
速さなら勝っている。
跳躍も。
加速も。
身体強化のスキルも。
パッシブスキルだって限界まで回している。
全部、私の方が上のはずだった。
それなのに。
男は、スキルを使った気配すらないまま追いついてくる。
どれだけ走っても。
逃走経路を変えても。
視界から外しても。
気づけば隣にいる。
逃げ道の先で待っている。
まるで最初から、私の行き先を全部知っているみたいに。
「キモいよ、あなた」
腰から短剣を抜く。
赤いオーラが刃へほとばしり、夜気を焼くように揺らめいた。
「キモイ言われたら傷つくわぁ」
男が苦笑混じりに肩を竦める。
その瞬間。
私は地面を蹴っていた。
一閃。
空気を裂いた高速斬撃が、真っ直ぐ男の喉笛へ吸い込まれる。
けれど。
ガギンッ!
硬質音。
男の指先が、刃を摘んで止めていた。
「……軽いなぁ」
ぼそり、と。
その声を聞いた瞬間、全身の毛穴が開いた。
反射で身体をひねる。
直後。
男の蹴りが空気を裂いた。
衝撃だけで、後方の建物がまとめて吹き飛ぶ。
石壁が砕け、瓦礫が夜空へ舞い上がった。
「んくッ!……はぁはぁ」
掠っていたら死んでいた。
本当に。
一瞬でも反応が遅れていたら、身体ごと消し飛んでいた。
「なんで戦うん?」
男が首を傾げる。
「別に拷問とかする気ないで? 大人しく捕まれば一瞬や」
「……誰が」
歯を食いしばる。
短剣を握る手へ力を込めた。
逃げ切れない。
なら。
突破するしかない。
スキルを一気に解放する。
熱を帯びた青髪が、ふわりと宙へ浮いた。
「おっ」
男の目が、ほんの少しだけ細くなる。
次の瞬間。
私は地面を蹴り砕いていた。
『勝利脱兎』
爆発的加速。
屋根を踏み抜きながら、一気に懐へ潜り込む。
短剣を空中へ放り捨てる。短剣は私の手から離れると、ピキンと時間が止まる。
止まった時間の中へ、スキルを叩き込む。
『神時奪拳』
喉。
心臓。
脇腹。
関節。
急所だけを狙い、連撃を叩き込む。
拳圧が暴風みたいに荒れ狂い、火花が夜へ散った。
ガガガガガガガッ!!!!!
けれど。
「……は?」
浅い。
全部。
止められている。
指先。
肘。
最小限の動き。
男はほとんど身体を動かしていない。
なのに。
一撃も届かない。
時間を奪った必殺必中のスキルを、まるで子供の癇癪みたいに捌いている。
「いや、速いな」
男が少し感心したように呟く。
「武術家系統のゴッドハンドか。珍しい職業持っとるやん」
その声に、余裕しかない。
「十階層におるレベルちゃうで。五十階層のレッドドラゴンくらいなら、ソロで倒せるんちゃうか?」
ぞわり、と。
空気が変わった。
本能が絶叫する。
「グッ!」
反射で飛び退く。
だが、遅い。
男の手が、もう目の前まで伸びていた。
掴まれる。
そう理解した瞬間、視界が反転した。
石畳へ叩き落とされる。
「あっ、がッ!!」
肺の空気が全部吐き出された。
骨が軋む。
視界が揺れる。
呼吸ができない。
身体の感覚が滅茶苦茶に掻き回される。
なのに。
男は追撃してこなかった。
陥没した穴の縁へ立ちながら、面倒そうに私を見下ろしているだけ。
空中で止まっていた短剣がカランと落ちる。
「なんでやろなぁ」
男がぽつりと呟く。
「君、普通の違法商人ちゃうやろ」
肩が跳ねた。
男の目が細くなる。
「その動き。最近見た覚えあんねんなぁ」
ゆっくりと穴の中へ降りてくる。
ぐしゃり、と。
踏み込んだ石畳が砕けた。
逃げなきゃ。
そう思うのに、身体が動かない。
脚へ力が入らない。
視界の端が滲む。
男が近づく。
一歩。
また一歩。
「まぁええわ」
気怠げに頭を掻きながら、男が言った。
「名前だけでも吐いてもらおか。あと血縁関係か?」
喉が震える。
言えるわけがない。
絶対に。
「……近寄って、来ないで」
怖い。
身体の芯が冷え切っていく。
もう、何もできない。
「怖いよ……ソルにぃに」
私の涙声は名前に昇華した。
その瞬間だった。
……ぴたり。
風が止まる。
「……あ?」
男の足が止まった。
空気が変わる。
いや。
世界そのものが沈んだ。
街全体へ巨大な重石が落ちてきたみたいに、大気が軋む。
息が詰まる。
けれど。
その感覚を知った瞬間。
張り詰めていたものが、ふっとほどけた。
「あ……」
声が漏れる。
知っている。
この圧を。
この静けさを。
全部が終わる前触れみたいな、この感覚を。
「……遅いよ」
路地の奥。
暗闇の中へ、ひとつの影が立っていた。
何も言わない。
ただ、そこにいるだけ。
なのに。
石畳が軋み、周囲の音が怯えるように遠ざかっていく。
男も、ゆっくり振り返った。
その瞬間。
もう大丈夫だ、と私は思った。
根拠なんてない。
でも。
私は、もう死なない。
絶対に。
強張っていた指先から、ゆっくり力が抜けていく。
肺が、ようやく呼吸を思い出した。
痛みも恐怖も消えていない。
身体はまだ震えている。
それなのに。
胸の奥だけが、不思議なくらい暖かかった。
影が、一歩前へ出る。
月明かりが、その姿を照らした。
黒い髪。
静かな目。
そして。
砕けたネックレスを握り締めたまま。
男は数秒、その姿を見つめる。
そして初めて。
ほんの少しだけ目を細めた。
「……へぇ」
気怠げだった声へ、わずかな熱が混じる。
「君が来るんやね。やっぱり当たりやったか」
私は小さく息を吐いた。
崩れ落ちそうになる身体の前へ。
にぃにが受け止めてくれる。
何も言わない。
でも。
それだけで、十分だった。
楽しかった! 続きが気になる! という方は☆☆☆☆☆やブクマをしていただけると嬉しいです!
作者のモチベーションの一つになりますのでよろしくお願いします!




