対価
フェンリルの巨体が完全に沈黙すると、洞窟に満ちていた殺気が嘘のように消えた。押し潰していた重圧が霧散し、ただ凍りつくような空気は残る。
ルナは地面に手をついたまま、大きく息を吸った。肺が痛い。心臓がうるさいぐらいに音を鳴らしていた。でも生きている。
目の前では、男がフェンリルの頭に乗ったまま短剣の血を払っていた。キノコの光でライトアップされた男は、倒した相手に興味すらないような仕草だった。
配信コメントが一気に流れ出す。
:え、生きてる!?
:助かった!?
:今の何!?
:この人強すぎだろ
:この人誰!?
:配信者!?
:ギルドのランカー?
:いや知らんぞこんなヤツ
:何言ってんだ!62階層は未開の地だぞ
ルナはようやく声を絞り出した。
「あ……あの……」
男が初めてルナを見た。
黒い瞳だった。感情の揺れがほとんどない。助けた相手への優しさも、達成感も、誇っている様子でもない。ただ状況を確認するだけの、乾いた視線。
「……生きてるか?」
短い言葉。
「は、はい……助けて……いただいて……」
立ち上がろうとした瞬間、膝が崩れた。まだ足に力が入らない。全身が震えていた。
男は無言でフェンリルの頭から降りると、巨体が淡い光に包まれ、音もなく消えた。残滓のように青い粒子が宙を漂い、やがて吸い込まれるように男の方へと集まっていく。
男がルナの方へ歩いてくる。
コメントがざわつく。
:あ
:回収してる
:大容量のアイテムボックス持ちか
:フェンリルの素材、俺にもくれ!
:この人、命の恩人
男が近づくと、ルナは慌てて声を上げた。
「あ、あの! ありがとうございます! 本当に……」
「礼はいらない」
興味の薄い声だった。
「対価はもらう」
ルナの言葉が止まる。
男の視線が、ルナの身体をなぞった。顔。胸元。腰。スカートの裾。配信用の耳飾り。値踏みするような、乾いた目。
コメントがざわつく。
:え
:対価?
:ついに来た
:この人そういうタイプ?
:助けた対価か
:当然っちゃ当然
男の視線がルナの胸元で止まる。
逃げ場のない沈黙。
ルナは指先に力が入り、恐怖で体がこわばる。
「それ」
ルナが反射的に胸元を押さえる。
「その杖、寄越せ」
「……え?」
空気が止まる。
コメントが一瞬で加速する。
:え
:それ母親の形見!
:それダメだろ
:おいおい
:鬼かよ
:助けた対価それ!?
ルナの顔が青ざめた。
「こ、これは……ダメです……」
男は淡々と言う。
「命の値段だ。安い方だろ」
ルナの指が震える。胸元に抱いた杖を強く握りしめた。
「これ……母の……形見で……」
「そうか」
興味のない声。
「じゃあ、他に払えるもんあるか?」
「はい。ここを出たら必ず!」
「ダメだ」
「え?」
「逃げられたら困る」
コメントが荒れる。
:うわぁ
:足元見やがって
:でも正論なんだよな
:命助かってるし
:ひでぇけど間違ってない
:ルナちゃん……
:街であったらぶっ殺してやる!
「今無いなら、それだ」
ルナは唇を噛んだ。
アイテムボックスの中身を思い浮かべる。魔鉱石ゴーレム。討伐したモンスターの素材。ポーション。帰還石。予備の杖。飲み物。タオル。料理道具。料理用の食材。そして、現金は一万ギル。到底、命の対価には届かない。
アイテムボックスをひっくり返しても、命を救ってもらった対価は払えそうになかった。
コメント欄が流れる。
:これ使って【¥10,000】
:ルナちゃんを助けるんだ!【¥10,000】
:私も!【¥5,000】
:【¥500】
:【¥10,000】
投げ銭通知が立て続けに鳴る。だが、投げ銭はギルドに行かないと受け取ることができない。
ルナは杖を胸に強く埋めて、目を閉じる。深く息を吸う。力を抜いて、目を開けると、震える指で、ゆっくりと腕を前に伸ばした。
杖を水平に掲げる。
男は無言で受け取った。軽く重さを確かめる。先端の青石を指先でなぞった後に、何の躊躇もなくアイテムボックスへ放り込んだ。
ルナの手が空になる。
涙で配信画面が曇る。配信コメントが爆発する。
:うわあああああ
:マジで取った
:容赦なさすぎる
:でも助けてるし
:泣けてきた
:この人ヤバい
男は背を向けた。
「帰還石はあるだろ。周りにはモンスターがいないから、機能するはずだ」
それだけ言って歩き出す。
ルナは慌てて叫んだ。
「あ、あの! その……」
男は止まらない。
「……もう会うこともないだろ」
それだけ言って、闇の奥へと歩いていった。
ピピッ!……ピピッ!……ピピッ!……ピピッ!……。
【ルナ専用の杖が盗難されました】
『持ち主に位置情報を送ります』
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