ヒロインの価値
◇◇◇◇
五十階層・雪原。
熱が、まだ空気に残っていた。
白一色だったはずの大地は、一直線に抉り取られ、雪は蒸発し、氷は砕け、空間ごと削り取られたような裂痕が地平の果てまで伸びている。吹き荒れていた風は止み、静寂だけが雪原を覆っていた。
その中心で、黒龍バハムートは、光に溶けるように消滅した。
巨体が崩れる音すらない。ただ、存在そのものが切り取られたかのように、跡形もなく消える。
「はい、終わり」
俺は軽く空中で体勢を整えた。
久しぶりに本気を出した気がする。
もっとも、弓を壊して以来、まともに使っていなかっただけだが。
弓はすぐ壊れる。だが、今回の弓は違ったようだ。まだ原型を維持している。
「おっと」
空中から降下し、雪を踏みしめて着地する。足元で氷の欠片が乾いた音を立てた。
振り返る。
後方で固まっていた天翼の覇者の二人へ歩み寄る。
「この弓いいな。壊れなかった」
手に持った弓を軽く振る。弓も弦も歪みがない。安物ではこうはいかない。弓の質も重要だということが、今回でよく分かった。
それが今回一番の収穫だった。
俺は弓を放り投げた。
「ほら」
「あっ……とと……」
猫耳の少女が慌てて受け取る。弓を抱きしめるように持ちながら、戸惑ったようにこちらを見る。
「……えっと、助けてくれてありがとう」
隣の少女も倒れている仲間に回復を掛けながら、続けて頭を下げる。
「ありがとうございます」
俺は肩をすくめた。
「別にいい。俺はお前らを助ける気はなかったからな」
二人の表情が一瞬固まる。
「感謝するなら、そうだな……お前らが黒龍に勝つことを祈ってた、どこかのファンでも言っとけ」
視界の端でコメントが爆発する。
:ありがとう!
:黒龍倒したぁぁぁあああ!!!
:ヒーローか!?
:助かった!!
:神すぎる
:酒飲むぞぉぉぉおおお!!!
「……チカチカする」
俺は指先でコラボ配信を切った。視界からコメント欄が消え、眉間を揉んだ。
猫耳の少女が少しだけ目を細める。
「君は、その人の頼みで来たの?」
「いや、ただの気まぐれだ」
そのまま俺は言葉を続けた。
「命を救ったからには、対価を貰うぞ」
「……まぁ、そうだろうね」
猫耳の少女はあっさり頷いた。
「依頼は失敗。その違約金を払ってあげるよ」
「……は?」
意味が分からず、思わず聞き返す。
「最低でも一千万。黒龍だから、どこまで跳ね上がるか分からないけど……コラボ配信の報酬は全部持っていかれるだろうね」
「それ、俺に関係あるのか?」
「あるよ」
猫耳の少女は淡々と説明した。
「スポンサー依頼だから。黒龍の素材持ち帰りも条件に入ってる。コラボ配信した時点で、君も依頼参加者扱い」
なるほど。
「知らないなんて言わないでよ。配信詳細見れば、依頼のことは書いてあるんだから」
少女は続ける。
「ただし例外はある。緊急性があった場合だけ。でも配信で居場所を特定して来た場合は、その緊急性も無効になる」
「なんでそうなる」
「昔は緊急性を理由に、良いとこ取りする人が多かったからね」
そこで、わずかに笑った。
「配信を見て助けに来たという訳じゃないなら、命も救ってもらったし……私たちの報酬一億でも百億でも渡すよ。どうする?」
最後の緊急性のところは無視してもいい。俺は天翼の覇者の配信を見て、居場所を特定したからな。確実に違約金は発生する。
つまり、違約金は百億、それ以上の可能性がある、ということだ。
天翼の覇者がそれを被る、と暗に言っている。
カマをかけている様子はない。
「帰る」
俺は何も得ず帰る選択をした。
「そう? いい判断だね」
猫耳の少女が頷く。
「私はフィナ。隣がセレス。君は?」
俺はアイテムボックスから転移石を取り出した。
「ソルだ」
石を握り込む。
光が弾け、視界が歪んだ。
次の瞬間。
目の前に、ルナがいた。
涙で潤んだ瞳。こちらを見つけた瞬間、目がさらに大きく開かれる。
「――ッ!」
次の瞬間、体当たりのように飛び込んできた。
「えっ!?」
反射的に抱き止める。柔らかな衝撃。腕の中で、小さな体が震えていた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
ルナが泣きじゃくる。服を掴む手に力がこもる。顔を胸に埋めたまま、肩が震えていた。
「ソルさんも無事で良かったです……それが一番、嬉しい」
胸の奥が、とくん、と、小さく鳴った。
奇妙な感覚だった。
人に心配される。
自分の無事を喜ばれる。
そんな経験は、今まで一度もなかった。
温かい。
だが、どう扱っていいのか分からない。
ツーンと鼻が痛くなり、目に熱いものが込み上がってきた。
俺は、この暖かな想いを知らない。
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