体温
ルナを抱きしめて、どれほどの時間が過ぎたのか分からなかった。
ほんの数秒だったのかもしれない。あるいは、もっと長かったのかもしれない。
腕の中の体温だけが、やけに鮮明だった。
柔らかく、小さく、壊れてしまいそうなほど頼りない。けれど、その温もりは、離れがたいものだった。
ふと、我に返る。
途端に、現実が押し寄せた。
抱きしめたまま立ち尽くしている自分の姿が、急に恥ずかしくなる。慌てて、そっと腕を離した。
ルナは名残惜しそうにわずかに距離を取り、袖で目元を擦る。まだ頬は赤く、潤んだ瞳が光を受けて揺れていた。
胸の奥が、また小さく痛んだ。
「あとは21階層のモンスター討伐依頼だったな。行くぞ」
わざと事務的な声を出す。感情を押し殺すように。
「ぐす……はい」
ルナは鼻をすすりながら頷いた。その視線はまっすぐこちらを見ている。
俺もぼうっと、ルナを見てしまう。
自分でも自分の様子がおかしいと分かってしまった。
「……なんですか?」
「なんでもない」
すぐに視線を逸らす。
ルナを見ると、胸が痛い。目を合わせていられない。視線を逃がすように、空を見上げた。薄く雲のかかった空が広がっている。
視界を上に逃がしていないと、涙が出てしまいそうだった。
口で息を吸い、ゆっくりと吐く。胸の奥に溜まった熱を押し込めるように。
アイテムボックスから、二十一階層の転移石を取り出す。
「先に行って待ってる」
「一緒に行きましょ」
迷いのない声。
「いや」
短く否定する。
そして、もう一つ。二十階層の転移石を取り出した。
「今日はやめて。明日、二十一階層の街の出入り口で集合だ」
「? は、はい?」
ルナが首を傾げる。だがすぐに、小さく頷いた。
「わかりました。今日は色々ありましたもんね。明日は任せてください。次は私も協力できそうです」
「ああ……た、頼みにしてる」
言葉が少し詰まる。
「あっ、そういえば! 個人アカウントの名前につ……」
最後まで聞かず、俺は二十階層の転移石を握り込んだ。
光が弾ける。
視界が歪み、ルナの姿が遠ざかっていく。
消える直前、彼女はまだ何かを言おうとしていた。
◇◇◇◇
二十階層・ローグ領、フォルトの街。
見慣れた石壁が目に入った。狭い通路。高所に設けられた見張り部屋。街の外壁に張り付くように作られた、小さな空間。
自分の家、と呼んでいる場所だ。
もっとも、家と言えるほどのものではない。城壁に設けられた監視用の小部屋を、そのまま使っているだけだ。壁は冷たく、床は硬い。家具らしいものも、ほとんどない。
扉を押し開ける。
「あれ、ソルにぃにどこ行ってたの?」
中には、先客がいた。
布を敷いただけの寝床に、うつ伏せのまま足をぶらぶらさせている少女。青い髪が腰のあたりまで流れ、赤い宝石のような目がこちらを見ていた。
「ちょっとな。それより、うさぎはなんで帰ってきた?」
「私とお兄ちゃんとの愛の巣だよ。帰ってきちゃダメなの?」
にやりと笑う。
「帰ってくるのはいいんだが……いつもなら一週間くらい戻らないだろ」
壁にもたれながら答える。
「だから、何かあったのかと思ってな」
うさぎは小さく肩をすくめた。
「今ね、貴族の取り締まりが酷くなってるの。のほほんと狩りしてるソルにぃにと違って、違法販売所ラビットマウスは大変なんだよ」
「そうか。いつも俺が持ってきた素材を売ってくれてありがとな。危険と思ったら、すぐに帰ってこいよ」
「そんなのわかってる」
胸を張る。
「店名のラビットマウスって、希少で逃げ足が早いモンスターから取ってるんだよ。その点は任せて。私の足は、ソルにぃににも負けてないんだから」
「ちょっと気になることがある。……一人、危険な奴がいた」
「誰?」
「ラフィって桃色の髪の奴だ。酒の匂いがしたら逃げろ。あいつは完全に貴族お抱えのダンジョン警備隊だ」
「わかった。気をつける」
「これを教えられて良かった。しばらくは店を出さない方がいいかもな」
その時だった。
うさぎの表情が変わる。
すっと目を細めた。
「それよりもソルにぃに」
「なんだ」
「この甘い女の子の匂いはなに?」
「……え?」
心臓が跳ねた。
うさぎがすっと近づく。鼻先が胸元に近づいた。
「可愛い女の子の匂いは分かるんだよ。あっ、待って……」
指を弾く。
フィンッ、と軽い音が鳴り、空中に半透明のウィンドウが展開された。
「ッ!?」
そこに映っていたのは、黒龍を消し飛ばした直後の配信映像だった。雪原の空中で弓を持つ自分の姿。
「ねぇソルにぃに」
じっと見つめてくる。
「しばらく目立つ行動しちゃダメって、私言ったよね?」
「……しょうがないだろ」
ため息混じりに答える。
「助けに行かなきゃ。その天翼の覇者っていうパーティーは、全滅しかけてたんだから」
「んッ!」
うさぎの眉が跳ねる。
「ソルにぃにが人助け? 何か匂うんですけど」
「今日は色々あった。もう寝たい」
会話を打ち切るように、見張り部屋の木のベンチに横になる。硬い板の感触が背中に伝わる。
「ああ〜! まだ話は終わってないよ! なにこれ……ランダン世界ランキング? ねぇソルにぃに! おき……」
うさぎの声が遠ざかる。
体の力が抜ける。
意識が闇に沈む直前、最後に浮かんだのは、涙で潤んだルナの顔だった。
無意識に、拳に力が入る。
そのまま、俺は眠りに落ちた。
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