違約
◇◇◇◇
五十階層・雪原。
吹き荒れていたはずの暴風は、いつの間にか止んでいた。白一色の世界は、まるで何事もなかったかのように静まり返っている。だが、空気の奥にはまだ焦げた匂いが残り、地面には一直線に抉れた巨大な痕が走っていた。
それは、自然にできたものではない。
空間ごと削り取られたような、異質な破壊の痕跡だった。
「う、うぅん」
雪の上に横たわっていたソフィアが、ゆっくりと目を開ける。体を起こしかけて、周囲を見渡した。
「……黒龍がいない」
その事実に、思考が一瞬止まる。
「起きましたか、ソフィア」
柔らかな声が横から届く。セレスが回復の光を紡いでいた。淡い光はソフィアの体から離れ、倒れたままのノエルへと移る。優しい光が彼女を包み込み、傷をゆっくりと塞いでいった。
「……黒龍は、どうした?」
まだ完全に意識の戻らない頭を振りながら、ソフィアは問う。
「倒したよ」
答えたのはフィナだった。雪の上に座り込み、どこか気の抜けた顔で言う。
「どうやって? 私たち無しでか? フィナとセレスだけで勝ったというのか?」
困惑が滲む。
だが、フィナは首を横に振った。
「ヒーローが助けてくれた」
そう言って、半透明のウィンドウを展開する。指先で弾くようにして、ソフィアの前へ投げた。
「これは……」
ウィンドウの中には、一人の男が映っていた。
雪原の中心に立つ影。
巨大な黒炎を前にしても、微動だにしない。
「そう。62階層の彼だよ」
「一人でか? フィナとセレスも加勢したんだろ」
当然のように言った。
だが、フィナは自嘲気味に笑った。
「完璧に足手まとい。加勢と言うなら、ここから動かないことが私たちにできた精一杯の加勢だね」
その声には、疲労と敗北感が混じっていた。
「……その肝心な62階層の男はどこだ!?」
ソフィアが身を乗り出す。
「帰ったよ。違約金の値段を聞いたらすぐね」
「違約金?」
意味が分からず、ソフィアは眉をひそめる。
「スポンサー依頼には黒龍の素材も含まれてたんだよ。それが達成できないってなったら、私たちは莫大な違約金を払わないといけない」
「黒龍は倒したんだろ? 違約金なんて発生し……」
言いかけて、ソフィアは周囲を見渡した。
雪原には、黒龍の死体がない。
「……倒した黒龍はどこだ?」
「消えちゃった」
「え?」
ちょうどその瞬間、映像の中で黒龍が消滅する場面が再生された。
光の一閃。
空間が歪み、巨体が飲み込まれる。
次の瞬間には、何も残っていなかった。
「レンジャーは、こんなことができるのか!?」
ソフィアは思わずフィナを見る。
化け物を見るような目だった。
「できるはずないじゃん! 何その『八咫烏』って! 『天穿つ一矢』って! 知らない私、そんなスキル知らない! 『貫通矢』は弓覚えた段階で最初に覚えるスキルだけど! 私の『貫通矢』とは次元が違った。そして短剣で『ウッドリーリング』とか初めて見たわ! どう使うんだよ!!! ……ふぅ、ちょっとレンジャーの枠に当てはめられたくないよね」
鬱憤を吐き出すように、フィナがまくし立てた。
息が荒くなるほどだった。
「あわわ……ここはどこですか……」
ノエルがようやく目を覚ました、その時だった。
「おーい! お前ら! 俺たちが助けに来たぜ!」
雪原の向こうから声が響いた。
白い地平を踏みしめ、一団が走ってくる。
先頭に立つのは、赤い髪をツンツンに尖らせた男。
龍を倒すことに定評のある攻略組トップランカー『赤竜王騎士』
「あら、黒龍がいねぇな」
ゼオンが周囲を見回す。
「配信見てないのですか?」
セレスがため息をついた。
「それよりもよ……黒龍の配信見た時、ビビっと来たんだ。コイツ、俺たちより強いってな」
「じゃあなんで来たんですか? 犬死にしに来たんですか?」
「最初に言ったじゃねぇか。助けに来たって」
「は?」
ゼオンは肩をすくめた。
「女を守るためだったら、いくらでも賭けてやるよ。命ぐらいな」
空気が一瞬止まった。
天翼の覇者の四人が、ぽかんと口を開ける。
「もう脅威がないならいいんだ。おし、帰るぞ!」
「「「へい!」」」
言うだけ言って、彼らは転移石を砕いた。
光が弾け、次の瞬間には姿が消えていた。
静寂が戻る。
「……なんだったんでしょうか」
セレスが呟く。
「まぁ、悪い奴らではない」
ソフィアが鼻で笑った。
「じゃあ私たちも帰ろっか。すごく疲れたし」
フィナが転移石を取り出す。
「ミーティングはどうする?」
ソフィアが問うと、セレスが続けた。
「今日はいいでしょう。少し攻略もお休みしませんか?」
「さんせーい」
即答でフィナが手を挙げる。
「ダメだ。早く攻略を急がねばならないんだ!」
「ダメ〜。三対一、こっちの勝ち」
「フィナ! 賛成していないノエルのカウントを入れるな」
「あわわ……セレスさんに賛成です……」
「はい、こっちの勝ち」
フィナが勝利を宣言する。
「みんな分かっているのか! 早くダンジョンをクリアしないと、私たちの願いが叶えられないんだぞ! 先の階層をクリアしている者がいる時に、休むなど考えられない!」
「ソフィアちゃん。私たちは今日、死にました。現実に帰る時間は必要です。このまま上の階層に行くと、誰かが必ず死にますよ」
セレスが静かに言う。その言葉には重みがあった。
ソフィアはしばらく黙り込み、やがて息を吐いた。
「……しょうがない」
「うん、ソフィアちゃんはちゃんと分かってくれると思ってた」
四人はアイテムボックスから転移石を取り出すと、同時に転移石を砕いた。
光が弾ける。
視界が白に染まる。
次の瞬間。
ノエルは、自宅の玄関に立っていた。
「あわわ……あれ? 皆さん……?」
振り返る。
だが、誰もいない。
周囲を見る。
だが、誰もいない。
静まり返った家の中に、ノエルの声だけが響いた。
その頃。
ノエル以外の三人は。
十六階層のギルドに転移していた。
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