師弟の終焉と呪われた雨
ジンランがこの館へ来てからずっと――
ヤーシンの胸の奥には、消えることのない焦燥が燻り続けていた。
ジンランがイェンミンの傍にいる。
そして、イェンミンは明らかに彼女を特別扱いしていた。
他の弟子には見せない力を教え、時間を割き、ときには自ら手を取って導いている。
その光景を目にするたび、ヤーシンは知らず知らずのうちに指先を握りしめた。
――なぜ、あの娘なの。
自分だって、ずっとイェンミンの傍にいた。
弟子として認められるために修行を重ね、彼の教えに従い、少しでも役に立てるよう努力してきた。
それなのに。
たった一人の娘が現れただけで、何かが変わってしまった。
イェンミンがジンランへ向ける眼差し。
声の柔らかさ。
ほんのわずかな仕草。
どれも、これまで自分には向けられなかったものだった。
「…どうして。」
誰もいない廊下で、ヤーシンは小さく呟いた。
けれど、その問いに答える者はいない。
自分も同じ弟子なのだから。
余計なことを考えてはいけない。
そう言い聞かせても、胸の奥から消えない想いがあった。
――自分が欲しいのは、弟子として認められることだけではない。
もっと近くにいたい。
誰よりも傍でイェンミンを支え、彼が振り向いたとき、そこにいるのは自分であってほしい。
その願いを、ヤーシンは長い間、誰にも告げずにいた。
けれど、もう隠し続けることはできなかった。
ある夜。
館が深い静寂に包まれた頃、ヤーシンは一人、部屋にいた。
小さな灯りが壁に揺れる影を映している。
ヤーシンは膝の上で手を組み、何度も息を整えた。
今なら、言えるかもしれない。
いや――
今、言わなければ。
このまま何も伝えないまま、ジンランにすべてを奪われてしまう。
そんな思いに背中を押されるように、ヤーシンは立ち上がった。
「もう…隠してはいられない…」
自分に言い聞かせるように呟き、部屋を出る。
廊下の先に、イェンミンの姿があった。
彼はヤーシンに気づくと、静かに視線を向けた。
「…どうした、ヤーシン。」
いつもと変わらない声。
ヤーシンは一瞬、言葉を失った。
今から、自分はずっと胸の奥に閉じ込めてきたものを、この人に伝える。
拒まれるかもしれない。
それでも、もう後戻りはできなかった。
「イェンミン様…」
ようやく声を出す。
「私は…」
喉の奥で言葉が詰まる。
それでも、顔を上げた。
「私は、あなたを…愛しています。」
言ってしまった。
長い間、隠していた想いが、とうとう言葉になった。
「弟子としてではなく…」
一度息を飲み、続ける。
「…一人の女として、あなたに愛されたい…」
最後の言葉は、懇願に近かった。
二人の間に、静寂が落ちる。
イェンミンはすぐには答えなかった。
ただ、目の前のヤーシンを静かに見つめている。
その沈黙が、ヤーシンにはひどく長く感じられた。
やがて、イェンミンが静かに口を開く。
「…お前のことは、弟子として愛している。」
一度、言葉を切る。
「だが…それ以上を望まれるのは、難しい。」
ヤーシンの表情が止まった。
「…え…?」
聞き返す声が、かすれる。
イェンミンは視線を逸らさなかった。
「すまない…」
それだけだった。
怒っているわけでも、嘲っているわけでもない。
ただ、変えることのできない事実を告げている。
「…そんな…」
ヤーシンは俯いた。
これまでなら、まだ耐えられた。
ジンランが特別に扱われていることも、いつか自分が努力すれば認めてもらえると思えば、耐えられた。
いつか振り向いてくれる。
そう信じていた。
けれど、その「いつか」が、今、静かに消えた。
「なぜ…?」
頬を涙が伝う。
「どうして…私では、だめなのですか…?」
イェンミンは答えなかった。
苦しげに眉を寄せるだけだった。
その表情を見て、ヤーシンの中に一つの考えが浮かぶ。
まさか――
「…ジンランが、いるから…?」
顔を上げる。
「私より、あの娘が…大切だというの…?」
声が震えた。
イェンミンは答えなかった。
ただ、わずかに目を伏せた。
その沈黙が、ヤーシンには答えのように思えた。
「…そう、なの…?」
呟きが落ちる。
イェンミンは何か言おうとしたが、結局、言葉を選べなかった。
ヤーシンの目から涙が溢れる。
これまで積み重ねてきた時間も、彼の弟子として過ごした日々も、いつか振り向いてくれると信じていた想いも。
すべてが、手の届かない場所へ落ちていく。
長い沈黙のあと。
ヤーシンは、ようやく声を振り絞った。
「…もう、いいです。」
そう言って、涙に濡れた顔をゆっくりと上げた。
その瞳には、先ほどまでのような必死さはなかった。
泣き疲れたのか。
それとも――何かを諦めたのか。
「イェンミン様と結ばれないのなら…私は、ここを去ります。」
イェンミンの眉が、わずかに動いた。
「…ヤーシン。」
呼び止めるような声。
けれど、ヤーシンは首を横に振った。
「もう、決めました。」
その声は震えていた。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「このまま弟子として、あなたの傍にいることはできません。」
胸の奥に残っていた最後の願いを、ひとつずつ手放すように言葉を続ける。
「あなたが私を見てくださらないのなら…ここに残っても、きっと私は…ジンランを憎み続けてしまう。」
その名を口にした瞬間、ヤーシンの表情がわずかに歪んだ。
自分でも分かっていた。
このままここにいれば、もう以前の自分には戻れない。
嫉妬に囚われ、ジンランを傷つけようとする自分を、止められなくなるかもしれない。
だからこそ――
「…師弟関係を、解消してください。」
その言葉だけは、はっきりと告げた。
静寂が落ちる。
イェンミンはすぐには答えなかった。
長い間、自分の傍にいた弟子。
誰よりも忠実で、誰よりも自分の教えを吸収しようとしていた。
時には厳しく叱り、時には力を与え、その成長を見守ってきた。
恋情を向けられていることには、気づいていた。
けれど、それを受け入れることはできなかった。
そして今。
その弟子が、自らこの館を去ろうとしている。
イェンミンは、静かに目を伏せた。
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
怒りなのか。
寂しさなのか。
それとも、長い年月を共に過ごした者を失うことへの喪失感なのか。
自分でも、分からなかった。
ただ一つ。
簡単に「行け」と言えるほど、軽い関係ではなかった。
イェンミンは深く息を吐いた。
「…わかった。」
低い声が、静かな部屋に響く。
「お前が、そこまで言うのなら…」
それ以上、引き止める言葉は出てこなかった。
ヤーシンは、静かに目を閉じた。
「…ありがとうございます。」
それは、最後の弟子としての言葉だった。
イェンミンは片手を上げる。
すると、彼女の身体から淡い黒い光が浮かび上がった。
長い年月をかけて授けられた闇の力。
それが、糸のように身体から引き抜かれていく。
「…っ」
ヤーシンの身体がわずかに揺れる。
これまで自分の一部だと思っていた力が、少しずつ失われていく。
イェンミンから与えられた力。
弟子として認められた証。
それは同時に、彼との繋がりそのものでもあった。
黒い光が消えると、ヤーシンの身体から力の気配が薄れていった。
イェンミンは最後に、彼女へ向けて指先を伸ばす。
「…これも、持っていくことはできない。」
短い言葉とともに、残された力が封じられる。
そして――
もう一つ。
黒い紋が、ヤーシンの身体に刻まれた。
「…これは…?」
ヤーシンが胸元に手を当てる。
イェンミンの瞳が、静かに彼女を見つめていた。
「師弟の契りを解いた者に、力を持ったまま外へ出られては困る。」
その声には、かつて弟子へ向けていた厳しさがあった。
「その呪いがある限り、封じた力を再び使うことはできない。」
ヤーシンは、しばらくその紋を見つめていた。
そして、静かに頷く。
「…分かりました。」
恨み言は言わなかった。
もう、何かを求める気力も残っていなかった。
ただ――
これで、本当に終わる。
そう思った。
ヤーシンは深く頭を下げる。
「今まで…ありがとうございました。」
イェンミンは答えなかった。
ただ、静かに彼女を見つめていた。
ヤーシンも、それ以上は何も言わない。
踵を返し、館の外へ向かって歩き出す。
一歩。
また一歩。
長い年月を過ごした館が、少しずつ遠ざかっていく。
振り返れば、そこには自分が憧れ、敬い、そして愛した人がいる。
けれど――
ヤーシンは振り返らなかった。
扉を開ける。
冷たい夜風が頬を撫でた。
館の中とは違う空気だった。
山の夜は静かで、遠くから木々のざわめきが聞こえる。
ヤーシンは、ふと足を止めた。
「…静か…」
思わず、小さく呟く。
胸の奥に、奇妙な感覚があった。
寂しい。
確かに寂しい。
これまで当たり前のように存在していたものを、すべて置いてきたのだから。
けれど、それだけではなかった。
身体が、軽い。
誰かの顔色を窺う必要もない。
認めてもらおうと無理をする必要もない。
誰かと比べる必要もない。
ただ、自分の足で立っている。
そのことが、不思議だった。
「…私…」
ヤーシンは自分の胸に手を当てる。
そこには、もう以前のような闇の力は感じられない。
代わりに残っていたのは、ひどく静かな自分自身の心だった。
――私は、本当にイェンミン様を愛していたのだろうか。
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
ずっと愛していると思っていた。
傍にいたい。
認められたい。
必要とされたい。
けれど、それは本当に愛だったのだろうか。
それとも――
彼に認められることだけを求めるうちに、自分自身の心まで彼に預けてしまっていたのではないか。
「…支配、されていただけ…?」
その言葉は、夜の中へ静かに消えた。
答えは分からない。
それでも。
初めて、誰の弟子でもない場所に立ったことで、ヤーシンはほんの少しだけ、自分自身の心に触れた気がした。
そして――
その夜。
山の空が、突然、深い闇に覆われた。
先ほどまで見えていた月が雲に飲まれ、山々が一瞬で黒く沈む。
ぽつり。
冷たい雫が、ヤーシンの頬に落ちた。
「…雨?」
次の瞬間。
空から降り注いだ雨は、ただの雨ではなかった。
黒い雫が、夜の山を覆っていく。
それは闇の術によって生まれた瘴気を含んだ雨だった。
ヤーシンは、何が起きているのか理解できないまま、空を見上げた。
黒い雨が、髪を濡らす。
頬を伝う。
身体から、少しずつ力が抜けていく。
「…なに、これ…」
一歩、踏み出そうとする。
けれど、足に力が入らない。
膝が崩れた。
「…っ」
ヤーシンはその場に倒れ込んだ。
冷たい地面が頬に触れる。
遠くに、館の明かりがぼんやりと見えていた。
その光を見つめながら、ヤーシンはふっと目を細める。
悲しいはずなのに。
なぜか、心は静かだった。
もう、追いかけなくていい。
もう、誰かに認めてもらおうとしなくていい。
もう、嫉妬に苦しむ必要もない。
「…これで…」
声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。
それでも、最後に微笑む。
「…自由ね。」
その瞬間。
身体に残っていたイェンミンの力の残滓が、淡い闇となって彼女の周囲を包んだ。
呪いに縛られた魂を、その力が静かにほどいていく。
肉体から魂が離れ、夜の闇へ溶けていく。
ヤーシンの表情から、苦しみが消えた。
長い間、彼女を縛り続けていた想いも。
届かなかった愛も。
嫉妬も、憎しみも。
すべてが静かにほどけていく。
黒い雨だけが、山を濡らし続けていた。
そして――
その夜。
ヤーシンは、誰にも看取られることなく、静かに息を引き取った。
翌日。
山には、朝から雨が降り続いていた。
厚い雲が空を覆い、陽の光は一度も差し込まない。
雨粒は絶え間なく屋根や木々を打ち、その音が館全体を包み込んでいる。
それだけではなかった。
山の奥から流れてくる瘴気が、雨に混じるように漂っていた。
空気は冷たく、重い。
息を吸うだけで、胸の奥まで冷気が入り込んでくるようだった。
館の中でも、弟子たちは落ち着きを失っていた。
廊下を行き交う足音。
小さく交わされる声。
誰かが口を開くたび、別の誰かが周囲を気にして声を潜める。
「…まだ、止まないな。」
「この瘴気…いつもと違う。」
「何かあったんじゃ…」
そのとき。
館の奥から、一人の弟子が駆けてきた。
顔色が悪い。
息を切らしながら、周囲を見渡す。
「…ヤーシンのことで、報告があります。」
その一言で、周囲の空気が変わった。
「ヤーシン?」
弟子たちが顔を見合わせる。
やがて、その弟子は震える声で告げた。
「…ヤーシンが…命を落としました。」
一瞬。
誰も言葉を発しなかった。
雨音だけが、異様なほど大きく聞こえる。
「嘘…だろ。」
「昨日、館を出たばかりじゃ…」
「まさか…」
ざわめきが広がる。
ヤーシンは、長い間この館にいた弟子だった。
イェンミンからも信頼され、他の弟子たちからも一目置かれていた。
その彼女が――
館を去った翌日に、命を落とした。
あまりにも早すぎる死だった。
そして誰もが、その意味を考えずにはいられなかった。
しばらくして、弟子たちは広間へ集められた。
重い空気の中、イェンミンが姿を現す。
誰も口を開かない。
イェンミンは集まった弟子たちを静かに見渡した。
そして、淡々と告げる。
「ヤーシンが死んだ。」
その声には、感情らしい感情は表れていなかった。
「昨夜、館を出たあと、瘴気を含んだ雨に打たれたようだ。」
弟子たちの間に、再びざわめきが起こる。
けれど、イェンミンはそれを制するように、静かに言葉を続けた。
「ここを去る者は、授けた力を封印される。」
一拍。
「そして――呪われる。」
空気が凍った。
誰かが息を呑む。
「…呪われる?」
小さな声が漏れた。
イェンミンは否定しなかった。
「師弟の契りを解いた以上、与えた力をそのまま持たせることはできない。」
淡々とした説明。
それは、彼にとって当然の決まりなのかもしれない。
けれど。
弟子たちにとっては、まったく違った。
「じゃあ…ここを出たら…」
「ヤーシンも、それで…?」
「そんな…」
声を潜める者。
俯く者。
互いの顔を見つめる者。
広間の中に、押し殺したような動揺が広がっていく。
その中で。
ジンランは、ただ立ち尽くしていた。
身体が、わずかに震えている。
――ここを去ったら、呪われる。
その言葉だけが、頭の中に残った。
昨日までなら。
いつか、この館を出ることもあるかもしれない。
そんなことを、漠然と考えていた。
母のもとへ帰ることも。
村へ戻ることも。
この場所で学んだ力を、誰かを救うために使うことも。
けれど――
もし、自分がここを去ったら。
ヤーシンと同じように呪われるのだとしたら。
ジンランは無意識に胸元を押さえた。
「…お母さん…」
遠く離れた場所にいる母の顔が浮かぶ。
もし、自分に何かあったら。
もし、この呪いが自分だけで終わらなかったら。
母にまで影響が及ぶことはないのだろうか。
そんな保証は、どこにもない。
胸の奥が、冷たく締めつけられる。
――帰れない。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
帰りたいと思っても。
ここを出たいと思っても。
自分一人の意思だけでは、決められない。
ジンランは、そっと視線を落とした。
昨日まで感じていた館の暗さとは、違う。
今、彼女を包んでいるのは、もっとはっきりとした恐怖だった。
(ヤーシンさえ…)
脳裏に、彼女の姿が浮かぶ。
ずっと彼を慕い、傍にいた弟子。
それほど長く仕えていた彼女でさえ――
館を去れば、力を奪われ、呪われる。
そして、命を落とした。
ジンランは、唇を噛んだ。
ヤーシンは、かつて自分を疎んでいた。
冷たい言葉を投げられたこともある。
陰で辛く当たられたこともあった。
だからといって。
今、その死を喜ぶ気持ちなど、どこにもなかった。
むしろ、胸に残ったのは悲しさだった。
彼女もまた。
この館で生きるために、必死だったのかもしれない。
イェンミンに認められたくて。
傍にいたくて。
自分の居場所を失いたくなくて。
だからこそ、あれほどまでに彼を信じ、縋っていたのかもしれない。
そして―― 彼の傍にいる私に、あれほどきつく当たっていたのも。
自分の居場所を奪われることが、怖かったからなのかもしれない。
ジンランは、ゆっくりとイェンミンを見る。
彼はいつもと変わらない顔をしていた。
静かで、冷静で。
まるで、昨日一人の弟子を失ったことさえ、遠い出来事であるかのように。
けれど。
ジンランには、その姿が以前とは違って見えた。
これまで、イェンミンの言葉は厳しくても、自分を導くためのものだと思っていた。
闇の力を教えてくれた。
傷ついたときには守ってくれた。
自分を必要としてくれた。
だからこそ、彼の傍にいることに安心していた。
けれど――
今になって、ひとつの疑問が胸の奥に浮かび上がる。
自分がここにいるのは。
本当に、自分自身が望んでいるからなのだろうか。
それとも。
ここを離れたら何が起こるか分からないから、恐ろしくて留まっているだけなのだろうか。
答えを出すことができない。
ただ、広間に響く雨音だけが、そんなジンランの迷いを覆い隠すように降り続いていた。
そのとき。
イェンミンが、静かに口を開いた。
「恐れる必要はない。」
ジンランの肩が小さく揺れる。
「ここにいる限り、お前たちは私の弟子だ。」
その言葉は、守るという約束にも聞こえた。
けれど同時に――
「ここにいる限り」
その一言が、ジンランの胸に引っかかった。
外へ出る自由はない。
去れば、力を失う。
そして、呪われる。
ここに残れば、守られる。
ここを出れば――何が待っているか分からない。
いつの間にか。
「残る」ということが、自分の意思だけでは選べないものになっていた。
ジンランは震える指を、そっと握りしめる。
尊敬していた師。
救ってくれた人。
自分を必要としてくれた人。
その人が今、慈悲ではなく恐怖によって弟子たちを繋ぎ止めている。
そう気づいた瞬間。
背筋を、冷たいものが走った。
外では、黒い雨が降り続いている。
館の中には、誰も逆らえない静寂が広がっていた。
そしてジンランは、初めて――
この場所へ来たことを、後悔した。
イェンミンと師弟の契りを交わしてしまったことも。
もし、彼に出会わなければ。
そんな考えが、今になって胸の奥に浮かんでくる。
けれど――
もう、すべては遅すぎた。
その日以降。
ジンランは、イェンミンからの誘いを断らなくなった。
「わかりました。」
そう答えるたび、胸の奥に小さな痛みが走る。
それでも、表情には出さなかった。
母を守るため。
それだけだった。
ここを離れることができないのなら――
せめて、自分が従うことで母の身に危険が及ばないようにする。
そう決めた。
自分が何を望んでいるのか。
何をしたいのか。
そんなことは、もう考えない。
考えてしまえば、きっと苦しくなる。
だからジンランは、自分の心に蓋をした。
イェンミンに呼ばれれば行く。
手を差し出されれば、その手を取る。
傍に来いと言われれば、逆らわずに従う。
それは一見、以前と変わらない姿だった。
けれど――ひとつだけ、決定的に違っていた。
そこに、かつての無邪気な喜びがなかった。
イェンミンの傍にいることを、心から嬉しいと思えなくなっていた。
彼の声を聞けば安心していたはずなのに。
手を触れられれば、胸の奥が温かくなっていたはずなのに。
今はただ、
「はい。」
と、静かに頷く。
その返事の奥にあるものを、イェンミンは見逃さなかった。
ある夜。
いつものようにジンランが彼のもとへ来た。
灯りの揺れる部屋の中で、彼女は黙って座っている。
イェンミンが手を伸ばすと、ジンランも拒まなかった。
けれど、自分から触れようとはしない。
そのわずかな違いが、妙に鮮明だった。
イェンミンは何も言わない。
ただ、彼女の横顔を見つめていた。
伏せられた睫毛。
わずかに強張った指先。
そして、自分の言葉を待つように静かにしている姿。
それは従順だった。
けれど――心から望んでいる者の姿ではなかった。
イェンミンの胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
(…お前の心は、私の手中にはない。)
どれだけ傍に置いても。
どれだけ拒むことのできない場所へ追い込んでも。
心だけは、思い通りにならない。
それでも。
目の前にいる彼女を、自分の手の届かない場所へ行かせることだけは、どうしても耐えられなかった。
(…だが、行動なら縛れる。)
その考えに辿り着いた瞬間、イェンミン自身の胸に、かすかな苦味が広がった。
これが正しいことなのか。
そんな問いは、もう何度も心の中に浮かんでいた。
けれど、そのたびに彼は押し込めた。
失いたくない。
それだけは、どうしても譲れなかった。
ジンランが自分のもとから離れてしまうことを想像するだけで、胸の奥がざわめく。
だから、心が手に入らないのなら――
せめて、その身体だけでも、自分の傍に置いておきたい。
そんな独占欲が、静かに、しかし確実に膨らんでいった。
夜が来るたび、二人は互いを求めた。
けれど、その時間さえも、以前とは違っていた。
ジンランは拒まない。
イェンミンの求めに応じる。
それでも、その瞳の奥には、どこか遠い場所を見ているような静けさがあった。
彼女がここにいる理由を、イェンミンは知っている。
自分を求めているからではない。
呪われないため。
そして――
自分と母の命を守るため。
その事実が、二人の間に見えない壁を作っていた。
触れれば触れるほど、その壁の存在だけが鮮明になる。
イェンミンは、彼女を腕の中に抱き寄せる。
近くにいる。
それなのに――届かない。
その矛盾が、彼の中に少しずつ積もっていった。
ジンランもまた、目を閉じるたびに、胸の奥に空洞が広がっていくのを感じていた。
かつては、彼の傍にいることに安らぎを感じていた。
その腕に抱かれることを、嬉しいと思っていた。
けれど今は――
その記憶さえ、遠いものになっていた。
嫌いになったわけではない。
愛情が、すべて消えたわけでもない。
ただ、その中に恐怖が混じってしまった。
彼の声を聞けば、身体が強張る。
その瞳を見ることさえ、怖い。
もう、愛情と恐怖を切り離して考えることはできなかった。
自分がここにいるのは、自分の意思ではない。
その事実こそが、ジンランにとって何よりも深い絶望だった。
二人は互いを求めながら、そのたびに少しずつ遠ざかっていった。
近づけば近づくほど、心の距離だけが見えてしまう。
そして、その距離を埋めるように、二人が互いを求める夜は増えていった。
外では、雨が降り続いていた。
何日経っても、山を覆う雲は晴れない。
冷たい雨は屋根を打ち、白い霧となって山肌を這う。
その霧の向こうには、もうヤーシンはいない。
彼女の死は、館に残された者たちの心に、消えない影を落としていた。
ジンランにとっては、自分がこの場所から離れることのできない理由となり。
イェンミンにとっては、手放せば失うという恐れを、より深く刻みつけた。
光と闇。
守ることと縛ること。
愛することと、所有すること。
その境界は、いつしか二人の間で見分けがつかなくなっていた。
そしてその夜もまた、降り続く雨の音だけが、閉ざされた部屋の中に響いていた。




