光へ舞う蝶
外の世界は、音を失っていた。
少なくとも、ジンランにとっては――
そう感じられるほど、遠いものになっていた。
重く閉ざされた館の一室。
朝の淡い光が、障子越しの窓から細く差し込んでいる。
けれど、その光は部屋の奥まで届くことはなく、床に細長い帯を作るだけだった。
格子の影が、畳の上に規則正しく落ちている。
まるで、そこに見えない檻があるかのようだった。
ジンランは、その影の傍に座り、静かに息を吐いた。
冷たい空気が肺に入り、ゆっくりと身体の中を巡っていく。
以前なら、この時間には外から鳥の声が聞こえていた。
風に揺れる木々の葉音。
遠くから聞こえる水の流れ。
朝を告げる鳥の声や、館で働く者たちのかすかな足音。
そんな何気ない音が、確かにここにもあったはずなのに。
今では、それらすべてがひどく遠い。
耳を澄ませても、聞こえてくるのは自分の呼吸と、衣擦れの音だけだった。
ジンランは、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が、床に落ちた朝の光へ触れる。
もちろん、触れられるはずはない。
それでも彼女は、そこに何かを確かめるように、細い光の上を指先でなぞった。
暖かい。
ほんのわずかだけれど、確かに外の世界と繋がっているような気がした。
「…あの向こうには、何があるんだろう…」
呟きは、誰に届くこともなく部屋の中へ消えていく。
窓の向こうには、いつもと変わらない景色がある。
山々。
木々。
空。
風に揺れる草花。
ほんの少し視線を上げれば、どこまでも続いているはずの空が見える。
けれど、ジンランのいる場所からは、それらをただ眺めることしかできなかった。
窓は開けられる。
扉も、開けようと思えば開けられる。
それなのに――外へ出ることだけは、許されていない。
イェンミンに外出を禁じられてから、いったいどれほどの月日が過ぎたのか。
もう、正確には分からなかった。
季節がいくつ巡ったのかさえ、曖昧になっている。
ただ毎日、同じ館の中で修行をして。
与えられた食事を取り。
夜になれば、静かな部屋で眠る。
それを繰り返しているうちに、時間の感覚そのものが薄れていった。
けれど、あの日に聞いた言葉だけは、今も鮮明に覚えている。
『お前は今後、私の許可なしで外出するな。』
あまりにも静かな声だった。
怒鳴られたわけではない。
脅されたわけでもない。
それなのに、その言葉には逆らうことを許さない強さがあった。
そして、続いた言葉。
『お前は光を知りすぎている。本気で変わりたいなら、しばらく闇に籠もれ。これも修行だ。』
――これも修行。
そう言われれば、ジンランには受け入れるしかなかった。
イェンミンは、自分よりもずっと多くのことを知っている。
闇の力を扱い、呪術を操り、長い年月を生きてきた彼には、自分には見えないものが見えているのだろう。
だから、これは自分を試すためなのだ。
光だけに頼らず、闇を知るため。
自分の力を制御するため。
そして――弱いままの自分では、誰も守れないから。
そう言い聞かせてきた。
何度も。
何度も。
だから、理解しているつもりだった。
イェンミンが、自分を“試して”いるのだということを。
けれど。
頭で理解することと、心が納得することは、同じではなかった。
ジンランは、再び窓の外へ目を向けた。
風が吹いた。
木々の枝が揺れ、葉の隙間から差し込む光が、細かく形を変える。
光が揺れるたびに、まるで外の世界がこちらへ手を伸ばしているように見えた。
ほんの少しだけ。
こちらへ来て、と。
そんなふうに呼ばれているような気がした。
ジンランは、無意識に胸元へ手を当てた。
胸の奥が、かすかにざわめいている。
イェンミンに感謝している気持ちは、まだ残っている。
母を救ってくれたこと。
自分に力を与えてくれたこと。
何も知らなかった自分に、闇というものを教えてくれたこと。
それらを忘れたわけではない。
だからこそ、自分でも分からなかった。
どうして今、こんなにも外が気になるのか。
どうして、ただ窓の向こうを見ているだけなのに、胸の奥が苦しくなるのか。
ジンランは、もう一度指先を光へ伸ばした。
けれど今度は、触れる寸前で手を止めた。
その向こうには、何があるのだろう。
村がある。
母がいる。
自分がかつて歩いていた道がある。
知らない人々が暮らし、風が吹き、雨が降り、朝が来て、夜になる。
そしてきっと――自分の知らない世界が、今も何事もなかったかのように動いている。
その当たり前の光景を思い浮かべた瞬間。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
それは、まだ言葉にはできないほどかすかなものだった。
けれど確かに――
「自由になりたい」と、願う気持ちだった。
ジンランは、その感情に気づいたことが怖くなって、そっと目を伏せた。
自由を望むということは。
ここを出たいということなのだろうか。
イェンミンの傍を離れたいということなのだろうか。
――そんなつもりはないはず。
少なくとも、今はまだ。
けれど。
自分の胸の奥に芽生えたその小さなざわめきを、もう見ないふりをすることはできなかった。
朝の光は、今日も変わらず差し込んでいる。
格子の影は、その光の中に静かに伸びていた。
ジンランはその影を見つめながら、思った。
――私は、この先も自分の心に嘘をつき続けられるのだろうか。
その問いは、答えを求めることなく、胸の奥へ静かに沈んでいった。
その夜。
館は、深い静けさに包まれていた。
昼間はあれほど広く感じられた廊下も、夜になれば闇に沈み、どこまでも続いているように見える。
灯りは必要最低限しか灯されていない。
壁際に置かれた燭台の炎が、風もないのにかすかに揺れていた。
ジンランは、自室の窓辺にひとり座っていた。
昼間と同じ窓。
昼間と同じ格子。
けれど、夜のそれは昼間とはまるで違って見えた。
外には何も見えない。
木々も、山も、空も。
すべてが黒い闇の向こうへ沈んでいる。
それでもジンランには、そこに世界があることだけは分かっていた。
見えないだけで、風は吹いている。
木々は揺れている。
遠くでは、夜の生き物たちが息づいている。
そして――その世界は、ここからずっと続いている。
ジンランは膝を抱え、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
昼間に感じた胸のざわめきが、まだ消えない。
自由。
その言葉が、頭の中を何度も巡っていた。
けれど、それをどうすればいいのかは分からない。
外へ出ることは禁じられている。
勝手に出れば、イェンミンとの約束を破ることになる。
それに、もし見つかれば――
そこまで考えて、ジンランは小さく首を振った。
「…違う。」
自分でも、何が違うのか分からなかった。
ただ、今は考えることさえ苦しかった。
そのときだった。
ふと。
何かが、記憶の底から浮かび上がった。
――意念成形。
ジンランは顔を上げた。
「…意念成形…」
それは、イェンミンが教えてくれた修行のひとつだった。
まだ自分がここへ来たばかりの頃。
力の扱い方も分からず、ただ教えられたことを必死に覚えていた頃。
イェンミンは、静かな声でこう言っていた。
『意をもって形を超えよ。意があれば、気は動く。気が動けば、万象は応ず。』
当時のジンランには、その意味がよく分からなかった。
意が形を超える。
気が動く。
万象が応ずる。
言葉として聞けば美しい。
けれど、それが一体どういうことなのか。
何度考えても、掴めなかった。
形を変えるとは、身体を変えることなのか。
それとも、心を変えることなのか。
あるいは――その両方なのか。
イェンミンに尋ねても、彼は多くを語らなかった。
ただ、
『頭で理解するものではない。己の意で、己の形を動かせ。』
そう言っただけだった。
あの頃のジンランには、それができなかった。
自分が何を望んでいるのかさえ、はっきり分からなかったからだ。
ただ教えられたことを覚え。
ただ言われた通りに修行をして。
ただ、イェンミンの傍にいることを受け入れていた。
けれど――今は違う。
ジンランは、自分の胸に手を当てた。
ここ数日、いや、もっと前から。
胸の奥には、いくつもの願いが渦巻いていた。
ここに留まりたくない。
外を見たい。
風に触れたい。
自分の足で歩きたい。
誰かに許されるのを待つのではなく、自分自身で選びたい。
その想いは、最初は小さかった。
けれど、閉ざされた日々を重ねるほどに、少しずつ強くなっていた。
まるで、土の中で芽が伸びるように。
光を求めて、静かに。
けれど確実に。
「もし…」
ジンランは、ぽつりと呟いた。
「意が、本当に形を変えるのなら…」
窓の向こうへ目を向ける。
漆黒の夜。
その先には、風がある。
「私は…風にもなれるのかな。」
自分で口にして、少しだけ可笑しくなった。
そんなことが本当にできるのだろうか。
けれど。
胸の奥から、もうひとつの想像が浮かんだ。
ひらひらと舞う、小さな青い影。
花から花へ移り、風に乗り、どこへでも行ける存在。
蝶。
「…蝶にも、なれるはず。」
声にした瞬間。
胸の奥で、何かが小さく震えた。
できるかどうかではない。
今の自分には、それを試してみたいという強い“意”がある。
それだけで十分なのかもしれない。
ジンランは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、部屋の中央へ歩いていく。
誰にも見られていないことを確かめるように、静かに辺りを見回した。
燭台の炎が揺れている。
影が壁を滑っていく。
静寂だけが、彼女を包んでいた。
ジンランは、その場に腰を下ろした。
座を組み、背筋を伸ばす。
両の掌を重ねる。
目を閉じる。
――息を吸う。
ゆっくりと吐く。
もう一度。
吸う。
吐く。
身体の力を、ひとつずつ抜いていく。
肩。
腕。
指先。
胸。
そして、頭の中に浮かぶ余計な思考さえも。
イェンミンの声。
外へ出るなという言葉。
館の中で交わされる会話。
それらを、ひとつずつ遠ざけていく。
今だけは。
誰かの言葉ではなく。
誰かの許可でもなく。
自分自身の“意”だけを残す。
――私は、自由になりたい。
その言葉を、心の中で繰り返す。
もっと具体的に。
もっと鮮明に。
ジンランは、自分の身体が変わっていく様子を思い描いた。
指先が小さくなっていく。
腕が細くなる。
身体が軽くなる。
骨も、肉も、重ささえも。
すべてが風に溶けていく。
そして――
青い羽。
夜明け前の空のような、淡い青。
そこに光が差し込んだような、かすかな輝き。
その羽を広げる。
風を受ける。
どこにも縛られず、空を舞う。
――それが、今のジンランが望む姿だった。
その瞬間。
身体の奥で、何かが動いた。
かすかな光が、胸の中心から広がっていく。
最初は、ほんの一筋。
それが少しずつ強くなり、指先へ、腕へ、肩へと流れていく。
「…っ」
息を呑んだ。
身体が、軽い。
あまりにも軽い。
まるで、自分の身体そのものが、重さという概念を忘れていくようだった。
髪がふわりと浮き上がる。
何もないはずの部屋に、風が生まれた。
衣が揺れる。
頬を撫でる空気が、次第に強くなっていく。
ジンランは目を閉じたまま、その感覚に身を委ねた。
怖くない。
むしろ――懐かしい。
ずっと前から、自分はこの感覚を知っていたような。
そんな気さえした。
骨が軋む。
身体の輪郭が曖昧になる。
腕が溶けるように細くなり、指先が光の中へほどけていく。
痛みはなかった。
ただ、自分という存在の形だけが、静かに変わっていく。
人の身体という形を脱ぎ捨てるように。
もっと小さく。
もっと軽く。
もっと自由に。
その瞬間――
羽音が、一度だけ響いた。
ぱさり。
静まり返った部屋の空気が震える。
そして、光が弾けた。
白く淡い光が、朝焼けのように部屋を満たす。
やがて、それがゆっくりと収まっていく。
床に落ちていた光の粒が消え。
揺れていた空気が静まる。
そこには、もう娘の姿はなかった。
小さな身体。
細い触角。
そして――
夜明けの空を思わせる、淡い青の羽。
一匹の蝶が、静かに羽を開いた。
ぱた。
もう一度。
ぱた、ぱた。
ジンランの魂を宿したその蝶は、恐る恐る身体を浮かせる。
床から離れる。
ほんの少し。
それだけなのに――
胸の奥から、言葉にならない喜びが込み上げた。
自分の意志で浮かび上がった。
誰かに命じられたわけでもなく。
誰かに許されたわけでもない。
自分がそう願ったから。
自分が、そうしたかったから。
蝶は、閉ざされた部屋の中を、自由に舞った。
格子の間から差し込む、夜明け前の淡い光。
その向こうには、まだ深い闇が広がっている。
けれど、その闇の先には――空がある。
蝶は、小さな羽を震わせた。
そして――
自らの意思で、窓の向こうへと飛び立った。
窓の外へ出た瞬間。
ジンランは、早朝の外気に包まれた。
ひんやりとした風が、身体の隅々を撫でていく。
館の中では感じることのできなかった、澄んだ空気だった。
風は何にも囚われることなく、木々の間を抜け、山肌を撫で、そのままどこまでも遠くへ流れていく。
その風が、今はジンランの羽の間をすり抜けていった。
ふわり。
淡い青の羽が、風を受けて大きく揺れる。
「…」
声を出すことはできない。
けれど、その代わりに胸の奥から、言葉にならない感情が溢れてきた。
――気持ちいい。
それだけだった。
それだけなのに。
どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
朝の空には、まだ夜の名残が残っていた。
東の空が少しずつ白み始め、その向こうから、柔らかな光が滲み出している。
やがて昇り始めた太陽の光が、無数の小さな粒となって、ジンランの羽へ降り注いだ。
淡い青の羽が、金色の光を受けて透き通る。
一枚一枚の羽が、朝の光を抱くように輝いていた。
まるで、自分自身が光の中に溶けてしまったようだった。
ジンランは、思わず羽ばたきを止めた。
風に身体を預ける。
落ちない。
怖くない。
ただ、浮かんでいる。
誰かに支えられているわけでもない。
誰かに手を引かれているわけでもない。
自分自身の羽で、空にいる。
その事実が、胸の奥を震わせた。
(…こんなにも世界は、広くて…)
山々が見える。
どこまでも続く空がある。
朝日に照らされる木々がある。
風がある。
そして、そのすべてが、自分を拒むことなくそこにある。
(…優しかったのね。)
その瞬間。
長い間閉ざされていた胸が、ようやく呼吸の仕方を思い出したように、大きく膨らんだ。
館の中では、いつもどこかで息を潜めていた。
誰かの気配を感じれば身を固くし。
足音が聞こえれば、何を言われるのかと考え。
何かを望むときでさえ、それが許されるのかを先に考えていた。
けれど今は違う。
風が吹けば、その風に乗ればいい。
行きたいと思えば、行けばいい。
止まりたいと思えば、止まればいい。
ただ、それだけだった。
それだけのことが、こんなにも自由なのだと――
ジンランは初めて知った。
ジンランは、ゆっくりと羽ばたいた。
山の稜線を越える。
眼下に広がる森を抜ける。
木々の葉が朝露をまとい、きらきらと輝いている。
小さな花々が、朝の光を受けて開き始めていた。
風に乗るたび、身体が軽くなる。
ひとつ、またひとつと山を越えていく。
館は、もう見えなくなっていた。
それでも不思議と、怖くはなかった。
むしろ胸の奥に、今まで感じたことのない静かな安堵が広がっていく。
――もっと遠くへ。
そんな思いが自然に湧いた。
そして、しばらく飛び続けた先。
山々の間に、ひっそりと広がる湖が見えた。
まるで鏡のように静かな湖だった。
風が弱まると、湖面は空の色をそのまま映し出す。
淡い青。
薄紫。
そして、昇り始めた太陽の金色。
水面には一枚の葉さえ落ちておらず、波紋すらほとんどない。
ジンランは、ゆっくりと湖へ近づいていった。
その瞬間。
――何かが、視界の奥で光った。
蝶の小さな瞳では、その正体までは分からない。
けれど。
湖の奥に、淡く光るものがある。
水面に反射した朝日とは違う。
もっと静かで。
もっと柔らかく。
それでいて、どこか懐かしい光。
ジンランは、吸い寄せられるように羽ばたいた。
湖のほとりへ近づくにつれ、その光の輪郭が少しずつはっきりしていく。
人の形。
白い衣。
長い髪。
静かに立つ、一人の男。
男は湖畔に立っていた。
両の手を胸の前で静かに合わせ、まるで祈るように目を伏せている。
朝の光がその身体を包んでいる。
白い衣は風に揺れ、その輪郭はどこか現実から浮かび上がっているようだった。
不思議と、目を離すことができない。
まるで――
光そのものが、人の姿を借りてそこに立っているようだった。
ジンランの羽が、自然にその方向へ向きを変える。
一度。
二度。
羽ばたく。
近づくほどに、胸の奥が騒ぎ始めた。
知らない人のはずだった。
会ったことなどない。
名前さえ知らない。
それなのに。
どうして――
こんなにも、懐かしいのだろう。
心の奥底にしまわれていた何かを、静かに呼び起こされているようだった。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、ジンランを捉える。
淡い金色の光を宿した瞳。
その瞬間。
ジンランの身体が、ほんの少し震えた。
――知っている。
そう思った。
頭では知らない。
記憶にもない。
けれど、魂のどこかが知っている。
この人を。
この光を。
この、静かな眼差しを。
男は何も言わなかった。
ただ、穏やかにジンランを見つめていた。
そして。
ゆっくりと右手を上げる。
長い指が、朝の空気の中へ伸びていく。
やがて、人差し指だけが静かに差し出された。
まるで、
「こちらへ」
そう告げているようだった。
ジンランは、一瞬だけ迷った。
けれど。
その迷いは、すぐに消えた。
怖くなかった。
むしろ、その指先へ行くことが、ずっと前から決まっていたことのように思えた。
彼女は小さく羽ばたき――
男の指先へ、そっと舞い降りた。
細い指に、小さな六枚の脚が触れる。
羽が震える。
男の指先は、驚くほど温かかった。
そして。
ジンランは、その瞳と目を合わせた。
その瞬間だった。
胸の奥へ、何かが静かに流れ込んできた。
言葉ではない。
記憶でもない。
もっと深いところから、直接魂へ触れてくるような感覚。
懐かしい。
悲しい。
けれど――温かい。
なぜだか分からない。
ただ、その眼差しを見ているだけで、胸の奥に固く閉じ込めていたものが、少しずつほどけていく。
涙が溢れた。
蝶の身体では涙を流すことなどできないはずなのに。
それでも、ジンランの魂は泣いていた。
男は、そんな彼女を静かに見つめていた。
そして、微笑む。
その笑顔には、どこか深い哀しみがあった。
けれど同時に、長い間待ち続けていた者だけが持つような、穏やかな優しさもあった。
やがて男は、静かな声で告げた。
「闇に触れても、光を忘れるな。」
その言葉が、湖畔の静寂に溶けていく。
「光は、お前の中にもある。」
――その瞬間。
ジンランの魂が、大きく震えた。
知っている。
この言葉を。
この声を。
夢の中で聞いた。
『闇に触れても、光を忘れるな。』
あのときも、同じだった。
けれど、目の前にいるこの人が誰なのかは分からない。
どうして自分がこの人を知っているように感じるのかも。
それでも――
その言葉だけは、疑うことができなかった。
まるで、自分の魂がずっと昔から覚えていた言葉だったから。
涙が、止まらなかった。
誰かに「忘れるな」と言ってもらえたことが、どうしようもなく嬉しかった。
光を忘れてはいけない。
自分の中に、まだ光がある。
それを思い出しただけで、胸の奥に小さな灯火がともったようだった。
男は、しばらく黙ってジンランを見つめていた。
やがて。
その指を、ほんの少し下ろす。
すると、身体の輪郭が淡い光に包まれ始めた。
ジンランが羽を震わせる。
光は次第に強くなり、白い衣も、長い髪も、金色の瞳も、朝靄の向こうへ溶けるように薄れていく。
待って。
そう伝えたかった。
もっと聞きたい。
あなたは誰なのか。
どうして私を知っているのか。
どうして、こんなにも懐かしいのか。
けれど、声にはならない。
小さな蝶は、ただ必死に羽を震わせた。
男は、そんな彼女を見て、最後にもう一度だけ微笑んだ。
そして――
柔らかな声が、静かな湖畔に響いた。
「もう、帰りなさい。」
その言葉と同時に。
湖面が、ふわりと光を放った。
朝の光とは違う。
水の底から、淡い金色の光が湧き上がるように広がっていく。
波紋が湖面を走る。
光は湖いっぱいに広がり、その輝きが男の姿を包み込んでいく。
やがて――
男の姿は、完全に消えた。
残ったのは、静かな湖と、朝の風だけだった。
ジンランは、その場にしばらく留まっていた。
指先に残っているような、あの温もり。
耳の奥に残る、あの声。
胸の奥に残る、言葉。
――闇に触れても、光を忘れるな。
ジンランは涙を零した。
けれど、その涙はもう悲しみだけのものではなかった。
彼女は、ゆっくりと羽を広げる。
そして。
空へ向かって、大きく羽ばたいた。
青い蝶は、早朝の光の中へ舞い上がっていく。
湖面に映る小さな影が、どんどん遠ざかっていく。
その姿はまるで――
暗闇の中で、もう一度自分の光を見つけた魂そのものだった。
館へ戻る頃には、辺りはすっかり朝の気配に包まれていた。
東の空から昇った太陽が、山々の稜線を淡く照らしている。
夜の名残を残していた空は、少しずつ青さを取り戻し、森の木々には朝露が光っていた。
鳥たちが、遠くで鳴いている。
風が木々の間を抜け、葉を揺らす。
世界は何事もなかったかのように、いつもの朝を迎えていた。
けれど――
ジンランにとっては、何もかもが違って見えた。
朝の光さえ、昨日までとは違う。
風の匂いも。
鳥の声も。
木々の揺れる音も。
すべてが、こんなにも近くにあったのだと、今さら気づかされる。
館の屋根が見えてくる。
その光景を目にした瞬間、ジンランは少しだけ速度を落とした。
胸の奥に、かすかな戸惑いが生まれる。
戻らなければ。
そう思う。
けれど――
ほんの少しだけ、戻りたくないとも思った。
自由に空を飛べる時間は、あまりにも短かった。
それでも。
あの風に触れたこと。
朝の光を浴びたこと。
湖の静けさに包まれたこと。
そして――あの人に出会ったこと。
そのすべてが、確かに自分の中に残っている。
ジンランは、館の中へふわりと舞い降りると、静かに目を閉じた。
意識を集中させる。
身体の奥に流れる力を感じる。
すると、青い羽が淡い光に包まれた。
小さな身体がゆっくりと輪郭を変えていく。
羽が光へ溶ける。
細い脚が、腕へと戻る。
軽かった身体に、少しずつ重さが戻ってくる。
やがて光が消えると――
そこには、いつものジンランが立っていた。
人の姿に戻ったはずなのに、まだ身体のどこかが空を覚えている。
羽ばたけば、また飛べるような気がした。
彼女はゆっくりと胸に手を当てた。
心臓が、まだ震えている。
速い鼓動。
それは恐怖からではなかった。
興奮とも少し違う。
もっと深いところで、何かが大きく揺さぶられている。
湖畔で見た、あの人。
白い衣。
静かな眼差し。
淡い金色の瞳。
そして――
あの声。
『闇に触れても、光を忘れるな。』
「…あの人は、誰なんだろう…」
声に出してみても、答えは返ってこない。
ジンランは、ぼんやりと朝の空を見上げた。
「どうして…」
言葉が途切れる。
胸の奥が、また熱くなる。
「どうして、あの光を見て…涙が出るの…」
自分でも分からない。
悲しいわけではない。
むしろ――
あの人の前にいたときだけは、長い間胸の奥に押し込めていたものが、すべて許されたような気がした。
何かを望んでもいい。
何かを求めてもいい。
光を持っていてもいい。
そんなふうに、言葉にならない何かを肯定されたような気がした。
だから、涙が出たのだろうか。
それとも。
もっと昔から、自分はあの人を知っていたのだろうか。
記憶にはない。
名前も知らない。
それなのに、魂だけが知っているような感覚。
ジンランは、そっと目を伏せた。
頬を、一筋の涙が伝っていく。
それは朝の光を受けて、小さな雫となって輝いた。
涙が頬を伝い、静かに衣の襟を濡らしていく。
ジンランはそれを拭おうともせず、ただ立っていた。
その背後で――
かすかな音がした。
障子が、ほんの少しだけ揺れる。
ジンランは気づかなかった。
けれど、その隙間から差し込んでいた朝の光が、一瞬だけ遮られた。
そこに、人影が立っていた。
イェンミンだった。
彼は何も言わなかった。
ただ、そこに立っていた。
朝の淡い光が、その横顔を照らしている。
いつもと変わらない、静かな表情。
けれど――
その瞳だけが、いつもとは違っていた。
イェンミンは、目の前にいるジンランを見つめている。
朝露に濡れた髪。
涙に濡れた頬。
そして、何か大切なものを抱えるように胸へ手を当てている姿。
何があったのか。
どこへ行っていたのか。
問いかけることはできた。
いや。
問いかけなければならないはずだった。
けれど、イェンミンは口を開かなかった。
ジンランの周囲に、まだかすかに残っている光。
それを見つめていた。
自分が知っている光とは違う。
彼女自身が生み出したものとも、少し違う。
もっと遠い場所から来たような。
もっと澄んでいて――
そして、どこか懐かしい光。
その光を見た瞬間。
イェンミンの胸の奥に、今まで感じたことのない感情が生まれた。
不安。
それだけではない。
もっと根深いものだった。
恐れ。
自分でも、その感情を認めたくなかった。
自分は闇の中で生きてきた。
何かを失うことにも慣れている。
誰かに拒絶されることにも。
孤独にも。
それなのに。
今だけは違った。
目の前にいる彼女が、自分の知らない光に触れている。
その光の中で、これまで見たことのない顔をしている。
そして――
その光を見つめながら、涙を流している。
まるで、自分の知らない場所で。
自分の知らない誰かに。
心の一部を預けてきたかのように。
胸の奥で、いくつもの思いが次々と浮かんでは、心を揺らしていた。
――あの光は、何だ。
――誰のものだ。
――あの光を、誰がジンランに与えた。
けれど、そのどれよりも強く浮かんだのは。
(…あの光に)
一瞬、呼吸が止まる。
(彼女を…奪われるかもしれない。)
その考えが浮かんだ瞬間。
イェンミンの瞳の奥に、初めて明確な“恐れ”が宿った。
これまでなら、力で抑えればいいと思えた。
言葉で縛ればいい。
外へ出ることを禁じればいい。
闇を教えればいい。
自分の傍に置けばいい。
そうすれば、ジンランはここにいる。
自分の手の届く場所にいる。
けれど――
もし、彼女の心の中に、自分には触れられない光があるのだとしたら。
もし、その光が彼女をどこかへ導くのだとしたら。
自分は、何をしてもそれを止められないのではないか。
そんな予感が、胸の奥を冷たく撫でた。
イェンミンは、ゆっくりと拳を握った。
それは怒りなのか。
焦りなのか。
それとも――失うことへの恐れなのか。
彼自身にも、まだ分からなかった。
一方、ジンランはそんな視線に気づかないまま、涙を拭った。
「…不思議。」
小さく笑う。
「初めて会ったはずなのに…」
その声を聞いた瞬間。
イェンミンの瞳が、わずかに細くなった。
けれど、彼は何も言わなかった。
ただ静かに、ジンランを見つめていた。
朝の光が、二人の間に差し込んでいる。
けれどその光は――
今まで二人を照らしていたものとは、もう少し違って見えた。
ジンランにとっては、初めて触れた自由の光。
そしてイェンミンにとっては――
自分の手の届かない場所へ、彼女を連れていくかもしれない光だった。
外では、鳥たちがさえずっている。
朝の静けさに、柔らかな音が重なっていく。
世界は何も知らないまま、いつもの朝を迎えていた。
けれど。
二人の間には、まだ言葉にならない何かが生まれていた。
光と闇。
その境界に立つジンランを見つめながら――
イェンミンは初めて、自分の中に芽生えた“失うことへの恐れ”から、目を逸らすことができなかった。




