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冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


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11/21

失われた拠り所

イェンミンの館は、かつての威厳と力強さを、少しずつ失いつつあった。


かつては、遠方からも依頼者が絶えなかった。

呪いを解いてほしい者。

病に伏した家族を救ってほしい者。

自分ではどうにもできない災いから逃れようと、最後の頼みとしてこの館を訪れる者。


そして――

誰かへの復讐を果たすため、呪いを依頼する者もいた。


山深い場所に建つその館を目指し、人々は何日もかけて険しい道を越えてきた。


館の門前には、時に人の列ができた。

依頼を待つ者たちの声が行き交い、弟子たちは忙しなく館内を走り回り、夜になっても灯りが消えることはなかった。


イェンミンの名は、それだけで人を動かすほどの力を持っていた。


だが――今は違う。


門の前に立っても、人の気配はほとんどない。

風が木々の葉を揺らし、乾いた音だけが静寂の中に響いている。

かつてなら聞こえていたはずの話し声も、足音も、依頼者たちのざわめきもない。

ただ、広すぎる館だけが、そこに取り残されたように佇んでいた。


依頼は、目に見えて減っていた。

一件、また一件と途絶えていき、気づけば、以前なら一日中鳴り続けていた呼び出しの音さえ、ほとんど聞こえなくなっていた。


理由は、一つではない。

だが、その根にあるものを、イェンミン自身は理解していた。


――ヤーシン。

長年、弟子として傍に置き、可愛がってきた存在。

娘のように思い、守ってきた存在。

そのヤーシンを、彼は自らの手で手放した。


いや――

手放しただけではない。

自らの手で、その力を封じた。


そして、彼女に呪いを与え――

その命さえ、自らの手で終わらせた。


その日を境に、館を包んでいた呪力には、わずかな乱れが生じていた。

ほんのかすかな変化だった。


術を使えないほどではない。

結界が崩れるほどでもない。

それでも、長くこの館に身を置いてきた者ならば、気づかずにはいられないほどの違和感だった。


空気が、どこか重い。

以前なら自然に流れていた呪力が、どこかで引っかかる。

館そのものが、何かを失ったかのように、静かに脈打っていた。


そして、その異変を感じ取ったのは弟子たちだけではなかった。

館を訪れる者たちもまた、理由の分からない不安を覚えるようになっていた。


「最近、あの館の呪術は不安定らしい。」


そんな噂が、山を越え、村を越え、少しずつ広がっていった。


誰かが明確な証拠を持っているわけではない。

ただ、以前とは何かが違う。

そう感じる者が増えていった。


一度不安を抱いた人間は、わざわざ危うい場所へ足を運ぼうとはしない。

それは、呪術や回復の力を求めて訪れる者にとって、なおさらだった。


その結果、依頼者はさらに減っていった。


それでも――

イェンミンは、表面上、何も変わらないように振る舞っていた。


いつものように背筋を伸ばし、いつものように静かな顔をしている。

弟子たちの前では、動揺など一切見せなかった。

館の中に漂う沈黙にも、依頼の少なさにも、何ら興味がないような顔をしていた。


だが、その胸の奥では、焦燥がじわじわと広がっていた。


依頼が減る。

それは、単に人の出入りが減るということではない。

依頼が減れば、当然、得られる金も減る。


この館を維持するための費用。

弟子たちを養うための金。

薬や術具を揃えるための費用。


これまで当然のように保たれていた生活が、少しずつ揺らぎ始めている。


今すぐ何かが壊れるわけではない。

だからこそ、余計に不気味だった。


目に見えないところから、少しずつ何かが削られている。

まるで、気づかないうちに足元の土が崩れていくように。


イェンミンは、自分の力を疑っているわけではなかった。

自分の術に自信がなくなったわけでもない。

それでも、これまで自分の名と力によって保たれてきたものが、静かに離れていく現実を前にすれば、心が揺れないはずはなかった。


師としての誇り。

館の主としての権威。

そして、それらを支えてきた金銭的な余裕。


どれも、目に見える形で失われたわけではない。

だが、確かに――少しずつ、揺らいでいる。

そのことが、イェンミンの胸を苛立たせていた。


そして何より大きかったのは、ヤーシンの不在だった。


彼女がいた頃、館には活気があった。

明るく振る舞うこともあれば、弟子たちの小さな揉め事を仲裁することもあった。

イェンミンが気づかないところで、館の空気を整えていた。

ヤーシンは、館の中で大きな存在だった。


彼女がそこにいることを、誰も特別なことだとは思っていなかった。

それが、当たり前だったからだ。

だが、その当たり前が消えた。


ヤーシンがいなくなってから、弟子たちの連携は目に見えて乱れた。

必要なことだけを告げ、余計な言葉を交わさない。

以前なら自然に生まれていた笑い声も、今ではほとんど聞こえない。


館の中には、どこか冷えた空気が漂っていた。

イェンミンは、それを感じるたびに、胸の奥を掴まれるような感覚を覚えた。


「…ヤーシン。」

誰もいない部屋で、その名を呟く。


返事はない。

当然だった。

彼女は、もうここにはいない。


「お前がいないと…」

そこまで口にして、イェンミンは言葉を止めた。


視線を落とす。


「この場所は、まるで空っぽだ…」

その声には、普段の冷静さはなかった。


長年、傍に置いてきた弟子。

自分が守るべき存在だと思っていた。


娘のように可愛がり、時には厳しく叱り、それでも最後には自分の手元へ戻ってくるものだと――どこかで信じていた。


だからこそ、その喪失は大きかった。


自ら手放したのだから、誰かを責めることもできない。

自ら呪ったのだから、取り戻すこともできない。

その事実が、深く胸に突き刺さっていた。


イェンミンは、一人、広い館の中に座していた。


以前なら、誰かしらの気配があった。

弟子たちの足音。

依頼者の声。

術を使う音。


今は、それらが遠い。

静かすぎる館の中で、自分の呼吸だけが妙に大きく感じられた。


「…なぜだ。」

ぽつりと、言葉が落ちる。

「なぜ…私は、こんなにも焦る…」


答えは、すぐには出てこなかった。


いや――

本当は、分かっているのかもしれない。


失ったのは、ただ一人の弟子ではない。

ヤーシンがいたことで保たれていたもの。

彼女がいることで満たされていた館の空気。

そして、自分自身が「守る者」でいられるという感覚。


それらを、一度に失った。

そのことを、イェンミンは認めたくなかった。


やがて彼は立ち上がり、鏡の前へ歩み寄った。

鏡に映った自分の顔を、黙って見つめる。

そこにいるのは、いつもの自分のはずだった。


冷静で、揺るぎなく、他者に弱みを見せない。

それが、イェンミンという男だった。


だが――

今の自分の瞳には、わずかな動揺が浮かんでいる。

それを見つけた瞬間、イェンミンの眉がわずかに動いた。


「…くだらない。」

自分自身に言い聞かせるように呟く。


自分の力が衰えたわけではない。

術が使えなくなったわけでもない。

館が崩れたわけでもない。


それなのに、人が離れていく。

依頼が減っていく。

弟子たちの心が、少しずつ自分から離れていく。


そして、その中心には――

ヤーシンの不在がある。


認めたくはなかった。

だが、失ったものが大きかったことだけは、否定できない。


イェンミンは鏡の中の自分から目を逸らした。


館の静けさが、今まで以上に耳につく。

外では風が吹いている。

けれど、その風さえも、以前とは違って聞こえた。


かつては、人々が恐れ、敬い、頼りにした館。

その名だけで人を集めた場所。

今、その館は静かに息を潜めている。


そして――

そんなイェンミンの心に、最後に残された唯一の拠り所は、ジンランだった。


彼女さえ傍にいてくれるなら。

彼女さえ、自分を見ていてくれるなら。


どれほど深い闇の中にいても、まだ自分は壊れずにいられる。

そんなふうに、どこかで信じていた。


けれど――

ジンランの従順が、決して確かなものではないことを、イェンミンは感じ始めていた。


彼女が自分の言葉に逆らうことはない。

離れていけと言えば離れ、傍にいろと言えば傍にいる。


それでも。

ふとした瞬間に彼女の瞳の奥に、あの光を感じることがある。


あの白い光。

自分の闇とは相容れないはずだと思っていた、あの光の気配。

それを感じるたび、胸の奥がざわついた。


もし――

ジンランの心が、まだ自分の手の届かないところにあるのだとしたら。

その考えが浮かぶだけで、心の奥に冷たいものが広がっていく。


だからこそ、イェンミンは焦っていた。

もっと強く、彼女を自分の傍に置かなければならない。

もっと確かな言葉を、彼女の口から聞かなければならない。


そうしなければ――

いつか、本当に失ってしまう。

そんな恐怖を、彼は自分でも気づかぬうちに表情へ滲ませていた。


そして、とうとう堪えきれずに口を開く。

「…私を、愛しているか?」


それは、いつもの彼からは考えられないほど弱い問いだった。


命じることには慣れている。

奪うことにも、縛ることにも。


けれど――

誰かに、自分の心を選んでもらうことだけはできなかった。


ジンランは、そんな彼を見つめた。

その瞳には、恐怖があった。

けれど、それだけではない。

憐れむような、痛ましげな色もあった。


それでも彼を傷つけまいとするように、ジンランはそっと微笑んだ。


「…はい。」

たった一言。


けれど、その言葉を聞いた瞬間――

イェンミンの張り詰めていた心は、ほんのわずかに緩んだ。


「…そうか。」

低く呟く声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。


自分は、まだ大丈夫なのだ。

ジンランはまだ、自分を愛している。

そう思いたかった。


けれど――

それは、ほんの一時の安堵に過ぎなかった。


彼女の瞳の奥に、あの光の気配を感じるたびに、消えたはずの不安が再び蘇る。


白い衣の男。

自分とは正反対の、あの光。

その存在を思い浮かべるだけで、胸の奥が締めつけられた。


(…あの光に、彼女を奪われるかもしれない。)


その考えは、もはやただの疑念ではなかった。

いつしか、それはイェンミンの中で、現実になるかもしれない恐怖へと変わっていた。


どれほど力を与えても。

どれほど深く彼女を縛っても。

どれほど自分の傍に置き続けても――


人の心までは、思い通りにはできない。

その事実を、イェンミンは初めて思い知らされようとしていた。


力なら、誰にも負けない。

闇なら、誰よりも深く扱える。


けれど――

人の心だけは、力で掴んだところで、自分のものにはならない。

そのことが、何よりも恐ろしかった。


それでも。

イェンミンは、その恐怖を決して表には出さなかった。

揺らぐ心を隠すように、いつもの冷たい表情を作る。


何も恐れてなどいない。

何も失うはずがない。

そんなふうに、自分自身に言い聞かせるように。


一方――

ジンランの心は、日に日に引き裂かれていた。


心の奥に、どうしても消えない面影がある。

あの光の男――


朝の湖で出会った、白い衣の男。

穏やかで、温かく、触れることさえためらわれるほど静かな光を纏っていた。


あのとき交わした言葉は、ほんのわずかなものだった。

それなのに。


なぜなのだろう。

ふとした瞬間に、彼の姿が脳裏に浮かぶ。

その声を思い出す。

あの穏やかな眼差しを思い出す。


そして、そのたびに胸の奥が、かすかに疼いた。


まるで――

自分の中に、知らないうちに小さな光を灯されてしまったかのように。


けれど。

その光へ手を伸ばすことは、許されていなかった。


ジンランは、この館に縛られている。

イェンミンの許しがなければ、外へ出ることさえできない。

まして、あの湖へ戻ることなど――


もし、あの人に会いたいと言えば。

もし、ここを出たいと言えば。

イェンミンは、どうするのだろう。

その先を考えるだけで、身体の奥が冷たくなる。


母がいる。

自分が逆らえば、母にも何が起こるか分からない。


呪われないために。

母を守るために。

そして――自分自身の命を守るために。

ジンランは、従うしかなかった。


「どうして…」

誰にも聞こえないほど小さな声が、唇から零れる。

「どうして…私は、彼に会えないの…」


胸の奥に、渇くような想いが広がっていく。


会いたい。

ただ、一度でいい。

もう一度、あの光を見たい。


あの人の前なら、自分は何を恐れることなく、ただ自分自身でいられるような気がした。


けれど、その願いを口にすることさえできない。

叶わないと分かっているからこそ、余計に苦しかった。


目の前では、イェンミンが穏やかに微笑んでいる。

いつものように優しい声で話しかける。

時折、誰にも聞かせないような声音で、そっと囁く。


その手は温かい。

その言葉も、以前なら心を満たしてくれた。


けれど――今は違う。

その優しさに触れるたび、ジンランの胸は締めつけられた。


優しくされるほど、逃げられない。

愛されるほど、離れられない。

その温もりさえも、今の彼女には鎖のように重かった。


「大丈夫だ。」

そう言われるたびに。


「私がいる。」

そう囁かれるたびに。


守られているはずなのに――

その言葉の奥に、自分の逃げ道を塞ぐものを感じてしまう。


ジンランは、そんな自分を責めた。

本当は、イェンミンが自分を大切にしてくれていることを知っている。


自分のために力を使ってくれたことも。

母を救ってくれたことも。

自分を傍に置き、守ろうとしていることも。

分かっている。


だからこそ――

余計に苦しかった。


彼を完全に憎むことなどできない。

けれど、以前のように心の底から愛することも、もうできない。


その代わりに残っているのは、拭いきれない恐怖と、どうしても断ち切れない情だった。


そして、その狭間で。

あの光だけが、静かに彼女の心へ差し込んでくる。


――会いたい。

その想いが生まれるたび、ジンランは胸の奥で必死に押し殺した。


「…だめ。」

小さく呟く。


「私は…ここにいなきゃ。」

自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。


母のため。

自分のため。


そして――

イェンミンをこれ以上、刺激しないために。


そうやって理由を並べれば並べるほど、自分の本当の気持ちが遠ざかっていくようだった。


泣きたい。

逃げたい。

それでも、ここにいなければならない。


会いたい。

けれど、会いに行くことはできない。


そんな相反する想いが、ひとつひとつ積み重なって、ジンランの心を少しずつ削っていった。


やがて――

彼女は、自分でも気づかないうちに涙を堪えることさえ、上手くなっていた。


それでも夜になれば。

静まり返った館の中で、一人きりになると。

あの湖の光が、また胸の奥に蘇る。

その光を思い出すだけで、胸が痛む。


けれど同時に――

ほんの少しだけ、息ができるような気がした。


自分の中にまだ、ここではない場所を望む心が残っている。


自分の意思で歩きたい。

自分の意思で誰かに会いたい。

自分の意思で、誰を愛するのか決めたい。


そんな当たり前の願いさえ、今のジンランには遠いものだった。


そして――

その願いを抱くことすら許されない現実が、彼女の魂を静かに蝕んでいく。


イェンミンは、彼女を失うことを恐れていた。

ジンランは、彼を恐れていた。

それでも、二人は互いを完全には手放せない。


イェンミンは、愛する者を失う恐怖から、彼女を自分の手の内に留めようとする。


ジンランは、恐怖に震えながらも、彼の孤独を知っているからこそ、完全に背を向けることができない。


求める気持ちは、確かにそこにある。

けれど――

その形は、もう同じではなかった。


焦りと恐怖。

独占欲と絶望。


光に惹かれる心と、闇から逃れられない現実。


二人の心は、互いを求めながらも、決して同じ場所には辿り着けない。


それでも。

そのすれ違いさえ抱えたまま――

二人は、まだ互いの傍にいた。


まるで、光と闇の狭間で。


離れれば壊れてしまうと知りながら、傍にいれば、互いを傷つけてしまうと知りながら。

それでも二人は、手放すことができなかった。

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