失われた拠り所
イェンミンの館は、かつての威厳と力強さを、少しずつ失いつつあった。
かつては、遠方からも依頼者が絶えなかった。
呪いを解いてほしい者。
病に伏した家族を救ってほしい者。
自分ではどうにもできない災いから逃れようと、最後の頼みとしてこの館を訪れる者。
そして――
誰かへの復讐を果たすため、呪いを依頼する者もいた。
山深い場所に建つその館を目指し、人々は何日もかけて険しい道を越えてきた。
館の門前には、時に人の列ができた。
依頼を待つ者たちの声が行き交い、弟子たちは忙しなく館内を走り回り、夜になっても灯りが消えることはなかった。
イェンミンの名は、それだけで人を動かすほどの力を持っていた。
だが――今は違う。
門の前に立っても、人の気配はほとんどない。
風が木々の葉を揺らし、乾いた音だけが静寂の中に響いている。
かつてなら聞こえていたはずの話し声も、足音も、依頼者たちのざわめきもない。
ただ、広すぎる館だけが、そこに取り残されたように佇んでいた。
依頼は、目に見えて減っていた。
一件、また一件と途絶えていき、気づけば、以前なら一日中鳴り続けていた呼び出しの音さえ、ほとんど聞こえなくなっていた。
理由は、一つではない。
だが、その根にあるものを、イェンミン自身は理解していた。
――ヤーシン。
長年、弟子として傍に置き、可愛がってきた存在。
娘のように思い、守ってきた存在。
そのヤーシンを、彼は自らの手で手放した。
いや――
手放しただけではない。
自らの手で、その力を封じた。
そして、彼女に呪いを与え――
その命さえ、自らの手で終わらせた。
その日を境に、館を包んでいた呪力には、わずかな乱れが生じていた。
ほんのかすかな変化だった。
術を使えないほどではない。
結界が崩れるほどでもない。
それでも、長くこの館に身を置いてきた者ならば、気づかずにはいられないほどの違和感だった。
空気が、どこか重い。
以前なら自然に流れていた呪力が、どこかで引っかかる。
館そのものが、何かを失ったかのように、静かに脈打っていた。
そして、その異変を感じ取ったのは弟子たちだけではなかった。
館を訪れる者たちもまた、理由の分からない不安を覚えるようになっていた。
「最近、あの館の呪術は不安定らしい。」
そんな噂が、山を越え、村を越え、少しずつ広がっていった。
誰かが明確な証拠を持っているわけではない。
ただ、以前とは何かが違う。
そう感じる者が増えていった。
一度不安を抱いた人間は、わざわざ危うい場所へ足を運ぼうとはしない。
それは、呪術や回復の力を求めて訪れる者にとって、なおさらだった。
その結果、依頼者はさらに減っていった。
それでも――
イェンミンは、表面上、何も変わらないように振る舞っていた。
いつものように背筋を伸ばし、いつものように静かな顔をしている。
弟子たちの前では、動揺など一切見せなかった。
館の中に漂う沈黙にも、依頼の少なさにも、何ら興味がないような顔をしていた。
だが、その胸の奥では、焦燥がじわじわと広がっていた。
依頼が減る。
それは、単に人の出入りが減るということではない。
依頼が減れば、当然、得られる金も減る。
この館を維持するための費用。
弟子たちを養うための金。
薬や術具を揃えるための費用。
これまで当然のように保たれていた生活が、少しずつ揺らぎ始めている。
今すぐ何かが壊れるわけではない。
だからこそ、余計に不気味だった。
目に見えないところから、少しずつ何かが削られている。
まるで、気づかないうちに足元の土が崩れていくように。
イェンミンは、自分の力を疑っているわけではなかった。
自分の術に自信がなくなったわけでもない。
それでも、これまで自分の名と力によって保たれてきたものが、静かに離れていく現実を前にすれば、心が揺れないはずはなかった。
師としての誇り。
館の主としての権威。
そして、それらを支えてきた金銭的な余裕。
どれも、目に見える形で失われたわけではない。
だが、確かに――少しずつ、揺らいでいる。
そのことが、イェンミンの胸を苛立たせていた。
そして何より大きかったのは、ヤーシンの不在だった。
彼女がいた頃、館には活気があった。
明るく振る舞うこともあれば、弟子たちの小さな揉め事を仲裁することもあった。
イェンミンが気づかないところで、館の空気を整えていた。
ヤーシンは、館の中で大きな存在だった。
彼女がそこにいることを、誰も特別なことだとは思っていなかった。
それが、当たり前だったからだ。
だが、その当たり前が消えた。
ヤーシンがいなくなってから、弟子たちの連携は目に見えて乱れた。
必要なことだけを告げ、余計な言葉を交わさない。
以前なら自然に生まれていた笑い声も、今ではほとんど聞こえない。
館の中には、どこか冷えた空気が漂っていた。
イェンミンは、それを感じるたびに、胸の奥を掴まれるような感覚を覚えた。
「…ヤーシン。」
誰もいない部屋で、その名を呟く。
返事はない。
当然だった。
彼女は、もうここにはいない。
「お前がいないと…」
そこまで口にして、イェンミンは言葉を止めた。
視線を落とす。
「この場所は、まるで空っぽだ…」
その声には、普段の冷静さはなかった。
長年、傍に置いてきた弟子。
自分が守るべき存在だと思っていた。
娘のように可愛がり、時には厳しく叱り、それでも最後には自分の手元へ戻ってくるものだと――どこかで信じていた。
だからこそ、その喪失は大きかった。
自ら手放したのだから、誰かを責めることもできない。
自ら呪ったのだから、取り戻すこともできない。
その事実が、深く胸に突き刺さっていた。
イェンミンは、一人、広い館の中に座していた。
以前なら、誰かしらの気配があった。
弟子たちの足音。
依頼者の声。
術を使う音。
今は、それらが遠い。
静かすぎる館の中で、自分の呼吸だけが妙に大きく感じられた。
「…なぜだ。」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「なぜ…私は、こんなにも焦る…」
答えは、すぐには出てこなかった。
いや――
本当は、分かっているのかもしれない。
失ったのは、ただ一人の弟子ではない。
ヤーシンがいたことで保たれていたもの。
彼女がいることで満たされていた館の空気。
そして、自分自身が「守る者」でいられるという感覚。
それらを、一度に失った。
そのことを、イェンミンは認めたくなかった。
やがて彼は立ち上がり、鏡の前へ歩み寄った。
鏡に映った自分の顔を、黙って見つめる。
そこにいるのは、いつもの自分のはずだった。
冷静で、揺るぎなく、他者に弱みを見せない。
それが、イェンミンという男だった。
だが――
今の自分の瞳には、わずかな動揺が浮かんでいる。
それを見つけた瞬間、イェンミンの眉がわずかに動いた。
「…くだらない。」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
自分の力が衰えたわけではない。
術が使えなくなったわけでもない。
館が崩れたわけでもない。
それなのに、人が離れていく。
依頼が減っていく。
弟子たちの心が、少しずつ自分から離れていく。
そして、その中心には――
ヤーシンの不在がある。
認めたくはなかった。
だが、失ったものが大きかったことだけは、否定できない。
イェンミンは鏡の中の自分から目を逸らした。
館の静けさが、今まで以上に耳につく。
外では風が吹いている。
けれど、その風さえも、以前とは違って聞こえた。
かつては、人々が恐れ、敬い、頼りにした館。
その名だけで人を集めた場所。
今、その館は静かに息を潜めている。
そして――
そんなイェンミンの心に、最後に残された唯一の拠り所は、ジンランだった。
彼女さえ傍にいてくれるなら。
彼女さえ、自分を見ていてくれるなら。
どれほど深い闇の中にいても、まだ自分は壊れずにいられる。
そんなふうに、どこかで信じていた。
けれど――
ジンランの従順が、決して確かなものではないことを、イェンミンは感じ始めていた。
彼女が自分の言葉に逆らうことはない。
離れていけと言えば離れ、傍にいろと言えば傍にいる。
それでも。
ふとした瞬間に彼女の瞳の奥に、あの光を感じることがある。
あの白い光。
自分の闇とは相容れないはずだと思っていた、あの光の気配。
それを感じるたび、胸の奥がざわついた。
もし――
ジンランの心が、まだ自分の手の届かないところにあるのだとしたら。
その考えが浮かぶだけで、心の奥に冷たいものが広がっていく。
だからこそ、イェンミンは焦っていた。
もっと強く、彼女を自分の傍に置かなければならない。
もっと確かな言葉を、彼女の口から聞かなければならない。
そうしなければ――
いつか、本当に失ってしまう。
そんな恐怖を、彼は自分でも気づかぬうちに表情へ滲ませていた。
そして、とうとう堪えきれずに口を開く。
「…私を、愛しているか?」
それは、いつもの彼からは考えられないほど弱い問いだった。
命じることには慣れている。
奪うことにも、縛ることにも。
けれど――
誰かに、自分の心を選んでもらうことだけはできなかった。
ジンランは、そんな彼を見つめた。
その瞳には、恐怖があった。
けれど、それだけではない。
憐れむような、痛ましげな色もあった。
それでも彼を傷つけまいとするように、ジンランはそっと微笑んだ。
「…はい。」
たった一言。
けれど、その言葉を聞いた瞬間――
イェンミンの張り詰めていた心は、ほんのわずかに緩んだ。
「…そうか。」
低く呟く声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
自分は、まだ大丈夫なのだ。
ジンランはまだ、自分を愛している。
そう思いたかった。
けれど――
それは、ほんの一時の安堵に過ぎなかった。
彼女の瞳の奥に、あの光の気配を感じるたびに、消えたはずの不安が再び蘇る。
白い衣の男。
自分とは正反対の、あの光。
その存在を思い浮かべるだけで、胸の奥が締めつけられた。
(…あの光に、彼女を奪われるかもしれない。)
その考えは、もはやただの疑念ではなかった。
いつしか、それはイェンミンの中で、現実になるかもしれない恐怖へと変わっていた。
どれほど力を与えても。
どれほど深く彼女を縛っても。
どれほど自分の傍に置き続けても――
人の心までは、思い通りにはできない。
その事実を、イェンミンは初めて思い知らされようとしていた。
力なら、誰にも負けない。
闇なら、誰よりも深く扱える。
けれど――
人の心だけは、力で掴んだところで、自分のものにはならない。
そのことが、何よりも恐ろしかった。
それでも。
イェンミンは、その恐怖を決して表には出さなかった。
揺らぐ心を隠すように、いつもの冷たい表情を作る。
何も恐れてなどいない。
何も失うはずがない。
そんなふうに、自分自身に言い聞かせるように。
一方――
ジンランの心は、日に日に引き裂かれていた。
心の奥に、どうしても消えない面影がある。
あの光の男――
朝の湖で出会った、白い衣の男。
穏やかで、温かく、触れることさえためらわれるほど静かな光を纏っていた。
あのとき交わした言葉は、ほんのわずかなものだった。
それなのに。
なぜなのだろう。
ふとした瞬間に、彼の姿が脳裏に浮かぶ。
その声を思い出す。
あの穏やかな眼差しを思い出す。
そして、そのたびに胸の奥が、かすかに疼いた。
まるで――
自分の中に、知らないうちに小さな光を灯されてしまったかのように。
けれど。
その光へ手を伸ばすことは、許されていなかった。
ジンランは、この館に縛られている。
イェンミンの許しがなければ、外へ出ることさえできない。
まして、あの湖へ戻ることなど――
もし、あの人に会いたいと言えば。
もし、ここを出たいと言えば。
イェンミンは、どうするのだろう。
その先を考えるだけで、身体の奥が冷たくなる。
母がいる。
自分が逆らえば、母にも何が起こるか分からない。
呪われないために。
母を守るために。
そして――自分自身の命を守るために。
ジンランは、従うしかなかった。
「どうして…」
誰にも聞こえないほど小さな声が、唇から零れる。
「どうして…私は、彼に会えないの…」
胸の奥に、渇くような想いが広がっていく。
会いたい。
ただ、一度でいい。
もう一度、あの光を見たい。
あの人の前なら、自分は何を恐れることなく、ただ自分自身でいられるような気がした。
けれど、その願いを口にすることさえできない。
叶わないと分かっているからこそ、余計に苦しかった。
目の前では、イェンミンが穏やかに微笑んでいる。
いつものように優しい声で話しかける。
時折、誰にも聞かせないような声音で、そっと囁く。
その手は温かい。
その言葉も、以前なら心を満たしてくれた。
けれど――今は違う。
その優しさに触れるたび、ジンランの胸は締めつけられた。
優しくされるほど、逃げられない。
愛されるほど、離れられない。
その温もりさえも、今の彼女には鎖のように重かった。
「大丈夫だ。」
そう言われるたびに。
「私がいる。」
そう囁かれるたびに。
守られているはずなのに――
その言葉の奥に、自分の逃げ道を塞ぐものを感じてしまう。
ジンランは、そんな自分を責めた。
本当は、イェンミンが自分を大切にしてくれていることを知っている。
自分のために力を使ってくれたことも。
母を救ってくれたことも。
自分を傍に置き、守ろうとしていることも。
分かっている。
だからこそ――
余計に苦しかった。
彼を完全に憎むことなどできない。
けれど、以前のように心の底から愛することも、もうできない。
その代わりに残っているのは、拭いきれない恐怖と、どうしても断ち切れない情だった。
そして、その狭間で。
あの光だけが、静かに彼女の心へ差し込んでくる。
――会いたい。
その想いが生まれるたび、ジンランは胸の奥で必死に押し殺した。
「…だめ。」
小さく呟く。
「私は…ここにいなきゃ。」
自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。
母のため。
自分のため。
そして――
イェンミンをこれ以上、刺激しないために。
そうやって理由を並べれば並べるほど、自分の本当の気持ちが遠ざかっていくようだった。
泣きたい。
逃げたい。
それでも、ここにいなければならない。
会いたい。
けれど、会いに行くことはできない。
そんな相反する想いが、ひとつひとつ積み重なって、ジンランの心を少しずつ削っていった。
やがて――
彼女は、自分でも気づかないうちに涙を堪えることさえ、上手くなっていた。
それでも夜になれば。
静まり返った館の中で、一人きりになると。
あの湖の光が、また胸の奥に蘇る。
その光を思い出すだけで、胸が痛む。
けれど同時に――
ほんの少しだけ、息ができるような気がした。
自分の中にまだ、ここではない場所を望む心が残っている。
自分の意思で歩きたい。
自分の意思で誰かに会いたい。
自分の意思で、誰を愛するのか決めたい。
そんな当たり前の願いさえ、今のジンランには遠いものだった。
そして――
その願いを抱くことすら許されない現実が、彼女の魂を静かに蝕んでいく。
イェンミンは、彼女を失うことを恐れていた。
ジンランは、彼を恐れていた。
それでも、二人は互いを完全には手放せない。
イェンミンは、愛する者を失う恐怖から、彼女を自分の手の内に留めようとする。
ジンランは、恐怖に震えながらも、彼の孤独を知っているからこそ、完全に背を向けることができない。
求める気持ちは、確かにそこにある。
けれど――
その形は、もう同じではなかった。
焦りと恐怖。
独占欲と絶望。
光に惹かれる心と、闇から逃れられない現実。
二人の心は、互いを求めながらも、決して同じ場所には辿り着けない。
それでも。
そのすれ違いさえ抱えたまま――
二人は、まだ互いの傍にいた。
まるで、光と闇の狭間で。
離れれば壊れてしまうと知りながら、傍にいれば、互いを傷つけてしまうと知りながら。
それでも二人は、手放すことができなかった。




