黎明の兆し
夜が更けても、ジンランの部屋には闇が沈殿していた。
窓の外には月が浮かんでいるはずなのに、厚い雲に遮られ、その光さえも届かない。
灯りはとうに消えていた。
ただ、閉ざされた部屋の中には、逃げ場のない熱と、重苦しい気配だけが残っていた。
その夜のイェンミンは、いつになく激しかった。
いつもの静かな余裕もなかった。
何かに追い立てられるように、あるいは自分の中に生まれた焦りや苛立ちを振り払うように、ジンランを求め続ける。
それが怒りなのか、執着なのか。
本人にも、もう分からなかった。
ただ、失うことへの恐れだけが、形を持たない情念となって、彼の中で渦巻いていた。
荒い呼吸が、静まり返った部屋に落ちる。
焼けつくような熱が肌に残る。
ジンランは、ただ身を固くして耐えていた。
痛みに顔を歪めても、声を押し殺す。
何かを訴えようとしても、言葉になる前に喉の奥へ沈めた。
――逆らってはいけない。
そうしなければ。
あの鋭い瞳が、冷たい光を宿す。
その目を向けられるたび、ジンランは思ってしまう。
もし、ここで拒めば。
もし、自分の意思を示せば。
母のことも。
故郷のことも。
これまで築いてきたものも。
すべてを失ってしまうのではないか、と。
だから、耐えるしかなかった。
心がどれほど悲鳴を上げても、身体を動かすことはできない。
何かを叫びたくなっても、その声を飲み込む。
そうしているうちに、いつしか自分が何を望んでいたのかさえ、分からなくなりそうだった。
――私は、何のためにここにいるのだろう。
かつては、イェンミンの傍にいることが嬉しかった。
その腕に抱かれることに、安らぎを感じたこともあった。
けれど今は、その記憶さえ遠い。
目の前にいる人が、かつて自分を救ってくれた人と同じなのか。
分からない。
ただ、怖かった。
やがて、イェンミンは静かに身を起こした。
そこには、満たされたような気配があった。
けれどジンランには、それがひどく遠いものに感じられた。
彼は何も言わなかった。
ただ一度、冷たい視線をジンランへ向ける。
そして、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉じる。
――ぱたり。
小さな音だった。
けれど、その音が落ちた瞬間。
張りつめていたものが、すべて切れた。
「…っ」
ジンランの身体から力が抜ける。
その場に崩れ落ちるようにして、床へ手をついた。
呼吸が震える。
胸の奥が痛い。
何が痛いのかさえ、もう分からなかった。
身体なのか。
心なのか。
それとも、そのどちらもなのか。
「辛い…」
掠れた声が漏れる。
「…なんで…」
その先を言葉にしようとすると、涙が溢れた。
「なんで、こんな目に遭わなければいけないの…」
返事はない。
もちろん、誰にも届かない。
この館には、彼女の涙を見てくれる者はいない。
誰かに助けを求めることもできない。
ただ静かな夜だけが、彼女の傍にあった。
ジンランは、震える腕で自分の身体を抱きしめた。
小さくなった身体を、さらに小さくするように。
そうすれば、この苦しさから少しでも隠れられるような気がした。
けれど、どれだけ目を閉じても、胸の奥に残る痛みは消えなかった。
涙が頬を伝い、床へ落ちる。
一滴。
また一滴。
そのたびに、心の奥へ何かが沈んでいく。
――もう、嫌。
そう思った。
けれど、その言葉さえ口にはできなかった。
そのときだった。
胸の奥で、ほんのわずかに何かが光った。
弱々しく。
それでも、確かに。
消えかけた灯火のような、小さな光。
ジンランは、ゆっくりと顔を上げた。
その光が何なのか、考える必要はなかった。
ずっと胸の奥に残っていたもの。
どれほど闇に閉ざされても、決して消えることのなかったもの。
「…自由に…なりたい。」
涙で濡れた唇から、かすかな声が零れる。
それは願いだった。
誰かに許してもらうための願いではない。
誰かに救ってもらうための願いでもない。
ただ、自分自身のための願い。
――私は、自由になりたい。
その想いが、痛みの底からゆっくりと浮かび上がってくる。
ジンランは、震える手を胸に当てた。
そして、目を閉じる。
ここから出たい。
誰にも命じられず。
誰にも縛られず。
自分の心が望む場所へ――
ジンランは、深く息を吸った。
思い描く。
あのとき感じた風。
頬を撫でる、夜明け前の冷たく澄んだ空気。
何ものにも遮られず、どこまでも広がっていく空。
そして――羽。
柔らかく、淡く光る青い羽。
あの姿になったときだけ、自分は何にも縛られなかった。
誰の弟子でもない。
誰かの所有物でもない。
ただ一つの命として、空を飛ぶことができた。
「…私は…」
ジンランの指先から、淡い光が零れた。
「自由になりたい…」
その瞬間。
光が、一気に全身へ広がった。
身体の輪郭が淡く揺らぐ。
重かった身体が、少しずつ軽くなっていく。
まるで、これまで彼女を縛りつけていた重力さえも、その意志に押し流されていくようだった。
そして――
ひらり。
夜の闇の中に、一匹の青い蝶が生まれた。
淡い光をまとった羽が、静かに開く。
一度。
二度。
小さく羽ばたく。
蝶は、ためらうことなく窓の外へ向かった。
閉ざされていた部屋を抜ける。
館の屋根を越える。
木々の枝をすり抜ける。
夜風が、その小さな身体を優しく包み込んだ。
冷たいはずなのに、不思議と心地よかった。
どこまでも広い夜空。
誰にも命じられない風。
どこへ行くのかさえ、自分で決められる自由。
ジンランは、ただひたすらに飛んだ。
山を越え。
森を抜け。
館から遠く離れていく。
その羽ばたきには、もう恐れはなかった。
それは逃げるためだけの飛翔ではない。
奪われ続けた自分の意志を、もう一度取り戻すための飛翔だった。
やがて、その先に――
月明かりを静かに映す湖が見えてきた。
ジンランは、その光へ向かって、さらに高く舞い上がった。
夜明け前の空は、まだ深い群青に染まっていた。
東の空の一角だけが、ほんのわずかに色を変え始めている。
けれど、朝が訪れるにはまだ早い。
山々は夜の名残を抱えたまま静まり返り、湖面には薄い霧が漂っていた。
風はほとんどない。
水面は鏡のように凪ぎ、その上を流れる霧だけが、ゆっくりと形を変えている。
その湖畔に――
一人の男が立っていた。
白い衣が朝靄に溶けている。
長い髪が、ごくわずかな風に揺れていた。
その姿はあまりにも静かで、周囲の景色から切り離されているようにも見える。
けれど、不思議と異質には感じられなかった。
むしろ――
そこにいることが、最初から決められていたかのようだった。
ジンランは、その姿を見つけた瞬間、羽ばたきを止めた。
――あの人だ。
そう思った瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
そして今――
また、会えた。
そのことが、ただ嬉しかった。
館を抜け出し、山を越え、自由に空を飛んだ先で、もう一度出会った。
確かに、もう一度会いたいと思っていた。
あの声を聞きたかった。
あの光の傍に、もう一度行きたかった。
その想いに導かれるように、ジンランは湖畔へ近づいていく。
男もまた、その気配に気づいたようだった。
ゆっくりと顔を上げる。
淡い金色の瞳が、ジンランを捉えた。
その瞳に浮かんだのは、驚きではなかった。
まるで――
来ることを知っていたかのような、穏やかな微笑み。
「…また、来てくれたのだな。」
その声を聞いた瞬間。
ジンランの胸が、きゅっと締めつけられた。
また。
その言葉が、ひどく嬉しかった。
前にも会ったことを、この人は覚えている。
自分のことを、ちゃんと覚えていてくれた。
ジンランは小さく羽を震わせた。
「…」
声にはならない。
それでも、胸の奥には伝えたい言葉があった。
――あなたに、会いたかった。
その想いが、男にも伝わったのだろうか。
彼は何も尋ねなかった。
ただ、静かに微笑んでいる。
その笑顔を見ていると、不思議なほど心が安らいだ。
何かを求められるわけでもない。
何かを証明する必要もない。
ただ、ここにいるだけでいい。
そんなふうに思えた。
しばらくして、男はそっと手を差し出した。
「本当の姿を、見せてごらん。」
ジンランの羽が、ぴたりと止まる。
――本当の姿。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
今の自分は蝶だ。
風に乗り、どこへでも行ける。
誰にも命じられず、誰にも縛られない。
けれど、それは自分の本当の姿なのだろうか。
人として生きてきた自分。
母と暮らし、村で日々を過ごしていた自分。
イェンミンの弟子となり、術を学び、闇の力を身につけた自分。
そのすべてを捨てたわけではない。
ただ、今は蝶の姿を借りているだけだ。
ジンランは、差し出された指先を見つめた。
不思議と、怖くはなかった。
この人になら――
見せてもいい。
そんな思いが自然に湧いてくる。
蝶はゆっくりと男の指先へ近づいた。
そして、その指にそっと触れる。
温かい。
その温もりを感じた瞬間、胸の奥にあった迷いが静かにほどけた。
淡い光が、ジンランの身体を包み込む。
羽が光の粒へとほどけていく。
小さな身体がゆっくりと輪郭を変え、青い光の中から、一人の女性の姿が現れた。
足が、静かに地面へ触れる。
人の身体に戻った瞬間、風が頬を撫でた。
長い髪がふわりと揺れる。
夜露を含んだ冷たい空気が、肌に触れる。
ジンランはゆっくりと顔を上げた。
目の前には、あの人がいる。
その姿を見た瞬間――
男の瞳が、わずかに揺れた。
何かを確かめるように、ジンランを見つめている。
その眼差しには、驚きだけではない。
懐かしさにも似た、深い感情が滲んでいた。
そして、やがて。
男の唇から、静かな声が零れる。
「…やはり。」
その言葉の意味が、ジンランには分からない。
けれど、その一言を聞いた瞬間。
胸の奥が、また大きく震えた。
やはり――
まるで、この人は自分のことを知っている。
ずっと前から知っていたかのように。
ジンランは戸惑いながら、男を見つめ返した。
その瞳に映る姿は、前に見たときと変わらない。
白い衣。
長い髪。
淡い金色の瞳。
そして、朝靄の中に溶けるような、静かな光。
けれど、今度は蝶の姿ではない。
人として、目の前に立っている。
そのことが、なぜかひどく恥ずかしく感じられた。
けれど同時に――
もっと、この人の顔を見ていたい。
そんな気持ちもあった。
自分でも、どうしてそう思うのか分からない。
ただ、この人の光を見つめていると、胸の奥にしまっていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
懐かしい。
どうしようもなく、懐かしい。
けれど、記憶にはない。
いつ、どこで出会ったのか。
なぜ、この人の声を知っているように感じるのか。
何一つ思い出せない。
それなのに――
魂だけが、この人を知っている。
そんな不思議な感覚だった。
男は、そんなジンランを静かに見つめていた。
やがて、その視線が彼女の中にある力へと向けられる。
「お前の力は――」
静かな声が、湖畔に響く。
「お前の師を超えている。」
ジンランは、思わず目を見開いた。
「…私が?」
そんな言葉を聞いたことはなかった。
これまでずっと、自分は教わる側だった。
イェンミンから術を学び、力の使い方を教えられ、少しずつできることを増やしてきた。
自分の力が、誰かを超えるなどと考えたことさえない。
まして、師であるイェンミンを。
「そんな…」
否定するように首を振る。
「私なんて…まだ何も…」
男は、そんなジンランを見て、穏やかに微笑んだ。
「だからこそ、自分の力を信じるんだ。」
その声には、強制する響きがなかった。
命令でもない。
試すような言葉でもない。
ただ、静かな確信だけがあった。
「お前が自分を信じれば、必ず道は開ける。」
ジンランは、何も言えなかった。
胸の奥が、熱くなる。
自分の力を信じる。
その言葉が、こんなにも胸に響くなんて思わなかった。
これまでの自分は、いつも誰かの言葉を頼りにしていた。
これは正しいのか。
これをしていいのか。
どうすればいいのか。
自分で決めるより先に、誰かの答えを探していた。
けれど、この人は違う。
誰かに従えとも。
誰かを信じろとも言わない。
自分自身を――信じろと。
その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいった。
男はしばらく、ジンランを見つめていた。
そして――
穏やかな声で、その名を呼んだ。
「…ジンラン。」
――え。
ジンランの思考が止まった。
「…どうして?」
唇から、かすかな声が漏れる。
胸の奥が大きく震えていた。
なぜ。
どうして、この人が自分の名前を知っているのだろう。
前に会ったとき、この人は自分の名前を呼ばなかった。
それなのに――
今は、確かに。
自分を「ジンラン」と呼んだ。
その響きが、胸の奥へまっすぐ届く。
「ジンラン。」
もう一度、その声を思い出す。
ただ名前を呼ばれただけ。
それなのに、涙が滲んだ。
その呼び方が、あまりにも優しかった。
自分がここにいていいのだと。
自分という存在そのものを、確かに見てもらえているのだと。
そんなふうに感じてしまうほどだった。
「…どうして、私の名前を…?」
尋ねる声が震える。
けれど男は、答えなかった。
ただ、静かに彼女を見つめている。
その瞳には、何かを知っている者だけが持つような深い静けさがあった。
けれど、何も語らない。
ジンランは、その沈黙を不思議に思いながらも、目を逸らすことができなかった。
この人の光を、もっと見ていたい。
その気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
崇拝とも違う。
もっと深く、言葉にするにはあまりにも曖昧なもの。
懐かしさ。
安堵。
そして――
淡い恋慕にも似た感情。
まだ恋だとは、自分でも思わなかった。
ただ、この人の傍にいると、胸の奥が静かになる。
それだけだった。
けれど。
その優しさが、同時に痛かった。
あまりにも、優しいから。
ジンランは、自分の手をぎゅっと握った。
「…私。」
声が震える。
「私は…」
言葉が続かない。
こんなにも優しくされたことが、怖かった。
優しさを知ってしまえば――
今まで自分が耐えてきたものが、どれほど苦しいものだったのかを、認めなければならなくなる。
この人の光を知ってしまえば。
自分が今いる場所の闇を、見ないふりができなくなる。
ジンランは、ゆっくりと俯いた。
白い衣の裾が、朝の風に揺れている。
「…あなたの光を見ていると…」
声が掠れる。
「どうしてか…涙が出るんです。」
男は何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
その沈黙が、かえってジンランの心を揺らした。
「嬉しいのに…」
一筋の涙が頬を伝う。
「…苦しい。」
自分でも、どうしてなのか分からない。
ただ、この人の前では、自分の中にあるものを隠すことができなかった。
男の光は、何かを暴くような強さではない。
むしろ、何も責めず、何も奪わず、ただそこにある。
だからこそ――
ジンランは、自分の中にある闇まで見えてしまう気がした。
イェンミンに救われたこと。
母を助けてもらったこと。
闇の力を教えてもらったこと。
それらに感謝している気持ちは、今も消えていない。
だから、自分はここにいる。
そう思っていた。
けれど。
それと同時に、自分の心が苦しんでいることも、もう否定できなくなっていた。
ジンランは、涙を拭った。
そして、小さく呟く。
「私には…」
一度、言葉を飲み込む。
それでも、胸の奥から押し出すように続けた。
「…この光に応える資格なんて、ないのかもしれません。」
それは、誰かに言われた言葉ではなかった。
いつの間にか、自分自身の中に染みついていた思いだった。
自分は闇の中にいる。
ここから逃げ出してきた。
そして、これからまたあの館へ戻らなければならない。
そんな自分が、こんなにも眩しい光に触れていいのだろうか。
この優しさを、受け取ってしまっていいのだろうか。
ジンランは俯いたまま、唇を噛んだ。
そして、ジンランはしばらく俯いたまま、胸の奥に引っかかっていた言葉を、ゆっくりと口にした。
「…私の力が、師を超えているなんて…」
自分で言っておきながら、どうしても信じられなかった。
「そうは…思えません。」
声には、迷いが滲んでいた。
「私は、師のように呪いを使うこともできません。人を縛ることも、傷つけることも…私にはできない。」
それは、これまでずっと自分の弱さだと思っていたことだった。
師であるイェンミンには、闇を操る力がある。
人の魂に触れ、その力を奪い、呪いを施すことさえできる。
それに比べて、自分にできることなど、あまりにも少ない。
誰かを癒すこと。
淡い光を灯すこと。
そして――蝶の姿になって、ほんの少しだけ遠くへ飛ぶこと。
それだけだ。
そんな自分が、イェンミンを超えているなど。
どう考えても、信じられなかった。
けれど、目の前の男は否定することも、急かすこともしなかった。
ただ、穏やかな微笑みを浮かべている。
「…呪いは、お前には必要ない。」
静かな声だった。
その一言が、ジンランの胸に落ちる。
「必要…ない?」
「ああ。」
男は湖面へ視線を向けた。
朝の光を受けた水面が、細かな輝きを揺らしている。
「お前は、誰かを傷つけることで力を示す者ではない。」
そして、ゆっくりとジンランへ視線を戻した。
「蝶となり、意を形に変える。 自らの心にある願いを、現実へと導く。」
その言葉に、ジンランは息を呑んだ。
「それは、ただの術ではない。」
男の声は、どこまでも穏やかだった。
「お前の心が、世界に触れるための力だ。」
胸の奥が、かすかに震える。
自分が蝶になったとき。
ただ逃げたかった。
館から離れたい。
自由になりたい。
そう願ったからこそ、羽が生まれた。
それは、イェンミンから教わった術だった。
けれど――
「…祈り…」
男は小さく頷いた。
「そうだ。」
そして、微笑む。
「それこそが、お前にしかない“祈りの力”だ。」
ジンランは、何も言えなかった。
“祈り”。
そんな言葉で、自分の力を考えたことなど一度もなかった。
今まで自分は、イェンミンと比べていた。
師のように強くなれない。
師のように闇を操れない。
師のように呪いを使えない。
だから、自分は弱いのだと。
けれど――
もしかしたら。
自分には、自分にしかないものがあるのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな灯火がともった。
けれど、その灯火はすぐに揺らいだ。
ジンランは唇を噛みしめる。
「でも…」
その声には、先ほどまでとは違う苦しさが滲んでいた。
「私は…師からは、離れられません。」
指先が、ぎゅっと握られる。
「離れれば…呪われてしまう。」
その言葉を口にしただけで、あの出来事への恐怖が、再び胸の奥に蘇った。
館を去ったヤーシン。
彼女に与えていた力を奪い取り――
そして、呪いを施し、その命さえ奪ったこと。
そして――
もし、自分がここから逃げたら。
自分も、母も。
ヤーシンと同じように、力を奪われ、呪われ――
命さえ奪われてしまうのではないか。
そう思うと、逃げることなどできなかった。
その先に待っているものを、ジンランは知ってしまっていたから。
「だから…」
ジンランは顔を上げられなかった。
それ以上、何も言葉にすることができなかった。
ジンランの言葉を聞いて、男はしばらく黙っていた。
やがて――
一歩。
静かに、ジンランへ近づく。
彼女が顔を上げると、男はその頬へそっと手をかざした。
触れてはいない。
けれど、その掌から、柔らかな光が広がっていく。
朝の陽だまりに包まれたような、温かな光だった。
冷たく凍えていた身体の奥まで、ゆっくりと染み込んでくる。
その心地よさに、ジンランは思わず目を閉じた。
懐かしい。
胸の奥に、ずっと探していたものが触れたような感覚。
「…呪いは、清らかな魂には届かない。」
男の声が、静かに響く。
「恐れるな。」
その言葉は、ただの慰めには聞こえなかった。
まるで、長い間閉ざされていた扉を、そっと開くような声だった。
「お前は、光に守られている。」
ジンランの瞼が震える。
ゆっくりと目を開く。
「…本当に?」
自分でも驚くほど、幼い声が出た。
信じたい。
けれど、信じることが怖い。
もし信じてしまって、それが嘘だったら。
そんな恐れが、まだ胸の奥に残っていた。
それでも男は、ただ微笑んでいた。
その微笑みは、朝の光そのもののように穏やかだった。
「ああ。」
短い言葉だった。
けれど、その一言には、不思議なほど揺るぎがなかった。
「本当だ。」
その瞬間。
張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
ジンランの瞳から、一粒の涙が零れる。
頬を伝い、顎先から落ちていく。
けれど、その涙には、これまでのような絶望だけが宿っているわけではなかった。
ほんの少しだけ。
温かなものが混じっていた。
男はそんな彼女を見つめながら、静かに続ける。
「だが、忘れてはいけない。光の道を歩むということは、闇を憎むことではない。」
ジンランは息を止めた。
男の言葉が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。
「憎しみを捨てなさい。」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には確かな強さがあった。
「そして、感謝を抱くこと。」
ジンランは、思わず目を伏せた。
イェンミンのことを思う。
母を救ってくれたこと。
自分に力を与えてくれたこと。
闇の中で、生きる術を教えてくれたこと。
そして――
自分をここから出さないこと。
自由を奪ったこと。
恐怖で縛ったこと。
どちらも、確かに彼の一部だった。
だからこそ、簡単に憎むこともできなかった。
愛情と恐怖が絡み合ったまま、胸の中でほどけない。
そんな自分を、ジンランはずっと責めていた。
けれど。
「…感謝…」
小さく呟いた言葉とともに、胸の奥に絡みついていた何かが、少しずつほどけていく。
憎まなくてもいい。
忘れなくてもいい。
無理に受け入れる必要もない。
ただ――
自分の心まで、闇に渡してしまわなくていい。
そのことに気づいた瞬間だった。
涙が、また一粒こぼれた。
けれど今度は、ジンランの口元にかすかな微笑みが浮かんでいた。
「…はい。」
震える声。
それでも、今度の返事には迷いがなかった。
「ありがとうございます。」
男は、静かに頷いた。
そして、湖の向こう――まだ朝の光が届いていない山々へと視線を向ける。
「ならば、まずはお前の力で館を救いなさい。」
「…館を?」
ジンランが顔を上げる。
男は頷いた。
「闇の中にいる者たちを、すべて切り捨てる必要はない。」
その言葉に、ジンランは息を呑む。
「お前が見つけた光を、今度はお前自身の手で灯すのだ。」
淡い朝日が、湖面の向こうから少しずつ昇ってくる。
「お前なら、できる。」
その言葉は、不思議なほど胸に響いた。
今まで、誰かに「できる」と言われたことはあった。
けれど、それはいつも――
誰かの期待に応えなければならない、という意味に聞こえていた。
今は違う。
これは、自分自身を信じてもいいという言葉なのだ。
ジンランは、静かに顔を上げた。
その瞳には、まだ涙が残っている。
それでも、その奥には確かな光が宿っていた。
「…あなたは、一体…?」
初めて会ったときから感じていた。
この人のことを、魂のどこかが知っている。
声も。
光も。
その眼差しも。
なぜこんなにも懐かしいのか。
なぜ、この人の前にいると、胸の奥に眠っていた何かが目を覚ますのか。
答えを求めるように、ジンランは男を見つめた。
けれど――
男の輪郭が、淡い光の中へ溶けはじめる。
「…待って。」
思わず一歩、踏み出した。
けれど、指先が触れるより先に、その姿は朝の光へと溶けていく。
残された声だけが、静かな湖面を渡った。
「私は――光の神、白 澄昊。」
ジンランの瞳が、大きく見開かれる。
光の神。
その名を、心の中で繰り返す。
バイ・チョンハオ。
けれど、驚きが消えるより先に、もう一つの言葉が届いた。
「お前のことを…ずっと待っていた。」
「…私を…?」
問い返す声は、もう届かない。
チョンハオの姿は、完全に光の中へ消えていた。
ただ、湖面だけが静かに揺れている。
やがて昇った朝日が、水面を黄金色に染めていく。
ジンランはしばらく、その場所に立ち尽くしていた。
胸の奥には、まだ聞きたいことがいくつもあった。
なぜ自分を知っているのか。
なぜ、あの人を見るとこんなにも懐かしいのか。
そして――
「ずっと待っていた」という言葉の意味は、何なのか。
けれど今は、その答えを求めるよりも先に、戻らなければならない。
館へ。
自分が閉じ込められている、あの場所へ。
そして今度は――
ただ耐えるためではなく。
自分自身の意思で。
ジンランは、もう一度、蝶の姿へと変わった。
青い羽が、朝の光を受ける。
その薄い羽膜には、淡い虹色の輝きが揺らめいていた。
一度目にここへ来たときは、ただ自由になりたくて飛んだ。
けれど、今は違う。
胸の中に、小さな光がある。
それは、誰かに与えられたものではない。
自分の中に、もともとあったもの。
それを、ようやく知ることができた。
――行こう。
そう、心の中で静かに呟いて。
青い蝶は、朝の空へ舞い上がった。
冷たい夜を越えて。
閉ざされた館を抜けて。
ようやく掴んだ、ひとすじの希望を胸に抱いて。
その光は、まだ小さかった。
けれど――
彼女の魂が光へ還るために踏み出した、確かな最初の一歩だった。




