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冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


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12/21

黎明の兆し

夜が更けても、ジンランの部屋には闇が沈殿していた。

窓の外には月が浮かんでいるはずなのに、厚い雲に遮られ、その光さえも届かない。

灯りはとうに消えていた。


ただ、閉ざされた部屋の中には、逃げ場のない熱と、重苦しい気配だけが残っていた。


その夜のイェンミンは、いつになく激しかった。

いつもの静かな余裕もなかった。

何かに追い立てられるように、あるいは自分の中に生まれた焦りや苛立ちを振り払うように、ジンランを求め続ける。


それが怒りなのか、執着なのか。

本人にも、もう分からなかった。


ただ、失うことへの恐れだけが、形を持たない情念となって、彼の中で渦巻いていた。


荒い呼吸が、静まり返った部屋に落ちる。

焼けつくような熱が肌に残る。


ジンランは、ただ身を固くして耐えていた。

痛みに顔を歪めても、声を押し殺す。

何かを訴えようとしても、言葉になる前に喉の奥へ沈めた。


――逆らってはいけない。

そうしなければ。

あの鋭い瞳が、冷たい光を宿す。


その目を向けられるたび、ジンランは思ってしまう。

もし、ここで拒めば。

もし、自分の意思を示せば。


母のことも。

故郷のことも。

これまで築いてきたものも。

すべてを失ってしまうのではないか、と。


だから、耐えるしかなかった。

心がどれほど悲鳴を上げても、身体を動かすことはできない。

何かを叫びたくなっても、その声を飲み込む。


そうしているうちに、いつしか自分が何を望んでいたのかさえ、分からなくなりそうだった。


――私は、何のためにここにいるのだろう。


かつては、イェンミンの傍にいることが嬉しかった。

その腕に抱かれることに、安らぎを感じたこともあった。

けれど今は、その記憶さえ遠い。


目の前にいる人が、かつて自分を救ってくれた人と同じなのか。

分からない。

ただ、怖かった。


やがて、イェンミンは静かに身を起こした。

そこには、満たされたような気配があった。


けれどジンランには、それがひどく遠いものに感じられた。


彼は何も言わなかった。

ただ一度、冷たい視線をジンランへ向ける。


そして、そのまま部屋を出ていった。

扉が閉じる。


――ぱたり。

小さな音だった。


けれど、その音が落ちた瞬間。

張りつめていたものが、すべて切れた。


「…っ」


ジンランの身体から力が抜ける。

その場に崩れ落ちるようにして、床へ手をついた。


呼吸が震える。

胸の奥が痛い。


何が痛いのかさえ、もう分からなかった。

身体なのか。

心なのか。

それとも、そのどちらもなのか。


「辛い…」

掠れた声が漏れる。


「…なんで…」

その先を言葉にしようとすると、涙が溢れた。


「なんで、こんな目に遭わなければいけないの…」


返事はない。

もちろん、誰にも届かない。


この館には、彼女の涙を見てくれる者はいない。

誰かに助けを求めることもできない。


ただ静かな夜だけが、彼女の傍にあった。


ジンランは、震える腕で自分の身体を抱きしめた。

小さくなった身体を、さらに小さくするように。

そうすれば、この苦しさから少しでも隠れられるような気がした。


けれど、どれだけ目を閉じても、胸の奥に残る痛みは消えなかった。


涙が頬を伝い、床へ落ちる。

一滴。

また一滴。


そのたびに、心の奥へ何かが沈んでいく。


――もう、嫌。

そう思った。

けれど、その言葉さえ口にはできなかった。


そのときだった。

胸の奥で、ほんのわずかに何かが光った。

弱々しく。

それでも、確かに。

消えかけた灯火のような、小さな光。


ジンランは、ゆっくりと顔を上げた。


その光が何なのか、考える必要はなかった。

ずっと胸の奥に残っていたもの。

どれほど闇に閉ざされても、決して消えることのなかったもの。


「…自由に…なりたい。」

涙で濡れた唇から、かすかな声が零れる。


それは願いだった。

誰かに許してもらうための願いではない。

誰かに救ってもらうための願いでもない。

ただ、自分自身のための願い。


――私は、自由になりたい。


その想いが、痛みの底からゆっくりと浮かび上がってくる。


ジンランは、震える手を胸に当てた。

そして、目を閉じる。


ここから出たい。


誰にも命じられず。

誰にも縛られず。

自分の心が望む場所へ――


ジンランは、深く息を吸った。

思い描く。


あのとき感じた風。

頬を撫でる、夜明け前の冷たく澄んだ空気。

何ものにも遮られず、どこまでも広がっていく空。


そして――羽。

柔らかく、淡く光る青い羽。


あの姿になったときだけ、自分は何にも縛られなかった。

誰の弟子でもない。

誰かの所有物でもない。

ただ一つの命として、空を飛ぶことができた。


「…私は…」


ジンランの指先から、淡い光が零れた。


「自由になりたい…」


その瞬間。

光が、一気に全身へ広がった。

身体の輪郭が淡く揺らぐ。

重かった身体が、少しずつ軽くなっていく。


まるで、これまで彼女を縛りつけていた重力さえも、その意志に押し流されていくようだった。


そして――

ひらり。


夜の闇の中に、一匹の青い蝶が生まれた。

淡い光をまとった羽が、静かに開く。


一度。

二度。

小さく羽ばたく。


蝶は、ためらうことなく窓の外へ向かった。


閉ざされていた部屋を抜ける。

館の屋根を越える。

木々の枝をすり抜ける。


夜風が、その小さな身体を優しく包み込んだ。

冷たいはずなのに、不思議と心地よかった。


どこまでも広い夜空。

誰にも命じられない風。


どこへ行くのかさえ、自分で決められる自由。

ジンランは、ただひたすらに飛んだ。


山を越え。

森を抜け。

館から遠く離れていく。


その羽ばたきには、もう恐れはなかった。

それは逃げるためだけの飛翔ではない。

奪われ続けた自分の意志を、もう一度取り戻すための飛翔だった。


やがて、その先に――

月明かりを静かに映す湖が見えてきた。


ジンランは、その光へ向かって、さらに高く舞い上がった。


夜明け前の空は、まだ深い群青に染まっていた。

東の空の一角だけが、ほんのわずかに色を変え始めている。


けれど、朝が訪れるにはまだ早い。

山々は夜の名残を抱えたまま静まり返り、湖面には薄い霧が漂っていた。


風はほとんどない。

水面は鏡のように凪ぎ、その上を流れる霧だけが、ゆっくりと形を変えている。


その湖畔に――

一人の男が立っていた。


白い衣が朝靄に溶けている。

長い髪が、ごくわずかな風に揺れていた。

その姿はあまりにも静かで、周囲の景色から切り離されているようにも見える。


けれど、不思議と異質には感じられなかった。


むしろ――

そこにいることが、最初から決められていたかのようだった。


ジンランは、その姿を見つけた瞬間、羽ばたきを止めた。


――あの人だ。

そう思った瞬間、胸の奥が大きく揺れた。


そして今――

また、会えた。

そのことが、ただ嬉しかった。


館を抜け出し、山を越え、自由に空を飛んだ先で、もう一度出会った。


確かに、もう一度会いたいと思っていた。

あの声を聞きたかった。

あの光の傍に、もう一度行きたかった。


その想いに導かれるように、ジンランは湖畔へ近づいていく。


男もまた、その気配に気づいたようだった。

ゆっくりと顔を上げる。


淡い金色の瞳が、ジンランを捉えた。

その瞳に浮かんだのは、驚きではなかった。


まるで――

来ることを知っていたかのような、穏やかな微笑み。


「…また、来てくれたのだな。」


その声を聞いた瞬間。

ジンランの胸が、きゅっと締めつけられた。


また。

その言葉が、ひどく嬉しかった。


前にも会ったことを、この人は覚えている。

自分のことを、ちゃんと覚えていてくれた。


ジンランは小さく羽を震わせた。


「…」

声にはならない。

それでも、胸の奥には伝えたい言葉があった。


――あなたに、会いたかった。

その想いが、男にも伝わったのだろうか。


彼は何も尋ねなかった。

ただ、静かに微笑んでいる。

その笑顔を見ていると、不思議なほど心が安らいだ。


何かを求められるわけでもない。

何かを証明する必要もない。

ただ、ここにいるだけでいい。

そんなふうに思えた。


しばらくして、男はそっと手を差し出した。


「本当の姿を、見せてごらん。」


ジンランの羽が、ぴたりと止まる。


――本当の姿。

その言葉が、胸の奥に落ちた。


今の自分は蝶だ。

風に乗り、どこへでも行ける。

誰にも命じられず、誰にも縛られない。

けれど、それは自分の本当の姿なのだろうか。


人として生きてきた自分。

母と暮らし、村で日々を過ごしていた自分。

イェンミンの弟子となり、術を学び、闇の力を身につけた自分。


そのすべてを捨てたわけではない。

ただ、今は蝶の姿を借りているだけだ。


ジンランは、差し出された指先を見つめた。


不思議と、怖くはなかった。

この人になら――

見せてもいい。

そんな思いが自然に湧いてくる。


蝶はゆっくりと男の指先へ近づいた。

そして、その指にそっと触れる。


温かい。

その温もりを感じた瞬間、胸の奥にあった迷いが静かにほどけた。


淡い光が、ジンランの身体を包み込む。

羽が光の粒へとほどけていく。

小さな身体がゆっくりと輪郭を変え、青い光の中から、一人の女性の姿が現れた。


足が、静かに地面へ触れる。

人の身体に戻った瞬間、風が頬を撫でた。

長い髪がふわりと揺れる。

夜露を含んだ冷たい空気が、肌に触れる。


ジンランはゆっくりと顔を上げた。


目の前には、あの人がいる。

その姿を見た瞬間――


男の瞳が、わずかに揺れた。

何かを確かめるように、ジンランを見つめている。


その眼差しには、驚きだけではない。

懐かしさにも似た、深い感情が滲んでいた。


そして、やがて。

男の唇から、静かな声が零れる。

「…やはり。」


その言葉の意味が、ジンランには分からない。

けれど、その一言を聞いた瞬間。

胸の奥が、また大きく震えた。


やはり――

まるで、この人は自分のことを知っている。

ずっと前から知っていたかのように。


ジンランは戸惑いながら、男を見つめ返した。

その瞳に映る姿は、前に見たときと変わらない。


白い衣。

長い髪。

淡い金色の瞳。

そして、朝靄の中に溶けるような、静かな光。


けれど、今度は蝶の姿ではない。

人として、目の前に立っている。

そのことが、なぜかひどく恥ずかしく感じられた。


けれど同時に――

もっと、この人の顔を見ていたい。

そんな気持ちもあった。


自分でも、どうしてそう思うのか分からない。

ただ、この人の光を見つめていると、胸の奥にしまっていた何かが、ゆっくりとほどけていく。


懐かしい。

どうしようもなく、懐かしい。


けれど、記憶にはない。

いつ、どこで出会ったのか。

なぜ、この人の声を知っているように感じるのか。

何一つ思い出せない。


それなのに――

魂だけが、この人を知っている。

そんな不思議な感覚だった。


男は、そんなジンランを静かに見つめていた。

やがて、その視線が彼女の中にある力へと向けられる。


「お前の力は――」

静かな声が、湖畔に響く。

「お前の師を超えている。」


ジンランは、思わず目を見開いた。


「…私が?」


そんな言葉を聞いたことはなかった。


これまでずっと、自分は教わる側だった。

イェンミンから術を学び、力の使い方を教えられ、少しずつできることを増やしてきた。


自分の力が、誰かを超えるなどと考えたことさえない。

まして、師であるイェンミンを。


「そんな…」


否定するように首を振る。


「私なんて…まだ何も…」


男は、そんなジンランを見て、穏やかに微笑んだ。


「だからこそ、自分の力を信じるんだ。」

その声には、強制する響きがなかった。


命令でもない。

試すような言葉でもない。

ただ、静かな確信だけがあった。


「お前が自分を信じれば、必ず道は開ける。」


ジンランは、何も言えなかった。


胸の奥が、熱くなる。

自分の力を信じる。

その言葉が、こんなにも胸に響くなんて思わなかった。


これまでの自分は、いつも誰かの言葉を頼りにしていた。

これは正しいのか。

これをしていいのか。

どうすればいいのか。

自分で決めるより先に、誰かの答えを探していた。


けれど、この人は違う。

誰かに従えとも。

誰かを信じろとも言わない。

自分自身を――信じろと。


その言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいった。


男はしばらく、ジンランを見つめていた。


そして――

穏やかな声で、その名を呼んだ。

「…ジンラン。」


――え。

ジンランの思考が止まった。


「…どうして?」

唇から、かすかな声が漏れる。

胸の奥が大きく震えていた。


なぜ。

どうして、この人が自分の名前を知っているのだろう。


前に会ったとき、この人は自分の名前を呼ばなかった。

それなのに――

今は、確かに。

自分を「ジンラン」と呼んだ。


その響きが、胸の奥へまっすぐ届く。


「ジンラン。」

もう一度、その声を思い出す。


ただ名前を呼ばれただけ。

それなのに、涙が滲んだ。


その呼び方が、あまりにも優しかった。

自分がここにいていいのだと。

自分という存在そのものを、確かに見てもらえているのだと。

そんなふうに感じてしまうほどだった。


「…どうして、私の名前を…?」

尋ねる声が震える。


けれど男は、答えなかった。

ただ、静かに彼女を見つめている。


その瞳には、何かを知っている者だけが持つような深い静けさがあった。

けれど、何も語らない。


ジンランは、その沈黙を不思議に思いながらも、目を逸らすことができなかった。


この人の光を、もっと見ていたい。

その気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいく。


崇拝とも違う。

もっと深く、言葉にするにはあまりにも曖昧なもの。


懐かしさ。

安堵。


そして――

淡い恋慕にも似た感情。


まだ恋だとは、自分でも思わなかった。

ただ、この人の傍にいると、胸の奥が静かになる。

それだけだった。


けれど。

その優しさが、同時に痛かった。

あまりにも、優しいから。


ジンランは、自分の手をぎゅっと握った。


「…私。」

声が震える。


「私は…」

言葉が続かない。


こんなにも優しくされたことが、怖かった。

優しさを知ってしまえば――

今まで自分が耐えてきたものが、どれほど苦しいものだったのかを、認めなければならなくなる。


この人の光を知ってしまえば。

自分が今いる場所の闇を、見ないふりができなくなる。


ジンランは、ゆっくりと俯いた。

白い衣の裾が、朝の風に揺れている。


「…あなたの光を見ていると…」

声が掠れる。

「どうしてか…涙が出るんです。」


男は何も言わない。

ただ、静かに聞いている。


その沈黙が、かえってジンランの心を揺らした。


「嬉しいのに…」


一筋の涙が頬を伝う。


「…苦しい。」


自分でも、どうしてなのか分からない。

ただ、この人の前では、自分の中にあるものを隠すことができなかった。


男の光は、何かを暴くような強さではない。

むしろ、何も責めず、何も奪わず、ただそこにある。


だからこそ――

ジンランは、自分の中にある闇まで見えてしまう気がした。


イェンミンに救われたこと。

母を助けてもらったこと。

闇の力を教えてもらったこと。

それらに感謝している気持ちは、今も消えていない。


だから、自分はここにいる。

そう思っていた。


けれど。

それと同時に、自分の心が苦しんでいることも、もう否定できなくなっていた。


ジンランは、涙を拭った。

そして、小さく呟く。


「私には…」

一度、言葉を飲み込む。


それでも、胸の奥から押し出すように続けた。

「…この光に応える資格なんて、ないのかもしれません。」


それは、誰かに言われた言葉ではなかった。

いつの間にか、自分自身の中に染みついていた思いだった。


自分は闇の中にいる。

ここから逃げ出してきた。

そして、これからまたあの館へ戻らなければならない。


そんな自分が、こんなにも眩しい光に触れていいのだろうか。

この優しさを、受け取ってしまっていいのだろうか。

ジンランは俯いたまま、唇を噛んだ。


そして、ジンランはしばらく俯いたまま、胸の奥に引っかかっていた言葉を、ゆっくりと口にした。


「…私の力が、師を超えているなんて…」

自分で言っておきながら、どうしても信じられなかった。

「そうは…思えません。」


声には、迷いが滲んでいた。

「私は、師のように呪いを使うこともできません。人を縛ることも、傷つけることも…私にはできない。」


それは、これまでずっと自分の弱さだと思っていたことだった。


師であるイェンミンには、闇を操る力がある。

人の魂に触れ、その力を奪い、呪いを施すことさえできる。

それに比べて、自分にできることなど、あまりにも少ない。


誰かを癒すこと。

淡い光を灯すこと。

そして――蝶の姿になって、ほんの少しだけ遠くへ飛ぶこと。

それだけだ。


そんな自分が、イェンミンを超えているなど。

どう考えても、信じられなかった。


けれど、目の前の男は否定することも、急かすこともしなかった。

ただ、穏やかな微笑みを浮かべている。


「…呪いは、お前には必要ない。」

静かな声だった。


その一言が、ジンランの胸に落ちる。


「必要…ない?」


「ああ。」


男は湖面へ視線を向けた。

朝の光を受けた水面が、細かな輝きを揺らしている。


「お前は、誰かを傷つけることで力を示す者ではない。」


そして、ゆっくりとジンランへ視線を戻した。


「蝶となり、意を形に変える。 自らの心にある願いを、現実へと導く。」


その言葉に、ジンランは息を呑んだ。


「それは、ただの術ではない。」

男の声は、どこまでも穏やかだった。

「お前の心が、世界に触れるための力だ。」


胸の奥が、かすかに震える。


自分が蝶になったとき。

ただ逃げたかった。

館から離れたい。

自由になりたい。

そう願ったからこそ、羽が生まれた。

それは、イェンミンから教わった術だった。


けれど――


「…祈り…」


男は小さく頷いた。


「そうだ。」


そして、微笑む。


「それこそが、お前にしかない“祈りの力”だ。」


ジンランは、何も言えなかった。


“祈り”。

そんな言葉で、自分の力を考えたことなど一度もなかった。


今まで自分は、イェンミンと比べていた。

師のように強くなれない。

師のように闇を操れない。

師のように呪いを使えない。

だから、自分は弱いのだと。


けれど――

もしかしたら。

自分には、自分にしかないものがあるのだろうか。


そう思った瞬間、胸の奥に小さな灯火がともった。

けれど、その灯火はすぐに揺らいだ。


ジンランは唇を噛みしめる。


「でも…」

その声には、先ほどまでとは違う苦しさが滲んでいた。

「私は…師からは、離れられません。」


指先が、ぎゅっと握られる。


「離れれば…呪われてしまう。」


その言葉を口にしただけで、あの出来事への恐怖が、再び胸の奥に蘇った。


館を去ったヤーシン。

彼女に与えていた力を奪い取り――

そして、呪いを施し、その命さえ奪ったこと。


そして――

もし、自分がここから逃げたら。


自分も、母も。

ヤーシンと同じように、力を奪われ、呪われ――

命さえ奪われてしまうのではないか。


そう思うと、逃げることなどできなかった。

その先に待っているものを、ジンランは知ってしまっていたから。


「だから…」


ジンランは顔を上げられなかった。

それ以上、何も言葉にすることができなかった。


ジンランの言葉を聞いて、男はしばらく黙っていた。


やがて――

一歩。

静かに、ジンランへ近づく。


彼女が顔を上げると、男はその頬へそっと手をかざした。

触れてはいない。

けれど、その掌から、柔らかな光が広がっていく。


朝の陽だまりに包まれたような、温かな光だった。

冷たく凍えていた身体の奥まで、ゆっくりと染み込んでくる。

その心地よさに、ジンランは思わず目を閉じた。


懐かしい。

胸の奥に、ずっと探していたものが触れたような感覚。


「…呪いは、清らかな魂には届かない。」

男の声が、静かに響く。


「恐れるな。」

その言葉は、ただの慰めには聞こえなかった。

まるで、長い間閉ざされていた扉を、そっと開くような声だった。


「お前は、光に守られている。」


ジンランの瞼が震える。

ゆっくりと目を開く。


「…本当に?」

自分でも驚くほど、幼い声が出た。


信じたい。

けれど、信じることが怖い。

もし信じてしまって、それが嘘だったら。

そんな恐れが、まだ胸の奥に残っていた。


それでも男は、ただ微笑んでいた。

その微笑みは、朝の光そのもののように穏やかだった。


「ああ。」

短い言葉だった。


けれど、その一言には、不思議なほど揺るぎがなかった。

「本当だ。」


その瞬間。

張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。


ジンランの瞳から、一粒の涙が零れる。

頬を伝い、顎先から落ちていく。


けれど、その涙には、これまでのような絶望だけが宿っているわけではなかった。

ほんの少しだけ。

温かなものが混じっていた。


男はそんな彼女を見つめながら、静かに続ける。

「だが、忘れてはいけない。光の道を歩むということは、闇を憎むことではない。」


ジンランは息を止めた。

男の言葉が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。


「憎しみを捨てなさい。」

穏やかな声だった。

けれど、その言葉には確かな強さがあった。


「そして、感謝を抱くこと。」


ジンランは、思わず目を伏せた。

イェンミンのことを思う。


母を救ってくれたこと。

自分に力を与えてくれたこと。

闇の中で、生きる術を教えてくれたこと。


そして――

自分をここから出さないこと。

自由を奪ったこと。

恐怖で縛ったこと。


どちらも、確かに彼の一部だった。


だからこそ、簡単に憎むこともできなかった。

愛情と恐怖が絡み合ったまま、胸の中でほどけない。

そんな自分を、ジンランはずっと責めていた。


けれど。


「…感謝…」

小さく呟いた言葉とともに、胸の奥に絡みついていた何かが、少しずつほどけていく。


憎まなくてもいい。

忘れなくてもいい。

無理に受け入れる必要もない。


ただ――

自分の心まで、闇に渡してしまわなくていい。

そのことに気づいた瞬間だった。


涙が、また一粒こぼれた。

けれど今度は、ジンランの口元にかすかな微笑みが浮かんでいた。


「…はい。」

震える声。


それでも、今度の返事には迷いがなかった。

「ありがとうございます。」


男は、静かに頷いた。


そして、湖の向こう――まだ朝の光が届いていない山々へと視線を向ける。


「ならば、まずはお前の力で館を救いなさい。」


「…館を?」


ジンランが顔を上げる。


男は頷いた。


「闇の中にいる者たちを、すべて切り捨てる必要はない。」


その言葉に、ジンランは息を呑む。


「お前が見つけた光を、今度はお前自身の手で灯すのだ。」


淡い朝日が、湖面の向こうから少しずつ昇ってくる。


「お前なら、できる。」


その言葉は、不思議なほど胸に響いた。

今まで、誰かに「できる」と言われたことはあった。


けれど、それはいつも――

誰かの期待に応えなければならない、という意味に聞こえていた。


今は違う。

これは、自分自身を信じてもいいという言葉なのだ。


ジンランは、静かに顔を上げた。

その瞳には、まだ涙が残っている。

それでも、その奥には確かな光が宿っていた。


「…あなたは、一体…?」


初めて会ったときから感じていた。

この人のことを、魂のどこかが知っている。


声も。

光も。

その眼差しも。


なぜこんなにも懐かしいのか。

なぜ、この人の前にいると、胸の奥に眠っていた何かが目を覚ますのか。

答えを求めるように、ジンランは男を見つめた。


けれど――

男の輪郭が、淡い光の中へ溶けはじめる。


「…待って。」


思わず一歩、踏み出した。

けれど、指先が触れるより先に、その姿は朝の光へと溶けていく。


残された声だけが、静かな湖面を渡った。

「私は――光の神、白 澄昊(バイ・チョンハオ)。」


ジンランの瞳が、大きく見開かれる。


光の神。

その名を、心の中で繰り返す。

バイ・チョンハオ。


けれど、驚きが消えるより先に、もう一つの言葉が届いた。

「お前のことを…ずっと待っていた。」


「…私を…?」

問い返す声は、もう届かない。


チョンハオの姿は、完全に光の中へ消えていた。

ただ、湖面だけが静かに揺れている。


やがて昇った朝日が、水面を黄金色に染めていく。

ジンランはしばらく、その場所に立ち尽くしていた。


胸の奥には、まだ聞きたいことがいくつもあった。

なぜ自分を知っているのか。

なぜ、あの人を見るとこんなにも懐かしいのか。


そして――

「ずっと待っていた」という言葉の意味は、何なのか。


けれど今は、その答えを求めるよりも先に、戻らなければならない。

館へ。

自分が閉じ込められている、あの場所へ。


そして今度は――

ただ耐えるためではなく。

自分自身の意思で。


ジンランは、もう一度、蝶の姿へと変わった。

青い羽が、朝の光を受ける。

その薄い羽膜には、淡い虹色の輝きが揺らめいていた。


一度目にここへ来たときは、ただ自由になりたくて飛んだ。

けれど、今は違う。


胸の中に、小さな光がある。

それは、誰かに与えられたものではない。

自分の中に、もともとあったもの。

それを、ようやく知ることができた。


――行こう。

そう、心の中で静かに呟いて。


青い蝶は、朝の空へ舞い上がった。


冷たい夜を越えて。

閉ざされた館を抜けて。

ようやく掴んだ、ひとすじの希望を胸に抱いて。


その光は、まだ小さかった。

けれど――

彼女の魂が光へ還るために踏み出した、確かな最初の一歩だった。

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