守りの檻
ジンランがこの館に来てから、いつの間にか数か月の時が過ぎていた。
癒しの力は、格段に強くなっていた。
傷ついた身体に触れれば、指先から淡い光が流れ込み、肉体だけでなく、その奥にある魂の傷までも包み込んでいく。
以前なら長い時間を必要とした傷も、今では短い時間で癒せるようになった。
けれど――
呪いだけは、いまだに一度も成功していなかった。
呪いたいわけではない。
誰かを傷つけたいと思ったこともない。
それでも、ここにいる以上、呪えるようにならなければ。
その思いだけが、いつしかジンラン自身を追い詰めるようになっていた。
今夜も、山が夜の闇に覆われる頃。
ジンランは館の奥にある小さな修行部屋で、一人、床に座っていた。
部屋には小さな蝋燭が一本。
揺れる炎が、壁に細長い影を落としている。
窓の外には、雲に隠れた月。
山の夜は静かで、時折、木々を揺らす風の音が聞こえるだけだった。
ジンランは手の中の呪符を見つめる。
白い紙に描かれた黒い文字。
何度も教えられ、何度も練習してきた術だった。
ゆっくりと息を吸う。
両手で呪符を包み、意識を集中させる。
胸の奥から力を引き出し、指先へと流していく。
呪符が、かすかに震えた。
けれど――
何も起こらない。
黒い光が生まれることもなく、符に描かれた文字が変化することもない。
「もう一度…」
ジンランは呪符を持ち直した。
今度は、より強く力を込める。
呪いを成立させるには、相手への強い感情が必要だった。
憎しみ。
怒り。
恨み。
そうした感情を闇の力へと変える。
けれど、ジンランの心からは、それがどうしても生まれなかった。
目を閉じれば、傷ついた誰かの姿が浮かぶ。
その人を憎もうとしても、最後には「苦しんでいるのなら助けたい」という思いが残ってしまう。
「…っ」
また、何も起こらない。
ジンランは呪符を握ったまま、膝を抱えた。
「…どうして、できないの…?」
震えた声が、静かな部屋に落ちる。
自分だけができない。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいく。
それでも――
そんな夜には、決まってあの言葉が蘇った。
『闇に触れても、光を忘れるな。』
夢の中で聞いた、不思議な声。
白い衣をまとった男。
長い髪。
そして、見つめるだけで心の奥まで見透かされるような、黄金の瞳。
『お前は、光を灯す者だ。』
あの言葉を思い出すと、不思議と呼吸が少しだけ楽になる。
呪えなくてもいい。
そう言われたわけではない。
けれど、その言葉だけは、今のジンランにとって小さなお守りだった。
このことは、イェンミンにさえ話していない。
話してはいけない気がした。
ジンランは胸元に手を当て、静かに目を閉じる。
「…もう少しだけ、頑張ろう。」
そして、再び呪符へと向き直った。
――同じ夜。
館の別室では、ヤーシンが一人、密かに闇の儀式を行っていた。
部屋の床には、いくつもの呪符が円を描くように並べられている。
中央に座ったヤーシンは、指先を小さく切った。
滲んだ血を呪符へ垂らす。
ぽたり。
赤い雫が紙に落ちた瞬間、描かれた文字が黒く揺らめいた。
やがて、呪符の上から黒い光が立ち上る。
「…あんな娘…」
ヤーシンの唇が震える。
頭から離れない。
イェンミンの傍にいるジンランの姿が。
ジンランがこの館へ来てからイェンミンは、明らかに変わった。
これまで誰にも向けたことのない眼差しを、彼女にだけ向けるようになった。
静かで、優しく、それでいてどこか熱を帯びた瞳だった。
それが、どうしても許せなかった。
「私より…大切だというの…?」
返事はない。
けれど、胸の中で膨らんだ感情は、もう自分では抑えられなかった。
ヤーシンは呪符へ手をかざす。
「…あんな娘…いなくなってしまえ!」
叫びとともに、黒い光が大きく渦を巻いた。
「闇に飲まれてしまえばいい…!」
その瞬間。
呪符が激しく震えた。
「…え?」
黒い光が、一瞬だけ逆向きに渦を巻く。
次の瞬間――
凄まじい衝撃がヤーシンの身体を襲った。
「…っ!」
身体が弾かれ、床へ倒れ込む。
頭の奥に鋭い痛みが走った。
「いた…っ…!」
こめかみを押さえながら顔を上げる。
呪符は燃え尽きることなく、床の上で黒い煙を上げていた。
呪いが届かなかった。
それどころか――自分自身へ跳ね返ってきたのだ。
「な、なぜ…」
胸の奥から、押し込めていた不安や焦りが一気に溢れ出す。
「どうして…ジンランに…!」
そのとき。
部屋の入口に人影が現れた。
「ヤーシン…」
低く、静かな声。
ヤーシンは息を呑んだ。
いつからそこにいたのか。
イェンミンが、暗い部屋の入口に立っていた。
彼は床に散らばった呪符と、血の跡を一瞥する。
「仲間内での争いは許されない。」
淡々とした声だった。
「お前の力は、仲間を傷つけるために使うものではない。」
「…申し訳ありません。」
ヤーシンは膝をつき、頭を下げた。
涙が頬を伝う。
「もう…二度と…」
けれど、イェンミンの視線はヤーシンから離れ、床の呪符へと向けられていた。
その瞬間。
ふと、別のことが頭をよぎる。
――低次の呪いが、ジンランには届かない。
偶然かもしれない。
けれど――
イェンミンの眉がわずかに寄る。
かつて、チョンハオに呪いを仕掛けたときもそうだった。
どれほど闇の力を向けても、彼には届かなかった。
光を司る神。
自分の闇を、受け入れるはずのない光。
そして今、ジンランにも、同じことが起きている。
「…なぜ、あの娘ごときに…」
思わず、低い声が漏れた。
その声に、ヤーシンが顔を上げる。
けれど、イェンミンは彼女を見ていなかった。
視線の先にあるのは、この部屋ではない。
その向こう。
館のどこかで、今も修行を続けているはずのジンランだった。
あの娘の光は、一体何なのか。
何者から与えられたものなのか。
胸の奥に、言葉にできない不安が広がる。
ジンランは今、チョンハオに導かれ始めているのではないか。
もし――
ジンランが、チョンハオのもとへ行ってしまったら。
イェンミンの指が、わずかに動いた。
その考えを振り払うように、手を握る。
守らなければならない。
そう思った。
けれど、その思いの中には、すでに別のものが混じっていた。
誰にも渡したくない。
自分以外のものを、彼女の心に近づけたくない。
その思いが、闇の中で静かに形を持ち始めていた。
ある夜。
館の奥深くにある小さな修行部屋で、ジンランは一人、膝を抱えて座っていた。
目の前には、何度も使い込まれた呪符が散らばっている。
どれも、何度も力を注いだ跡が残っていた。
けれど、どれ一つとして、彼女の望むようには応えてくれない。
指先に力を集めても、呪符はわずかに震えるだけ。
黒い光が生まれることもなければ、相手へ向かって闇が伸びることもなかった。
「…どうして…」
呟いた声が、暗い部屋の中でかすかに揺れる。
ジンランは手の甲で頬を拭った。
いつの間にか、涙が零れていた。
何度も失敗してきた。
それでも、今日こそはと自分に言い聞かせて、また呪符を握った。
けれど、結果は変わらない。
自分には何かが欠けているのだろうか。
心が弱いからなのか。
それとも――
やはり自分は、ここにいる資格がないのだろうか。
そんな考えが浮かぶたび、胸の奥が締めつけられた。
できない自分が、悔しかった。
期待に応えられないことが、怖かった。
ジンランは呪符を見つめたまま、唇を噛みしめる。
「…私も、変わらないと…」
そう呟いてみても、声にはもう力がなかった。
目元に溜まった涙が、再び頬を伝う。
そのとき。
部屋の外から、かすかな足音が聞こえた。
ジンランは慌てて顔を伏せ、涙を拭う。
けれど、扉が開くよりも早く、その気配が誰のものなのか分かってしまった。
冷たく静かな闇の気配。
それでいて、決して見間違えることのない存在感。
「…イェンミン様。」
扉の向こうから姿を現したイェンミンは、部屋の中を見渡した。
床に散らばった呪符。
消えかけた蝋燭の炎。
そして、泣いた痕跡を隠そうとするジンラン。
彼は何も言わず、しばらく彼女を見つめていた。
その視線に耐えきれず、ジンランは目を伏せる。
「…申し訳ありません。」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
ただ、失敗したことを知られるのが怖かった。
イェンミンはゆっくりと部屋の中へ入る。
扉が閉じられると、外の気配が遠ざかった。
夜の闇が二人を包み込み、部屋には蝋燭の揺らめく光だけが残る。
炎が揺れるたび、イェンミンの顔に明暗が落ちた。
「ジンラン…」
低い声で呼ばれ、彼女の肩が小さく震える。
「はい…」
イェンミンは彼女の表情をじっと見つめた。
泣いたことを責めるわけでもない。
失敗を叱るわけでもない。
ただ、その瞳の奥にあるものを探るように。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「お前は今後、私の許可なしで外出するな。」
一瞬。
ジンランは、その言葉の意味を理解できなかった。
「…え?」
聞き間違いかと思い、顔を上げる。
けれど、イェンミンの表情は変わらない。
その声音には、反論を許さない硬さがあった。
「私の許可なく、館の外へ出ることは禁じる。」
胸の奥が、きゅっと縮む。
なぜ。
どうして突然、そんなことを言われるのか。
ジンランは震える指を膝の上で握りしめた。
「な、なぜでしょう…」
イェンミンはすぐには答えなかった。
蝋燭の炎が、彼の瞳の奥で揺れている。
そこに怒りはなかった。
ただ、行き場のない苛立ちと、拭いきれない警戒心。
そして――揺れ動く感情を抑えきれず、ただ立ち尽くすしかない自分自身への、深い自己嫌悪。
その奥には、自分でも認めたくないほど強い不安が潜んでいた。
ジンランの光は、彼が知るどの力とも異なっている。
闇に染まらず、呪いを退ける。
その光が、どこから来たものなのか。
誰に導かれているのか。
考えるほどに、胸の奥に不快なざわめきが広がった。
「お前は、光を知りすぎている。」
「…光を?」
「そうだ。」
イェンミンの声が低く落ちる。
「その力が何を呼び寄せるのか、お前はまだ理解していない。」
ジンランは、夢の中で出会った白い衣の男を思い出した。
『闇に触れても、光を忘れるな。』
その言葉は、今も心の奥に残っている。
けれど―― そんなことを、イェンミンに話せるわけがなかった。
もし、話してしまったら、どうなってしまうのだろう。
その先を考えることさえ、恐ろしかった。
そのわずかな沈黙を、イェンミンは見逃さなかった。
「本気で変わりたいのなら…」
彼はジンランの前に立ち、静かに見下ろした。
「しばらく闇に籠もれ。」
ジンランの瞳が揺れる。
「闇の中で、自分の力と向き合え。外のものに惑わされる必要はない。」
その言葉は、修行の指示にも聞こえた。
けれど、同時に。
外の世界から彼女を切り離そうとする命令にも聞こえた。
「これも修行だ。」
淡々と告げられた言葉に、ジンランの胸が痛む。
修行なのだと、そう言われてしまえば、拒む理由を見つけられない。
自分はまだ弱い。
呪いも使えない。
イェンミンの期待に応えられていない。
だから、従わなければならないのだろうか。
「…はい。」
ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。
イェンミンは黙ったまま、彼女を見つめている。
その瞳に宿る感情を、ジンランは読み取れなかった。
自分を案じているのか。
それとも、逃げられないようにしているのか。
分からない。
ただ、彼の言葉に逆らうことができない自分が、ひどく苦しかった。
「…泣くな。」
不意に、イェンミンが言った。
ジンランは顔を伏せる。
「泣いてなど…」
否定しようとした瞬間、頬から新たな涙が落ちた。
それを見たイェンミンの眉が、わずかに動く。
彼は手を伸ばしかけた。
けれど、触れる直前で止める。
その手を握りしめるようにして、ゆっくりと下ろした。
「お前が弱いままでは、守れない。」
誰から守るのか。
何から守るのか。
ジンランには分からなかった。
けれど、その言葉の奥にあるものが、優しさだけではないことは感じ取れた。
守るという名のもとに、閉じ込められていく。
そんな予感が、胸の奥に小さく芽生える。
「…分かりました。」
ジンランは涙を拭い、立ち上がった。
けれど、足元には力が入らなかった。
イェンミンはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、彼女が再び呪符を手に取る姿を見つめている。
やがて、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その音が、妙に大きく響いた。
ジンランは一人、暗い修行部屋に残された。
蝋燭の炎が揺れている。
その小さな光さえ、今は遠く感じられた。
彼女は床に座り直し、膝を抱える。
私の許可なしで外出するな。
闇に籠もれ。
言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
ジンランは、そっと目を閉じた。
胸の奥には、今もあの白い男の声が残っている。
『闇に触れても、光を忘れるな。』
――あの言葉は、いったい何だったのだろう。
なぜ、あの人は自分にそんなことを告げたのか。
自分は、光に惑わされているのだろうか。
それとも。
闇に身を置く者として、闇に従わなければならないのではないか。
そうでなければ、この場所で生きていくことなど、できない。
光を選ぶことも。
闇に従うことも。
今のジンランには、どちらが正しいのか分からない。
その答えを求めることさえ、怖かった。
ただ、暗闇の中で膝を抱えたまま、ジンランは静かに涙を流していた。
その夜から。
彼女は一人、館の奥深くで闇の中に身を潜めることになった。
そしてその日、初めて――
ジンランは、イェンミンの誘いを断った。
館が静かな闇に包まれる頃。
イェンミンは、いつものようにジンランのもとを訪れていた。
「ジンラン。」
低く、落ち着いた声。
その声を聞くだけで、ジンランの胸は小さく強張った。
これまでなら、何も考えずに頷いていた。
イェンミンの傍にいることが、いつの間にか日常になっていたからだ。
けれど、今夜だけは違った。
ジンランは膝の上で指を絡め、何度も言葉を探した。
断ってはいけない。
そう思う。
けれど、胸の奥には、もうこれ以上、彼の傍にいることが苦しいという気持ちがあった。
ほんの少しだけでも。
今夜だけでも。
一人になりたかった。
「…すみません。」
ようやく声を絞り出す。
イェンミンが、わずかに眉を動かした。
「今夜は、体調が優れないので…」
それだけだった。
たった、それだけの言葉。
けれどジンランにとっては、大きな決断だった。
言い終えた瞬間、胸の奥が激しく鳴った。
断ってしまった。
初めて、自分から。
イェンミンの誘いを。
沈黙が落ちる。
ほんの数秒だったはずなのに、ジンランにはひどく長く感じられた。
やがて、イェンミンが静かに口を開く。
「…わかった。」
声はいつもと変わらなかった。
「今日はゆっくり休め。」
穏やかな言葉。
責める気配もない。
怒鳴り声もない。
だからこそ、ジンランは余計に怖かった。
「…ありがとうございます。」
小さく頭を下げる。
イェンミンはそれ以上何も言わず、踵を返した。
扉へ向かって歩いていく。
その背中を、ジンランは黙って見つめていた。
扉が閉じる。
その音が響いた瞬間――
張りつめていたものが、ぷつりと切れた。
「…っ」
ジンランは胸元を押さえた。
息がうまく吸えない。
たった一度、断っただけ。
それなのに。
こんなにも怖い。
一方。
廊下を歩くイェンミンの足取りは、先ほどまでと変わらなかった。
表情も崩れていない。
いつもと同じ、静かな顔。
けれど、その胸の内では、激しい感情が渦を巻いていた。
――断られた。
その事実が、頭から離れない。
なぜだ。
体調が悪いだけなのか。
それとも――
自分と距離を置こうとしているのか。
イェンミンは足を止めた。
静まり返った廊下。
窓の外には、深い夜の山が広がっている。
振り返れば、そこには先ほど出てきた部屋がある。
扉の向こうに、ジンランがいる。
そう分かっているだけで、胸の奥がざわついた。
今までなら、呼べば来た。
誘えば、傍にいた。
それが当然だと思っていた。
けれど、今日初めて――
彼女は、自分の言葉を選ばなかった。
自分よりも、自分自身の意思を優先した。
そのことが、イェンミンには妙に大きな出来事に感じられた。
「…離れたいのか。」
無意識に、低い声が漏れる。
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に、冷たいものが走った。
もし本当に、ジンランが自分から離れていったら。
もし、いつかこの館を出て。
自分の知らない場所へ行ってしまったら。
そう考えただけで、息苦しくなる。
イェンミンは拳を握った。
それでも、今は戻らない。
戻って問いただすこともできる。
なぜ断ったのか。
自分を嫌になったのか。
聞けばいい。
けれど――
それをすれば、本当に彼女を遠ざけてしまう気がした。
だから、何も言わなかった。
ただ静かに、その場を離れていく。
その背中には、いつもの余裕はなかった。
部屋に残されたジンランは、扉を見つめたまま動けずにいた。
「…怖い…」
小さく呟く。
断ったことへの罪悪感。
次に何を言われるのか分からない不安。
そして、自分が少しずつイェンミンから離れようとしていることへの戸惑い。
いくつもの感情が絡まり合い、胸の中を締めつけていた。
頬を涙が伝う。
拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。
――自分は、どうしたいのだろう。
傍にいたい。
けれど、苦しい。
離れたい。
けれど、離れるのも怖い。
守られていたい。
けれど、その手が強くなるほど息ができなくなる。
答えは出ない。
ただ一つ分かるのは――
自分の心が、もう以前のように素直に「はい」と言えなくなっていることだった。
ジンランは膝を抱え、震える身体を小さく丸める。
部屋の中には、蝋燭の淡い光しかない。
その光さえも、今は頼りなく揺れていた。
そして、その小さな光の中で。
ジンランは初めて、自分を包み込んでいた闇が、ただ自分を守ってくれるものではなかったことに気づき始めていた。




