光の目覚め
ジンランが村人の命を取り戻した、あの夜を境に――
館の中で、彼女を見る者たちの視線は明らかに変わっていった。
あの夜。
死に瀕していた村人の胸に、再び命の鼓動が戻った。
誰もが、目を疑った。
淡い光に包まれた身体。
止まりかけていた呼吸。
青ざめていた顔に、少しずつ血の気が戻っていく様子。
そして―― 確かに、彼は再び息をした。
それは、この館に集う弟子たちにとっても、簡単には受け入れられない出来事だった。
闇の力を学ぶ者たち。
呪い。
破壊。
奪うこと。
この場所で扱われる力の多くは、人々が恐れるものだった。
そんな館に現れた、一人の村娘。
しかも彼女が持っていたのは――
傷つけるためではなく、癒すための力。
失われかけた命さえ、引き戻すことのできる光だった。
「…本当に、助かったんだ。」
「死にかけていたのに…」
「どうして、あんなことができるんだ…?」
弟子たちは、ジンランが廊下を歩くだけで、以前とは違う目を向けるようになった。
ある者は、恐れるように。
ある者は、眩しいものを見るように。
そしてある者は――
羨望とも、嫉妬ともつかない感情を隠しながら。
ジンラン自身は、何も変わっていなかった。
ただ、助けられる命があるのなら助けたかった。
それだけだった。
けれど周囲は、そう簡単には受け取ってくれなかった。
ある日のことだった。
館の広間で弟子たちが集まっている中、ヤーシンがふと口を開いた。
「ねえ。」
その声音は穏やかだった。
むしろ、いつものように余裕さえ感じられる。
「生を取り戻させる力、ね。」
ヤーシンは、どこか考え込むように呟いた。
弟子たちの視線が、自然と彼女へ向けられる。
「…あれは、本当に純粋な力なのかしら。」
その場の空気が、わずかに変わった。
「どういう意味だ?」
誰かが尋ねる。
ヤーシンはすぐには答えなかった。
まるで、言うべきか迷っているような顔をする。
そして、ほんの少しだけ、困ったように微笑んだ。
「別に、私は何か知っているわけではないのよ。」
そう前置きしてから。
「ただ…少し、不思議に思っただけ。」
その言葉が、静かな広間に落ちる。
「イェンミン様は、あの子が来るまで、誰かにあそこまで関心を向ける方ではなかったでしょう?」
弟子たちの間に、かすかなざわめきが起こった。
それは、誰もが薄々感じていたことだった。
ジンランがこの館へ来てから。
イェンミンは、彼女に自ら修行をつけるようになった。
傷つけば気にかけ。
迷えば言葉をかけ。
誰かに責められれば、彼女の前に立った。
以前のイェンミンを知る者ほど、その変化は不自然に映っていた。
「…それは、確かに。」
誰かが、小さく呟いた。
ヤーシンは、その声を聞き逃さなかった。
「でしょう?」
唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
「私はね…あの子が何か、特別な術を使っているのではないかと思っているの。」
「特別な術?」
「ええ。」
ヤーシンは、声を少しだけ低くした。
「人の心に入り込む術。」
その瞬間。
広間にいた者たちの表情が変わった。
「まさか…」
「そんな術が…?」
「もちろん、証拠があるわけではないわ。」
ヤーシンは、すぐにそう付け加えた。
「でも…考えてみて。」
彼女の視線が、ゆっくりと弟子たちを見回す。
「何も知らない村娘だった子が、突然この館へ連れて来られた。そして今では、イェンミン様の傍にいる。誰よりも近くで。…大切にされている。」
最後の言葉だけが。
ほんのわずかに、強く響いた。
ヤーシン自身、その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
けれど。
その痛みを悟らせることはなかった。
「もし、あの光そのものが術だったとしたら?」
「…」
「もし、人の心を惹きつけるための力だったとしたら?」
誰も、すぐには否定できなかった。
ジンランが持つ力は、あまりにも未知だった。
だからこそ、恐れる者もいた。
理解できないものは、恐怖を生む。
そして恐怖は―― いつしか疑念へと変わっていく。
「…イェンミン様を、惑わせているということか?」
誰かが、そう呟いた。
ヤーシンは答えなかった。
ただ、否定もしなかった。
それだけで、十分だった。
噂は、その日のうちに館の中へ広がった。
――ジンランは、普通の癒しの術を使っているのではない。
あの光には、人の心を操る力がある。
イェンミン様を自分のものにするため、何か裏の術を使っている。
あの村娘は、師を惑わせている。
誰が最初に言い始めたのか。
いつの間に、どこまで話が膨らんだのか。
もう誰にも分からなかった。
ただ。
一度生まれた噂は、闇の中を這うように館の隅々まで広がっていった。
翌朝。
ジンランが廊下で弟子たちとすれ違ったときだった。
「…おはようございます。」
以前なら、誰かが小さく挨拶を返してくれた。
あるいは、修行について話しかけてくる者もいた。
けれど、その日は違った。
ジンランが声をかけた瞬間。
弟子たちの会話が、ぴたりと止まった。
「…」
誰も答えない。
ジンランは、少しだけ首を傾げた。
「…?」
自分が何かしたのだろうか。
そう思った。
けれど、誰も目を合わせようとしない。
やがて、一人の弟子が小さく息を吐いた。
「…行こう。」
それだけ言って、彼らは、ジンランの横を通り過ぎていった。
残されたジンランは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
何かがおかしい。
けれど。
何がおかしいのかは、まだ分からない。
そんな日が何日か続いた。
食事の時間。
修行の合間。
廊下を歩いているとき。
ジンランが近づくと、会話が止まる。
誰かが、視線を逸らす。
そして、彼女が少し離れると。
背後から、小さな声が聞こえる。
「…本当に、あの子なの?」
「知らないわよ。」
「でも、イェンミン様の態度…変わったでしょう?」
「近づかない方がいいんじゃない?」
ジンランの足が、止まった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
聞こえなかったふりをした。
何も聞いていないふりをして、そのまま歩こうとした。
けれど。
「…呪われるぞ。」
誰かの声が、背後から聞こえた。
ジンランの身体が、強張る。
「イェンミン様に取り入るために、あの光を使ったらしい。」
「人の心を操る術なんじゃないか?」
「だから、あんなに特別扱いされてるんだろ。」
その言葉に、ジンランは、ゆっくりと唇を噛んだ。
違う。
そんなこと、していない。
イェンミンを操ったことなどない。
自分の力を、誰かを支配するために使ったことなど一度もない。
言わなければ。
ちゃんと説明すれば、分かってもらえるかもしれない。
ジンランは振り返った。
「あの…」
声をかけた瞬間。
弟子たちは、一斉に彼女を見た。
その視線にジンランの言葉が止まった。
そこにあったのは、怒りではなかった。
嫌悪とも、少し違った。
恐れだった。
自分という存在を。
自分の持つ力を。
彼らは恐れている。
そのことを理解した瞬間。
ジンランは、何も言えなくなった。
「…違います。」
ようやく。
それだけを口にした。
「私は…そんなこと、していません。」
誰も答えない。
「私の力は…ただ、人を助けたくて…」
声が、少しずつ小さくなる。
誰かの表情が、わずかに揺れた。
けれど。
誰も、彼女の言葉を信じるとは言わなかった。
そして、弟子たちは、ジンランから離れていった。
一人。
また一人と、その場から去っていく。
ジンランは、静かな廊下に一人残された。
窓の外には、薄い雲が広がっている。
いつもと変わらない景色。
館も。
空も。
何も変わっていない。
それなのに、自分だけが、急に知らない場所へ置き去りにされたような気がした。
胸の奥が痛む。
けれど。
泣きたくはなかった。
ここで泣いたら、自分が弱いことを認めてしまうような気がした。
だから、ジンランは、ゆっくりと息を吸った。
そして。
誰もいない廊下を歩き出す。
光を持つ者ほど。
闇の中では、目立つ。
目立つということは。
時に、孤独になるということだった。
そして。
自分の知らないところで、勝手に意味を与えられていく。
――私は、何もしていないのに。
その想いだけが、胸の奥に、小さく残った。
それでも。
あの夜。
救うことのできた命があった。
その事実だけは、誰に何を言われても、変わらない。
だからこそ、彼女は何も言い返さず、静かに、その痛みを飲み込んだ。
けれど――
一人になる時間が増えるたび。
胸の奥に残る寂しさは、少しずつ大きくなっていった。
そして。
館のどこかで、その様子を、静かに見つめている者がいた。
ヤーシンだった。
彼女は、誰もいない廊下の先を歩いていくジンランの背中を眺めていた。
小さな背中。
少しだけ、俯いている。
いつもなら、誰かを見れば微笑み、困っている人がいれば手を差し伸べる。
そんなジンランが、今は、一人だった。
その姿を見つめながら――
ヤーシンの唇が、ゆっくりと歪んだ。
まるで、待ち望んでいたものをようやく手に入れたかのような、不気味な笑みだった。
「…イェンミン様に取り入ろうとするから、いけないのよ。」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
その声に、先ほどまでの苛立ちはなかった。
ただ――冷たい愉悦だけがあった。
何も知らない村娘。
ある日突然、イェンミンに連れてこられた、ただの娘。
それなのに。
イェンミンに認められ。
イェンミンに気にかけられ。
そして今では――あの人の心にまで、入り込もうとしている。
「…身の程を知るべきだわ。」
ヤーシンの瞳が、ゆっくりと細められる。
胸の奥で、何かが蠢いていた。
それはもう、ただの苛立ちではなかった。
嫉妬。
憎悪。
そして―― ジンランという存在そのものを、自分の前から消し去りたいという、暗く歪んだ感情。
それらは、静かに。
けれど確実に。
ヤーシンの心を蝕み始めていた。
そして―― その黒い感情は、そこで止まることはなかった。
夜毎。
館の誰もが眠りについたあと。
ヤーシンは、一人、誰にも知られることのない密室で、闇の儀式を繰り返していた。
灯りはない。
床には、黒い紋様が描かれている。
その中央には、一枚の呪符。
――ジンランを貶めるための呪い。
ヤーシンは、自らの指先を静かに傷つけた。
ぽたり。
赤い雫が、呪符の上へ落ちる。
一滴。
また一滴。
血が染み込むたび、黒い紋様がゆっくりと蠢き始める。
「…あんたなんて。」
ヤーシンの唇が、歪んだ。
「闇に飲まれてしまえばいいのよ…」
その声には、もはや迷いなどなかった。
長い年月をかけて積み上げてきた誇りも。
師への忠誠も。
弟子としての理性も。
すべてが、黒い感情の底へ沈んでいく。
嫉妬はいつしか憎しみへと変わり。
憎しみは、やがて、呪いへと姿を変えていた。
そして気づかぬうちに――
ヤーシン自身の魂こそが。
誰よりも深く、その闇に、喰われ始めていた。
一方、ジンランは、なかなか眠れずにいた。
布団に横になって目を閉じても、意識だけが冴えている。
昼間の出来事が、何度も何度も頭の中を巡った。
廊下ですれ違う弟子たちの視線。
自分が近づくと、途端に途切れる会話。
背後から聞こえてくる、ひそひそとした声。
――呪われるぞ。
――イェンミン様に取り入るために、光を使ったらしい。
思い出すたびに、胸の奥が小さく痛んだ。
ジンランは寝返りを打った。
薄暗い部屋の中で、窓から差し込む月明かりが、床の上に細い帯を作っている。
静かだった。
館全体が眠りに落ちているようだった。
けれど。
ジンランの心だけは、いつまでも眠ることができなかった。
弟子たちに距離を置かれていることが、苦しかった。
自分が何をしても、疑いの目を向けられることも。
けれど――
本当に苦しいのは、それだけではなかった。
もっと深いところに。
自分でも正体の分からない感情が、ずっと渦巻いている。
ジンランは胸元に手を当てた。
心臓が、静かに、けれど確かに鼓動している。
「…私は…」
小さく呟く。
声にしたところで、答えが返ってくるわけではない。
それでも。
今は、誰かに尋ねずにはいられなかった。
「…イェンミン様は…何を考えているの?」
その名を口にしただけで、胸の奥がざわめいた。
自分の力を見つけてくれたこと。
自分を弟子に迎えたこと。
何度も手を差し伸べてくれたこと。
けれど―― あの人が、本当は何を思っているのか。
ジンランには、分からなかった。
「私は…本当に、イェンミン様の傍にいたいの…?」
問いかけた瞬間。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
すぐに答えが出てくると思っていた。
けれど――出てこない。
傍にいたい。
そう思っているはずだった。
あの人の傍にいれば、安心する。
あの人に必要とされれば、嬉しい。
なのに。
その「安心」の奥に、別の感情が潜んでいることに気づいてしまった。
――怖い。
ジンランの指先が、かすかに震える。
「…逆らうことが、怖いだけなんじゃ…」
言葉にした途端、自分自身が恐ろしくなった。
もし、イェンミンの望まないことをしたら。
もし、彼のもとを離れたいと言ったら。
あの人は――どうするのだろう。
自分は、どうなってしまうのだろう。
「…分からない…」
声が震えた。
傍にいたいのか。
それとも、離れることが怖いだけなのか。
守られているのか。
それとも――縛られているのか。
その境界さえ、もう分からなくなっていた。
そして、ふと。
別の恐怖が胸をよぎった。
――もし、私がいなくなったら。
その瞬間、イェンミンの姿が脳裏に浮かぶ。
あの静かな青い瞳。
誰にも弱さを見せない横顔。
もし自分が離れたら。
あの人は、どうなってしまうのだろう。
「…イェンミン様…」
名前を呼ぶだけで、胸が痛んだ。
自分がいなくても、あの人はきっと生きていける。
そう思うはずなのに。
なぜか、それを想像することができなかった。
自分が離れてはいけないような気がする。
自分が傍にいなければならないような気がする。
その想いが、いつから自分の中に生まれたのかも分からない。
ジンランは両手で胸元を押さえた。
息が苦しい。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていく。
傍にいたい。
離れたい。
怖い。
それでも、離れたくない。
守ってほしい。
けれど、自分もあの人を守りたい。
いくつもの感情が絡まり合って、自分の本当の気持ちがどこにあるのかさえ見えなくなっていく。
「…私は…何がしたいの…?」
その問いに、答えは返ってこなかった。
ただ―― 堪えていた涙が、ぽろぽろと頬を伝った。
ジンランは震える唇を噛みしめ、両手で顔を覆った。
イェンミンが怖いのか。
それとも――
いつの間にか、自分自身が何を望んでいるのか分からなくなってしまったことが、一番怖いのか。
分からない。
何も、分からない。
ただ、涙だけが止まらなかった。
涙を拭いながら、ジンランはゆっくりと目を閉じた。
もう考えることに疲れてしまった。
少しだけでも、何も考えずに眠りたかった。
そう願った瞬間だった。
――闇の奥から。
かすかな声が聞こえた。
『…闇に触れても、光を忘れるな。』
「…え?」
目を開ける。
けれど、部屋には誰もいない。
聞き間違いだろうか。
ジンランは身体を起こした。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
風の音すらない。
「…誰…?」
そう呟いた瞬間。
視界が、ふっと白く滲んだ。
身体が沈んでいくような感覚。
足元が消え。
部屋の壁も。
天井も。
月明かりも。
すべてが遠ざかっていく。
気づけば――
そこには、白い霧が広がっていた。
何もない。
どこまでも続く、静かな白。
ジンランは、不安そうに周囲を見回した。
「ここは…?」
声を出すと、霧の向こうへ吸い込まれるように消えていく。
一歩。
恐る恐る、前へ進む。
そのときだった。
白い霧の向こうに何かが見えた。
人影。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
最初は輪郭しか見えなかった。
けれど、霧が少しずつ晴れていくにつれて、その姿がはっきりとしていく。
白衣を纏った、一人の男。
長い髪が静かに風に揺れている。
その佇まいには、不思議なほどの静けさがあった。
その人の周囲だけ、淡い光が満ちている。
そして――
金色の光を帯びた瞳が、まっすぐにジンランを見つめていた。
その瞳を見た瞬間。
ジンランの胸が、大きく鳴った。
初めて見るはずなのに。
なぜか、ずっと昔から知っているような気がした。
懐かしい。
けれど。
どうして懐かしいのかは、分からない。
ただ、その人の姿を見つめているだけで、胸の奥にあった不安が少しずつほどけていく。
「…あなたは…?」
問いかける。
男は答えなかった。
ただ、静かにジンランを見つめている。
その眼差しには哀しみがあった。
長い時を越えてきた者だけが持つような、深い哀しみ。
けれど、その奥には確かな優しさがあった。
やがて。
男の唇が、ゆっくりと動いた。
『お前は、光を灯す者だ。』
その声を聞いた瞬間。
ジンランの胸の奥が、強く震えた。
「…光…?」
男は、静かに頷く。
『奪うために、生まれたのではない。』
白い霧の中に、その声が静かに響く。
『闇に迷う者の中に、光を見いだし――』
一歩。
男が、こちらへ歩み寄る。
『その道を照らすために、お前は在る。』
その言葉を聞いて、ジンランの目から、再び涙がこぼれた。
どうしてだろう。
何も知らないはずなのに。
その言葉が、まるで自分の魂の奥深くに直接触れてくるようだった。
ずっと探していた何かを。
忘れていた何かを。
この人の言葉が、ひとつずつ呼び起こしていく。
「…私は…」
何を言えばいいのか分からない。
けれど、聞かなければならない。
この人が誰なのか。
なぜ自分の前に現れたのか。
どうしてこんなにも、自分の心を知っているのか。
ジンランは、必死に声を絞り出した。
「あなたは…誰なのですか…?」
男の瞳が、ほんのわずかに細められる。
その瞬間。
金色の光が、さらに強く輝いた。
『この声を――』
声が遠ざかっていく。
「待って…!」
ジンランが手を伸ばす。
けれど指先は、何も掴めない。
男の姿が、白い光の中へ溶けていく。
『忘れるな。』
「あなたは誰なの…!」
もう一度、叫ぶ。
「私を…知っているの…?」
答えは返ってこなかった。
次の瞬間――
白い光が、弾けた。
ジンランは、勢いよく目を開いた。
見慣れた天井。
薄暗い部屋。
窓の外から差し込む、夜明け前の淡い光。
夢だった。
そう思うのに。
胸の奥には、まだあの声が残っている。
『闇に触れても、光を忘れるな。』
ジンランは、ゆっくりと胸元へ手を当てた。
心臓が、いつもより強く鼓動している。
「誰なんだろう…」
答えは分からない。
けれど、胸の奥に小さな灯火がともったような気がした。
ジンランは、静かに夜明けを待った。
そして翌朝。
夜明けの気配が、まだ薄い霧の向こうにあった。
館の中は静まり返り、窓から差し込む朝の光も、まだ淡く、どこか頼りない。
そんな静寂の中で――
ジンランの周囲には、不思議な光の粒が舞っていた。
淡く、白く、そしてどこか金色を帯びた光。
それは彼女の吐息に合わせるようにふわりと浮かび上がり、やがて消えていく。
本人は、そのことに気づいていなかった。
ただ、胸の奥に残る夢の余韻を抱えたまま、ぼんやりと窓の外を見つめている。
――闇に触れても、光を忘れるな。
目を覚ましてからも、その言葉だけが消えなかった。
誰だったのだろう。
あの白い衣を纏った男は。
なぜ、自分にあんな言葉を――
考えれば考えるほど、胸の奥がざわめいた。
そのときだった。
「…誰に、触れた?」
低い声が、静寂を切り裂いた。
ジンランの肩が、小さく震える。
振り返ると、そこにはイェンミンが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
ただ、その瞳だけが、いつもとは違う色を帯びていた。
ジンランの周囲に漂う光の粒を見つめる、その目。
細められた瞳の奥には、警戒とも、不安ともつかない感情が沈んでいる。
「…イェンミン様…?」
イェンミンは答えなかった。
ただ一歩、彼女へ近づく。
また一歩。
その足音が近づくたびに、ジンランの胸が不安に揺れた。
「誰に、触れた?」
もう一度。
今度は、先ほどよりも低い声だった。
ジンランは息を呑んだ。
「…夢を、見ました。」
「夢?」
「はい…」
ジンランは少し迷った。
話していいのだろうか。
あの白い男のことを。
けれど、隠すこともできなかった。
「白い…光の中に、誰かがいて…」
その言葉を聞いた瞬間。
イェンミンの表情が、わずかに強張った。
「…誰だ。」
「分かりません。」
ジンランは首を横に振る。
「名前も…何者なのかも。ただ…私に、『闇に触れても、光を忘れるな』と…」
――その瞬間だった。
イェンミンの手が伸びた。
細い指が、ジンランの頬を掴む。
優しく触れることの多かったその手が、今は逃げ道を塞ぐように彼女の顔を捉えていた。
「その光を忘れろ。」
「…え?」
「私以外のものを、心に入れるな。」
ジンランの瞳が揺れる。
「でも、私は…」
何かを伝えようとした。
あの夢が何だったのか知りたい。
あの声が何を意味していたのか知りたい。
そして何より――
自分の中に生まれた、この小さな違和感を、イェンミンにも分かってほしかった。
けれど。
言葉になるより先に、イェンミンの顔が近づいた。
あまりにも突然で、ジンランは息を止める。
彼の瞳には、いつもの静かな闇とは違うものがあった。
恐れ。
焦り。
そして――失うことへの、強い執着。
「お前は私のものだ。」
低く、囁くような声。
「お前の光は…私の闇とともに在れ。」
その声音は甘かった。
だからこそ、ジンランの胸を深く締めつけた。
守られているようにも聞こえる。
愛されているようにも聞こえる。
けれど、その言葉の奥には――
自分の知らない場所へ行くことを許さない、深い闇があった。
ジンランは何も言えなかった。
ただ、頬を伝って、一筋の涙が落ちる。
悲しいのか。
嬉しいのか。
怖いのか。
自分でも分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――縛られているようで、苦しい。
それでも。
この人の傍にいなければいけない。
この人の孤独を、私が癒すことができるのだろうか。
この人が抱えている闇を、少しでも温めてあげることができるのだろうか。
そして――
私は、この人を心の底から愛し続けることができるのだろうか。
今はまだ 、愛していると思う。
けれど、この先もずっと同じ気持ちでいられるのかは分からない。
愛しているからこそ、怖かった。
この人を救いたいと思う自分と、 この人の闇に飲み込まれてしまいそうな自分。
その二つの間で、ジンランの心は揺れていた。
ジンランは、そっと目を伏せた。
胸の奥に、昨夜の声が蘇る。
――闇に触れても、光を忘れるな。
その言葉が、今は遠い記憶のように聞こえた。
けれど、完全に消えてしまったわけではない。
小さな、小さな光が、まだ、彼女の魂の奥で灯っている。
その光を覆い隠すように、イェンミンの影が彼女を包み込む。
光と闇。
愛と執着。
救いと呪縛。
その境界は、もうほとんど見えなくなっていた。
ジンランの魂は、その狭間で静かに揺れていた。
そして――
遠い空の向こう。
雲間から差し込む白い光の中で、一対の金色の瞳が、静かに彼女を見つめていた。
まるで。
彼女が再び光を見いだす、その時を待つかのように。




