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冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


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6/21

その光を闇の手に

夜明け前――

まだ太陽の姿すら見えない空の下、館の一室には、深い静寂が沈んでいた。

窓の外には、夜の闇がまだ色濃く残っている。

灰色の雲に覆われた空の向こうから、夜明けの気配だけが、わずかに滲み始めていた。


部屋の中には、いくつもの燭台が置かれている。

揺らめく炎が壁に淡い影を落とし、静かな室内をぼんやりと照らしていた。


香炉からは、かすかな香草の香りが漂っている。

冷たい朝の空気と混ざり合い、その香りは静かに部屋の隅々まで広がっていた。


その部屋の中央に、一人の男が横たわっていた。

村人だった。


傷ついた身体は冷たく、顔からはすっかり血の気が失われている。

胸の上下はあまりにも弱い。

このまま放っておけば――

あとどれほど生きられるのかさえ分からなかった。


ジンランは、その傍らに膝をついていた。

掌を胸元に当て、苦しそうな村人の顔をじっと見つめる。


助けなければ。

その思いだけが、胸の奥に強く浮かんでいた。


少し離れた場所には、イェンミンと数人の弟子たちが立っている。


今回の依頼は、近くの村から持ち込まれたものだった。

傷つき、死に瀕した村人を助けてほしい――

けれど、提示された依頼料は決して高いものではなかった。


「…依頼料も少ない。」

静寂を破ったのは、イェンミンの声だった。


低く、淡々としている。

「わざわざ真面目に受ける必要などない。」


その言葉に、ジンランの指先がわずかに震えた。

ゆっくりと振り返る。


「ですが…」

言いかけて、言葉を飲み込む。


イェンミンの青い瞳は、いつものように静かだった。


目の前で一人の人間が死にかけているというのに――

まるで、それが自分とは何の関係もないことであるかのように。


「まだ、死んではいないのでしょう?」

ジンランは小さく尋ねた。


「…そうだな。」


「なら…」

助けられるかもしれない。

そう言おうとした。

けれど。


イェンミンはわずかに眉を動かすだけで、それ以上の言葉を続けようとはしなかった。

その態度に、ジンランは唇をかすかに噛んだ。


目の前の村人へ視線を戻す。


青白い顔。

冷たくなり始めた指先。

浅く、今にも途切れそうな呼吸。


――助けなければ。

胸の奥から、強い感情が湧き上がる。


理由などなかった。

依頼料がいくらなのか。

この人がどんな人間なのか。

自分にとって何の関係もない人なのか。

そんなことは、どうでもよかった。


ただ――

目の前で苦しんでいる人がいる。


そして、自分には何かできるかもしれない。

それだけだった。


ジンランはゆっくりと、掌を村人の胸元へかざそうとした。

その瞬間。


「…しなくてよい。」

低い声とともに、その手が、止められた。


「…っ」

ジンランは息を呑む。


イェンミンだった。

いつの間に近づいたのか。


彼の長い指が、ジンランの手首を静かに掴んでいた。

強くはない。

けれど、逆らうことを許さない力がそこにはあった。


「イェンミン様…」


「お前がする必要はない。」

淡々とした声。

「適当に術をかけておけばよい。」


「でも…」


ジンランは、彼の手を見つめた。


「それでは、この人が助からないかもしれません。」


「助からなければ、それまでだ。」

あまりにも簡単に告げられた言葉。


ジンランの胸が、きゅっと痛んだ。


「…それでも。」

小さな声だった。


けれど。

その瞳には、これまでとは違う強さがあった。


イェンミンがわずかに目を細める。


「ジンラン。」


「…助けられるかもしれないのに。」


ジンランは、まっすぐ彼を見つめた。


「何もしないなんて…私にはできません。」


部屋の中が、静まり返った。

弟子たちもまた、息を潜めている。


師であるイェンミンに。

あの闇の主に。

ジンランが初めて、自分の意思をぶつけた瞬間だった。


イェンミンはしばらく、何も言わなかった。

ただ、自分を見つめるジンランの瞳を、じっと見返している。


そこには、恐れがなかった。

いや。

恐れていないわけではない。


彼女は、自分がイェンミンに逆らっていることを分かっている。

それでも、目の前の人を助けたいという思いの方が強かった。


そのことに気づいたとき。

イェンミンの胸の奥で、何かが小さく揺れた。


「…勝手にしろ。」


やがて、掴んでいた手首から、ゆっくりと指が離れる。


ジンランは一瞬だけ驚いたように彼を見つめた。

そして、すぐに村人へ向き直った。


「…大丈夫です。」 


誰に言った言葉なのか。

村人に。

それとも、自分自身に。

ジンランにも分からなかった。


ただ、彼女は静かに息を吸った。

そして、震える掌を村人の胸元へかざす。


「…どうか。」


目を閉じる。


「まだ…ここにいてください。」


その瞬間だった。

ジンランの掌から、淡い光が、静かにこぼれ落ちた。


「…っ」

弟子の一人が息を呑む。


それは、これまで彼らが見てきた闇の術とはまったく違っていた。


黒く。

冷たく。

相手を縛り、蝕む力ではない。


淡く。

柔らかく。

まるで夜明け前の空に、初めて差し込む光のようだった。


光はジンランの指先からゆっくりと広がり、村人の身体を優しく包み込んでいく。

傷ついた身体。

冷たくなった肌。

弱りきった魂。

そのすべてを包み込むように。


部屋を満たしていた薄暗がりが、わずかに押し退けられた。


「…なんだ、あれ。」

誰かが呟いた。


ジンラン自身も、目を見開いていた。


自分の掌から溢れ出している光。

それは、彼女の意思とは別に。

まるで最初からそこに存在していたかのように。


静かに。

けれど確かに。

村人の身体へ流れ込んでいく。


村人の指先が、わずかに動いた。


ジンランの肩が揺れる。

光が、さらに強くなる。


その瞬間。

それまでほとんど動かなかった村人の胸が――

ゆっくりと。

小さく。

上下した。


「…っ…」

掠れた息が、静かな部屋に響く。


一度。

そして、もう一度。


「…息を…!」

弟子の一人が声を上げた。

「息をしている…!」


「…生き返った…?」

誰かが呟く。


「いや…まさか…」


弟子たちの間に、ざわめきが広がっていく。


「こんな力を持つ人…イェンミン様以外、見たことがない。」


「傷を癒すだけじゃないのか…」


「弱った命そのものを…引き戻したのか?」


「神聖な力だ…」


そして、誰かが恐れるように呟いた。

「…まるで、聖女のようだ。」


その言葉にジンランは、はっと顔を上げた。


「…聖女?」


そんな言葉を、自分に向けられたことなど一度もなかった。

自分はただ助けたかっただけなのに。


そのとき。

ジンランの視線が、一人の人物へ向けられる。

イェンミンだった。


彼は何も言わず。

ただ、ジンランを見つめていた。


青い瞳。

その奥に。

これまでジンランが見たことのない光が宿っている。


驚き。

興味。


そして――

言葉にできないほど、深い何か。


その視線に気づいた瞬間、ジンランの胸が、わずかに強く鳴った。


「…イェンミン様。」


慌てて、立ち上がる。


「すみません…」


イェンミンの表情が、わずかに動く。


「…勝手なことをしてしまいました。」


自分が命令に背いたことを思い出した。

せっかく救えたというのに。

今になって、不安が胸へ押し寄せてくる。


「私…」


けれどイェンミンは、怒るどころか、ふっと口元に笑みを浮かべた。


「…ほう。」


その笑みは。

どこか愉しげで。


そして。

どこか危うかった。


「生を取り戻させる力…か。」

低い声が、静かな部屋に響く。


イェンミンはゆっくりと、ジンランへ歩み寄った。

弟子たちが、自然と道を開ける。


「…呪いよりも、よほど根が深い。」


「…え?」


ジンランは戸惑った。

その言葉の意味が分からない。


イェンミンは、彼女の前で足を止める。


「呪いは、相手を壊す。」


青い瞳が、静かに細められる。


「だが、お前の力は違う。」


彼の視線がジンランの掌へ落ちる。

先ほどまで光を放っていた、その手。


「壊れかけたものを繋ぎ止める。消えかけた命を、この世へ引き戻す。…そんな力。」


彼は、小さく笑った。


「闇を扱う者にとっては、呪いなどよりも厄介だ。」


ジンランは、さらに戸惑った。


「どういう…ことですか?」


イェンミンは答えなかった。


ただ彼女の手を、ゆっくりと取る。

長い指がジンランの指先を包み込む。


「…お前の光があれば。」

その声音が、少しだけ低くなった。

「闇すらも、従えることができるかもしれん。」


ジンランの身体が、わずかに強張った。


「…イェンミン様。」


その言葉の奥に何か自分にはまだ理解できないものがある。

そう感じた。


イェンミンは、繋いだ手を離さない。


「闇と光は、相反するものだと思われている。けれど、それは違う。」


彼はジンランの掌を見つめたまま、静かに続けた。

「闇があるから、光は際立つ。光があるから、闇はその形を知る。」

その言葉はまるで彼自身が、長い時間をかけて辿り着いた答えのようだった。


「そして…」


イェンミンの瞳が、ジンランへ向けられる。


「お前の光は、私の闇の一部だ。」


ジンランの胸に淡い痛みが走った。


なぜだろう。

その言葉はどこか嬉しい。

自分を必要としてくれているようにも聞こえる。


けれど。

同時に何か大切なものを、静かに絡め取られているような感覚があった。


「イェンミン様…それは…」


「怖いか?」


突然そう尋ねられた。

ジンランは答えられなかった。


怖くない。

そう言えば、嘘になる。


目の前にいるイェンミン。

彼の闇。

その奥にある孤独。

それらに触れるたび自分の心が、少しずつ彼へ近づいていることに気づいていた。


だから、本当に恐れているのは彼の闇ではない。

その闇に自分自身が、包まれてしまうことだった。


「私は…」

ジンランの唇が、わずかに震える。

「…誰かを助けるために、この力を使いたいです。」


その言葉にイェンミンは、しばらく黙っていた。


窓の外では夜明け前の闇が、少しずつ薄れていく。

灰色だった空がゆっくりと、淡い光へ変わっていく。


イェンミンは、その光を背にして立っていた。

そして、静かに笑った。


「…そうか。」

それ以上、何も言わなかった。

けれど、繋いだままの手だけは、なかなか離そうとはしなかった。


ジンランは、まだ知らなかった。

この日。

自分が誰かの命を救ったことで、イェンミンの中に、新たな欲望が芽生えたことを。


それは、彼女の力を恐れる感情ではなかった。

むしろ、その逆だった。


欲しい。

自分の傍に置きたい。

誰にも触れさせたくない。

彼女の光を。

彼女の力を。


そして――

いつかは、彼女自身のすべてを。


イェンミンの青い瞳の奥で、深い闇が、静かに揺れていた。

それはまだ、愛とも執着とも呼べないほど曖昧なものだった。


けれど。

一度生まれたその感情は、夜明けの光の中でも消えることなく。

静かに。

そして確かに。

彼の心の奥へと根を張り始めていた。

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