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冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


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光を抱く闇

月が、灰色の雲の切れ間からわずかに顔を覗かせていた。


月明かりは儀式の間までは届かず、古びた石床には、いくつもの燭台が揺らめくばかりだった。


部屋の中央には、黒い布を敷いた祭壇が置かれている。

その上には見慣れない呪具が並び、細く刻まれた術式が床一面に広がっていた。


香炉から立ち上る香草の煙が、薄暗い室内をゆっくりと漂っている。

甘く、どこか苦い匂い。

冷たい夜気と混ざり合ったそれが、肺の奥まで染み込んでくるようだった。


ジンランは、祭壇の前に立ったまま、じっと自分の手を見つめていた。

その手には、一本の黒い呪具が握られている。

今日、彼女が初めて手にするものだった。


これまでの修行では、薬草の扱いや魂視、そして人の心に触れて癒す術を中心に学んできた。

闇に触れることそのものには、もう少しずつ慣れてきている。


けれど――

今日から学ぶのは、それとはまったく違う。


人を傷つけるための術。

誰かの命を奪うことさえできる、呪い。

ジンランにとって、これが初めての呪術だった。


無意識に、呪具を握る指へ力が入る。

掌に、冷たい感触が食い込んだ。


周囲には、同じ修行に励む弟子たちが立っている。

誰も口を開かない。

ただ、興味深そうにジンランの様子を見つめていた。


その中でも――

ひときわ強い視線を向けている者がいた。

ヤーシンだった。


腕を組み、壁にもたれながら、口元に薄い笑みを浮かべている。

その瞳には、期待というよりも、失敗を待ち望むような色があった。


「緊張してるの?」

ヤーシンが、静かに口を開く。


ジンランは答えなかった。

視線だけを、手の中の呪具へ落とす。


「無理もないわね。」

ヤーシンは小さく笑った。

「何しろ、あなたにとっては初めてだもの。」


その言葉に、ジンランの肩がわずかに強張る。


これまで何度も厳しい修行を受けてきた。

暗闇の中で自分自身と向き合い、魂視によって他者の感情に触れ、闇の力を指先に宿すこともできるようになった。


けれど、それらはすべて――

誰かを救うために使うことができた。


今回だけは違う。

術を成就させるためには、相手を傷つけたいという意思が必要になる。


憎しみ。

怒り。

殺意。

それらを自らの心の中から引き出し、闇の力と結びつけなければならない。


ジンランは、そのことを教えられたときから、胸の奥に小さな不安を抱えていた。

自分に、それができるのだろうか。


「ほら。」


ヤーシンが祭壇を指差す。


「やってみなさいよ。」

声は穏やかだった。

けれど、その奥には明らかな嘲りが滲んでいる。


「難しいことじゃないわ。」

ヤーシンは、まるで簡単な作業を教えるかのように言った。

「決められた言葉を唱えるだけ。」


そして、少しだけ声を落とす。

「そのあと、自分の心の中に“憎しみ”を呼び起こすの。」


「…憎しみ。」

ジンランが、小さく繰り返す。


「そう。」

ヤーシンの唇が、薄く笑った。

「誰でも一人くらい、憎い相手がいるでしょう?」


その言葉を聞いた瞬間。

ジンランの胸の奥に、いくつかの記憶が浮かんだ。


幼い頃の自分。

病に苦しむ母。

貧しさに耐えながら、それでも生きてきた日々。


自分を傷つけた人。

理不尽な言葉を浴びせられたこと。

悔しかったこと。

悲しかったこと。


――けれど。

それでも、誰かを心の底から憎んだことはなかった。


傷ついたことがないわけではない。

何度も泣いた。

何度も悔しさを飲み込んだ。


それでも彼女は、最後には赦すことを選んできた。

憎しみを抱え続けるよりも、手放すことを選んできた。

それが、彼女という人間だった。


ジンランは目を閉じた。

言われた通りに、憎しみを探す。

心の奥深くへ潜っていく。


けれど、ない。

どれだけ探しても、呪いに必要なほど濃い闇が見つからない。


代わりに浮かんでくるのは、母の笑顔だった。


幼い自分の頭を撫でる、優しい手。

病床にありながら、「大丈夫よ」と微笑んでくれた声。

そして、自分をここまで生かしてくれた人への愛情。


胸の奥に広がっていくのは、憎しみではなかった。

温かさだった。


「…違う。」

ジンランは小さく呟く。


もう一度、目を閉じる。

今度は無理やり怒りを思い出そうとした。

けれど、どれほど力を込めても、心の底から湧き上がってくるものはない。


呪具だけが、手の中で冷たく沈黙している。


「…どうして…」

声が震える。


術式に沿って、震える唇から古い言葉を紡ごうとする。


「…」

けれど、一つ目の言葉すら出てこなかった。


喉が塞がったように、声が出ない。

何度息を吸っても、胸が苦しくなる。


「…っ」


ジンランは唇を噛んだ。


できない。

初めて挑む呪術だから、うまくできないのだと思いたかった。


けれど、違う。

これは技術の問題ではない。

自分の心そのものが、拒んでいる。


――人を、憎めない。

――人を、傷つけたいと思えない。


その事実を思い知らされた瞬間、ジンランの指から力が抜けた。

呪具が、大きな音を立てて床へ落ちる。


「…できません。」

ようやく出た声は、ひどく小さかった。


そのまま、ジンランはその場に膝をついた。


「…私には、できません…」


静寂が落ちる。

誰も何も言わない。


やがて――


「ふん。」

ヤーシンが鼻で笑った。


「やっぱりね。」


ジンランが顔を上げる。

ヤーシンは腕を組んだまま、冷たい目で彼女を見下ろしていた。


「そんな甘い心で、どうやってこの世界を渡るつもり?」


ジンランは、思わず息を呑んだ。


その言葉が胸に突き刺さり、何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。


そんなジンランの様子を見て、ヤーシンは小さく息を吐いた。

まるで、何も分かっていない子供を見るような目だった。


「癒すことができるだけじゃ、闇の力を扱えるとは言えないわ。闇の力って、そんなものじゃないのよ。」


ヤーシンは、床に落ちた術具へ手を伸ばした。

静かにそれを拾い上げる。


その動作に、ジンランは思わずはっとした。


ヤーシンは手の中の術具を一瞥すると、淡々と口を開いた。

「闇の力の本来の使い道っていうのはね、奪うこと、壊すこと、呪うことなのよ。」


そして、再びジンランへ視線を向ける。


「それができないなら…あなたは、ここでは何の役にも立たない。」


胸の奥を、鋭い刃で突き刺されたような痛みが走った。

ジンランは何も言い返せなかった。


自分には、人を癒す力がある。

そう信じていた。


イェンミンも、そう言ってくれた。

だからこそ、ここまで頑張ってこられた。


けれど――

人を救うだけでは、この世界では足りないのだろうか。

呪えない自分は、弱いのだろうか。


皆ができることを、自分だけができない。

その事実が、少しずつ自信を崩していく。


「お前には闇が似合わない。」

ヤーシンの言葉が、静かな部屋に響いた。

「ここは、お前の居場所じゃないわ。」


ジンランは、静かに俯いた。


零れそうになる涙を必死に堪える。

けれど、滲んだ涙で目の前の床は、もうぼんやりと歪んでいた。


――私は、ここにいていいの?


胸の奥に、初めてそんな疑問が生まれた。

そしてその疑問は、消えることなく、静かに彼女の心へ沈んでいった。


そのときだった。

それまで黙って二人のやり取りを見守っていたイェンミンが、静かに口を開いた。


「…やめろ、ヤーシン。」

低く、よく通る声だった。


その一言だけで、張り詰めていた空気がぴたりと止まる。


ヤーシンの動きが止まり、ジンランも息を呑んだ。

ゆっくりと振り返る。


そこには、少し離れた場所から二人を見つめているイェンミンの姿があった。


その青い瞳には、いつもの静けさが宿っている。

けれど、その奥には――わずかな怒りが滲んでいた。


これまで何も言わず、ただ見守っていた。

けれど、ヤーシンの言葉がジンランを傷つけるのを前にして、もう黙っていることはできなかった。


黒い衣を纏い、薄暗い儀式の間に静かに佇むその姿には、誰にも逆らうことを許さないような静かな威圧感が漂っていた。


そして、イェンミンはゆっくりとジンランのもとへ歩み寄る。

一歩。

また一歩。

その足音が、石床に小さく響く。


ジンランは立ち上がろうとした。

けれど、力が入らない。


自分が何もできなかったことが悔しくて。

ヤーシンに「ここはお前の居場所ではない」と言われたことが悲しくて。

俯いたまま、唇を噛みしめる。


その前に、イェンミンが立った。


「…顔を上げなさい。」

優しい声音だった。


ジンランは、ためらいながら顔を上げる。

視線が重なる。

その瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。


「すみません…イェンミン様…」

かすかな声が漏れる。


イェンミンは答えなかった。

ただ、震えている彼女の肩へ手を伸ばす。


そして――

そのまま、包み込むように引き寄せた。


「…っ」


ジンランの身体が小さく強張る。

けれど、離れようとはしなかった。


その腕の中は、不思議なほど静かだった。


先ほどまで胸を締めつけていた不安も、惨めさも、ほんの少しずつほどけていく。


イェンミンは、そんな彼女を抱いたまま、低く呟いた。

「お前は、呪えなくていい。」


ジンランの瞳が揺れる。


「でも…」


「無理に憎しみを作る必要などない。」


その言葉には、いつもの冷静さとは違うものがあった。

どこか、切実だった。


「お前には、お前にしか使えない力がある。」


イェンミンの指が、そっとジンランの頬に触れる。


「人の痛みに触れ、傷ついた魂を癒す力だ。」


ジンランは黙って彼の胸元に視線を落とした。


「それは、誰にでもできることではない。」


「…私は、ここにいてもいいのでしょうか。」

ようやく絞り出した声は、ひどく弱かった。


イェンミンの瞳が、わずかに細められる。


「当然だ。」

迷いのない返事だった。


「お前がいなくなれば…」

そこで、一瞬だけ言葉が止まる。


イェンミン自身、自分が何を言おうとしているのか確かめるように、ほんのわずかに目を伏せた。


そして、静かに続ける。

「…この場所は、ただの闇になる。」


その言葉に、ジンランの胸が大きく鳴った。


「だから…ここに残れ。」

たったそれだけの言葉だった。


けれど。

ジンランには、それが何よりも嬉しかった。


ここにいていい。

必要とされている。

自分にも、この場所にいる意味がある。

それを初めて、はっきりと与えてもらえた気がした。


「…はい。」


鼻の奥が、つんと痛んだ。

堪えていた涙がぽろぽろと頬を伝い、静かにこぼれ落ちていった。


イェンミンは、そんなジンランを腕の中から離そうとはしなかった。

ジンランもまた、気づけばそっとイェンミンの腕に身を寄せていた。


甘えるつもりなどなかった。

それなのに、その温もりに触れていると、つい身体の力が抜けてしまう。

胸の奥に、温かなものが広がっていく。


自分を救ってくれた人。

自分の力を見つけてくれた人。

そして今、自分がここにいることを望んでくれた人。

そのすべてが、ジンランの心を強く支えてくれているような気がした。


けれど――

彼女はまだ知らなかった。


「ここに残れ」という言葉の奥にあったのが、単なる師としての慈しみだけではなかったことを。


イェンミン自身もまた、いつの間にかジンランを失うことを恐れていた。

彼女が自分のもとを去ることを。

自分の目の届かない場所へ行ってしまうことを。

そして――他の誰かのもとへ行ってしまうことを。


それが愛なのか、執着なのか。

その境界は、まだ二人にも分からなかった。


そして、その光景を、少し離れた場所から見つめている者がいた。

ヤーシンだった。


何も言わない。

ただ、二人の姿を見つめていた。


イェンミンの腕に包まれるジンラン。

その肩に触れる手。


そして――

あの冷たい瞳が、ほんのわずかに柔らかくなっていること。

ヤーシンは、それを見逃さなかった。


これまで、長い年月を師の傍で過ごしてきた。

誰よりも彼の背中を追いかけてきた。


厳しい修行にも耐えた。

危険な術にも挑んだ。


いつか自分も、あの人の特別になれる。

そう信じていた。


けれど――

「…私には、そんな顔を見せたことなんて…」

声にならない言葉が、喉の奥で消える。


胸の奥が、じくじくと焼けるように痛んだ。

握りしめた手の中で、術具が掌に食い込んだ。


「どうして…」


自分でも気づかないうちに、指先へ力が入っていた。


「どうして、あの娘なの…?」


目の前の光景から目を逸らしたい。

なのに、逸らせない。


ジンランの存在が、ひどく目につく。

何も知らず、何もできないはずなのに――

ある日突然、師匠に連れてこられた、ただの村娘。


それなのに。

自分より後から来たその娘が、いつの間にかイェンミンの心の中へ入り込んでいる。


「…あの村娘の、何がそんなに特別なの?」

小さく呟いた。


もちろん、答えは返ってこない。

ただ、遠くで蝋燭の炎が揺らめく。


その光に照らされたイェンミンの横顔は、ヤーシンがこれまで見たことのないものだった。


優しい。

そんな言葉で片づけるには、あまりにも深い。

それが、何よりも苦しかった。


「…くだらない。」


ヤーシンは、ようやく視線を逸らした。


「ただの訓練よ。」

自分自身に言い聞かせるように呟く。


「情を交えるなんて…くだらないわ。」

声は平静を装っていた。

けれど、袖の中で握りしめた指は、細かく震えている。


「イェンミン様は、師としてあの娘を気にかけているだけ。」


そう思いたかった。

けれど、どれだけ言い聞かせても、胸の奥に浮かんだ疑念は消えてくれない。


――私ではなく。

――あの娘。

その事実が、ゆっくりと心を蝕んでいく。


やがて――

胸の奥に生まれた痛みは、別の感情へと姿を変え始めた。


嫉妬。

認めたくない。

そんな醜い感情を、自分が抱いているなど。


けれど、否定すればするほど。

目の前でイェンミンに大切にされているジンランの姿が、脳裏に焼きついて離れなくなる。


ヤーシンは、唇を噛んだ。


そして――


ほんの一瞬だけ。

その瞳の奥に、黒い影が差した。


――あの娘さえ、いなければ。


まだ、それは小さな思いだった。

本人さえ気づかないほど、かすかなもの。


けれど一度芽を出したその感情は、闇の中で静かに根を張り始めていた。


館が深い静寂に包まれた頃、イェンミンはいつものようにジンランを修行部屋へ呼んだ。


館の中は、すでに深い夜の静けさに包まれていた。


部屋にはいくつもの蝋燭が灯され、その小さな炎が壁に淡い影を揺らしている。

香炉から立ちのぼる白い煙は細く天井へ昇り、夜の冷たい空気に溶けていった。


ジンランは部屋の中央に座り、イェンミンが来るのを待っていた。


先ほどの出来事が、まだ胸の奥に残っている。


初めて挑んだ呪術。

術を成すことができなかった自分。

そして、それを責めるヤーシンの言葉。


――『お前には闇が似合わない。』

その言葉が、何度も頭の中を巡っていた。 


やがて――

音もなく扉が開いた。


「…待たせたな。」

低く落ち着いた声。


イェンミンだった。

彼はいつものように黒い衣を纏い、表情にはほとんど感情を浮かべていない。


けれど、ジンランには分かるようになっていた。


ほんのわずかな目の動き。

声の温度。

歩みの速さ。

そうした小さな変化のひとつひとつから、彼の心を感じ取れるようになっていた。


「…イェンミン様。」

ジンランが顔を上げる。


その瞳を見た瞬間――

イェンミンの足が、ほんのわずかに止まった。


呪術の前で怯えていた姿が脳裏に蘇る。

震える指。

青ざめた顔。


そして――

『お前は呪えなくていい。』

そう告げたときの、彼女の表情。


自分を見つめるその瞳に浮かんでいたのは、驚きだけではなかった。

そこには、安堵があり、信頼があり――

そして、わずかな愛情さえ感じられた。


それを思い出すだけで、胸の奥に奇妙な熱が生まれる。


イェンミンはゆっくりとジンランの前まで歩み寄った。


「今日のことを、気にしているのか。」


「…少しだけ。」


ジンランは俯いた。


「私には、闇の力が向いていないのでしょうか。」


その言葉を聞いたイェンミンは、しばらく黙ったままジンランを見つめていた。


その瞳に浮かぶものを確かめるように、やがてゆっくりと手を伸ばす。

長い指先が、彼女の頬をそっと撫でた。


「…そんなことを考える必要はない。」


温かな掌だった。

触れられた瞬間、ジンランの身体がわずかに震えた。


頬に触れた指先から、じわじわと熱が広がっていく。

胸の奥まで火照るような感覚に、ジンランは思わず息を止めた。


けれど―― そのとき、ジンランはふと思った。

――この人の瞳は、どうしてこんなにも寂しいのだろう。


いつも冷静で、何事にも動じない。

誰よりも強く、誰よりも恐れられている存在。


それなのに。

こうして近くで見つめると、その瞳の奥には、深い孤独が沈んでいる。

まるで、どれほど手を伸ばしても誰にも届かない場所に、ひとりで立ち続けているようだった。


ジンランは何も言わず、その瞳を見つめ返した。


その視線に触れた瞬間――

イェンミンの記憶の奥底から、遠い昔の声が蘇った。

『お前の闇が、人の心を惑わせている。』


そして、その言葉に続く自分の声。

『ならば…私がいなくなればいいということだな。』


『そういうことでは…』

最後まで聞くことなく、神々の座を去ったあの日。

あれ以来、イェンミンは自分が必要とされることを、どこかで諦めていた。


人々が闇を恐れるなら、それでいい。

誰かに愛される必要もない。

誰かに理解される必要もない。


そう思って、山奥へ身を隠した。

闇に身を置き、呪術を極め、誰にも心を開かずに長い時を過ごしてきた。


けれど――

ジンランと出逢ってしまった。


母を救ってほしいと願う、ひどく小さな声。

あの声を聞いたとき、なぜ自分が館を出たのか。

なぜ彼女を見つけたとき、目を離せなくなったのか。

そしてなぜ今、彼女が傷つくことに、これほど心を乱されるのか。

イェンミン自身にも、まだ答えは分からなかった。


ただひとつ分かっていることがある。

ジンランだけは、自分の闇を恐れながらも、完全には拒まなかった。

彼女は、自分の中にある闇だけではなく、その奥にある孤独まで見つめようとしている。


それが、イェンミンには何よりも眩しかった。


愛されることを知らなかった。

必要とされることも知らなかった。


だからこそ―― 初めて差し込んだその光を、手放すことが怖かった。


イェンミンの指が、そっとジンランの髪へ触れる。

黒く艶やかな髪が、彼の指の間をさらりと滑った。

その感触に、彼は目を細める。


「…ジンラン。」


「はい。」


「お前は、自分が何をしているのか分かっているのか。」


突然の問いに、ジンランは瞬きをした。


「…それは、どういうことでしょうか?」


イェンミンは答えなかった。

ただ、彼女を見つめる。


自分の傍にいること。

自分を信じること。

自分の闇に触れ、それでも離れようとしないこと。

そのすべてが、彼の中にある何かを少しずつ壊していた。


孤独であることに慣れていた心が、今では彼女を求めている。

彼女の声を聞きたい。

彼女の姿を見たい。

自分だけを見ていてほしい。

そんな欲が、静かに、確実に育っている。


イェンミンは、それが何なのかをまだ言葉にできなかった。

けれど、その感情から目を逸らすこともできなかった。


「お前が光であるなら…」

低い声が、静かな部屋に落ちる。

「私は、その影でいい。」


ジンランは、じっと彼を見つめた。


「光があるから、影が生まれる。」


イェンミンの指が、彼女の髪をゆっくりと梳く。


「ならば私は、お前の光を消さぬよう、その傍にいる。」

その言葉は、優しかった。


けれど―― その優しさの奥には、彼自身もまだ気づいていない強い執着が潜んでいた。


光を守りたい。

そう願いながら。

その光を、自分の手元に置いておきたい。

そんな矛盾した欲望が、静かに彼の心を蝕み始めていた。


ジンランは、そのことを知らない。

ただ、彼の言葉に胸を震わせていた。


自分の存在を、こんなふうに必要としてくれる人がいる。

その事実が嬉しかった。


「…私は、イェンミン様の傍にいます。」

小さな声だった。


けれど、その言葉は確かに彼の胸へ届いた。

イェンミンの瞳が、わずかに揺れる。


その瞬間。


窓の外で風が鳴った。

灰色の雲がゆっくりと月を覆い、部屋へ差し込んでいた淡い光が途絶える。


光が闇に呑まれるように――

二人の影が、静かに重なった。

それは、まるでこの先に待つ運命を暗示するかのようだった。


光と闇。

師と弟子。

救いと呪縛。


相反するはずだった二つの存在は、すでに互いを切り離せないところまで近づいていた。

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