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冥光輪廻 ― 二つの神に愛された魂 ―  作者: ミルハ


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3/21

闇に染まる祈り

イェンミンの療癒の術を受けてから、数日が過ぎた。


あれほど青白かった母の顔には、すっかり血色が戻っていた。

浅く苦しげだった呼吸も、今では穏やかで深い。

少し前まで、いつ命の灯が消えてもおかしくないほど衰弱していたとは、到底思えない。


朝には自分で起き上がり、簡単な食事なら口にできるようになった。


そして何より――

母は、笑うようになった。


「…こんなに身体が軽いのは、いつ以来かしら。」

そう言って笑う顔は、どこか若い頃の面影さえ残している。


ジンランはそんな母の姿を、何度も確かめるように眺めていた。

夢ではない。

母は、生きている。


しかも、ただ命を繋いだだけではない。

もう一度、自分の足で歩けるほどの力を取り戻している。


それが嬉しくて。

それと同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


――もうすぐ、この家を離れる。


ジンランは、部屋の隅に置いた小さな荷物へ目を向けた。


着替え。

薬草を入れるための布袋。

わずかな食料。

そして、母からもらった小さな髪飾り。


これまでの人生で持っていたものは、驚くほど少なかった。

それらを一つずつ布に包み、丁寧に荷造りをしていく。


「ジンラン。」

不意に、背後から母の声がした。


ジンランが振り返る。


母は、寝台に腰掛けたまま、娘をじっと見つめていた。

その眼差しには、ほんの少しの寂しさが浮かんでいる。

けれど、それ以上に――誇らしさがあった。


「本当に…行くのね。」


「うん。」


ジンランは小さく頷いた。


手にしていた布を置き、母の前へ歩み寄る。


「約束したから。」


あの夜。

自分を救ってくれた、あの不思議な男。

沈 炎冥(シェン・イェンミン)。


彼の弟子になると、自分自身で決めた。


怖くないと言えば、嘘になる。

あの人が何者なのか、まだ分からない。

闇を司る神だという言葉も、完全に理解できているわけではない。


それでも――

あの人だけが、自分の中に眠る何かを見つけてくれた。

そして、自分にも何かを成せるのだと教えてくれた。


ジンランは、ぎゅっと拳を握りしめた。


「私、ちゃんと修行してくる。」

少しだけ声が震えた。

けれど、その瞳はまっすぐだった。


「薬草のことも、病を治す方法も…たくさん覚える。」


そして、少し照れたように笑う。


「立派になって、戻ってくる。」


母はしばらく黙って娘を見つめていた。

やがて、ふっと微笑む。


「そうね。」

その声には、寂しさが滲んでいた。

けれど、引き止める言葉はなかった。


「あなたは、もう大丈夫ね。」


「…お母さん?」


「今までずっと、お母さんのために生きてきたでしょう。」


その言葉に、ジンランの胸が詰まった。


母は、ゆっくりと娘の手を取る。


「畑を耕して。」


「うん。」


「薬草を探して。」


「うん…」


「夜遅くまで、お母さんの看病をして。」


母の指が、ジンランの手の甲をそっと撫でる。


「あなたは、自分のことを後回しにしてばかりだったわね。」


ジンランは何も言えなかった。


思えば、母の病気が悪くなってから、ずっとそうだった。

自分が何をしたいのか。

どんな人生を送りたいのか。

そんなことを考える余裕などなかった。


母が生きてくれれば、それでよかった。

母が笑ってくれれば、それでよかった。


だから、自分の夢なんて――

考えたことさえなかった。


「でも、もういいのよ。」

母の声が、優しく響く。

「あなたの人生を生きなさい。」


ジンランが顔を上げる。


母は笑っていた。

少し寂しそうで。

それでも、どこまでも優しい笑顔だった。


「お母さんのことは、もう心配しなくていいのよ。」


「でも…」


「大丈夫。」

母は、娘の言葉を遮るように微笑んだ。


「あなたがいなくても、ちゃんと生きていけるわ。」


「…」


「だから、今度はあなたが幸せになる番よ。」


その瞬間。

堪えていた涙が、ぽろりと頬を伝った。


「…お母さん。」


ジンランは母の胸に顔を埋めた。

母の腕が、そっと背中を包む。


「ごめんね…」


「どうして謝るの?」


「私…お母さんを一人にして…」


「違うでしょう?」


母は優しく髪を撫でた。


「あなたは、お母さんを捨てるんじゃない。あなた自身の人生を、歩き始めるだけよ。」


その言葉に、ジンランは声を上げて泣いた。


母の胸は、温かかった。

ずっと守りたかった場所。

そして、自分が守られていた場所。


その温もりを、もう一度だけ確かめるように、強く抱きしめる。


「…行ってきます。」

しばらくして、ジンランが涙を拭いながら言った。


「うん。」

母も娘を抱きしめたまま答える。


「行ってらっしゃい。」

その言葉は、思っていたよりずっと寂しかった。


けれど同時に――

新しい人生へ送り出すための、母からの祝福のようにも聞こえた。


やがて、夕暮れが訪れた。

開け放した窓から、山の風が静かに入り込んでくる。

赤く染まった夕陽が、部屋の中へ長い光を差し込ませていた。


荷物を背負い、家の戸口に立ったジンランは、一度だけ振り返る。

そこには、笑顔で自分を見送る母の姿があった。


ジンランは小さく笑った。

そして、深く頭を下げる。


「行ってきます。」


「ええ。気をつけて。」


扉がゆっくりと閉じる。

その向こうに、母の姿が見えなくなる。


胸の奥が痛んだ。


けれど――

今度は、前を向いた。


母を救うためだけに歩いてきた人生の、その先へ。

自分自身の力で、何かを成し遂げるために。


そして、いつの日か――

もっと強くなって、この場所へ帰ってくるために。


夕陽に照らされた山道を、ジンランは一歩ずつ歩き始めた。


イェンミンの住処は、山の奥深くにあった。


人の世から遠く離れた、険しい山々に囲まれた場所。

幾重にも重なる岩山を越え、深い森を抜けなければ辿り着くことさえできない。

昼であっても木々に遮られて陽の光はほとんど届かず、夜になれば辺りは深い闇に沈む。


その山の最奥に――ひっそりと、一つの館が建っていた。

黒曜石を思わせる艶やかな黒壁。

幾重にも連なる屋根は夜空へ溶け込むように黒く、門には見たこともない古い紋様が刻まれている。

周囲には奇妙な形をした木々が生え、風が吹くたびに葉が擦れ合って、まるで誰かが囁いているような音を立てた。


館の中も、外界とはまるで別の世界だった。


灯りは少なく、廊下には淡い青白い燭火が等間隔に置かれている。

壁には古い呪符や護符が掛けられ、棚には見たこともない薬草や鉱石、奇妙な形をした器が並んでいた。

そこには、普通の人間の暮らしには存在しないものが溢れている。


そして何より――静かだった。

あまりにも静かで、時の流れさえも忘れてしまいそうなほどに。


その館で暮らしているのは、イェンミンと、彼に仕え、その教えを受ける弟子たちだった。

彼らは皆、長い年月をかけて呪術を学んでいた。


病を癒す術。

邪気を払う術。

人の心に働きかける術。

そして――人を呪う術。


光の届かない場所でしか扱えない、禁じられた力。

その力を授けてくれるイェンミンを、弟子たちは畏れ、敬い、そして崇めていた。


彼は彼らにとって、ただの師ではなかった。

自分たちには到底届かない場所にいる、絶対的な存在だった。


だからこそ――

ジンランが館に足を踏み入れた瞬間、館の空気は明らかに変わった。

それまで静かだった空間に、どこか張り詰めた、冷たい気配が漂い始めた。


「…誰なの?」


廊下の奥から、弟子の一人が顔を覗かせる。

その視線がジンランへ向けられた。


次々と人が集まってくる。

好奇。

困惑。

そして、露骨な警戒。


ジンランは思わず足を止めた。


これまで暮らしていた村とは、何もかもが違う。

人々の服装も。

漂う空気も。

その目に宿る光さえも。

誰も笑っていない。


ただ、見知らぬ娘がなぜここにいるのか――

それを探るように、静かに彼女を見つめている。


「…また一人、拾われたのね。」

やがて、冷ややかな声が響いた。


人垣の中から、一人の女がゆっくりと歩み出てくる。


黒髪を高く結い上げ、黒を基調とした衣を纏っている。

整った顔立ち。

姿勢も美しく、立っているだけで他の弟子たちとは違う威厳があった。

けれど、その瞳には鋭い光が宿っている。


凌 芽心(リン・ヤーシン)。

イェンミンの一番弟子だった。


長い年月をかけて彼の教えを受け、弟子たちの中でも最も深く呪術を修めている。

他の弟子たちからも一目置かれる存在だった。


ヤーシンはジンランを頭の先から足元まで、ゆっくりと眺めた。

粗末な荷物。

質素な衣。

まだどこか村娘らしさの残る立ち姿。


その視線には、隠すつもりもない侮蔑が滲んでいた。


「ずいぶんと可愛らしい弟子を連れてきたものね。」

誰に向けた言葉なのか分からないほど、冷たい声だった。


ジンランは小さく身を縮める。


「私は…」

何か言おうとした。

けれど、言葉が出てこない。


ヤーシンは薄く笑った。

「あなた、呪術なんて使えるの?」


「…まだ、何も。」

正直に答える。


すると、周囲から小さな笑い声が漏れた。

「やっぱり。」


「ただの村娘じゃない。」


「イェンミン様は一体、何を考えているのかしら。」


胸の奥が痛んだ。

ジンランは唇を噛んだ。


自分でも分かっている。

ここにいる弟子たちは、皆、自分より遥かに長い時間をかけて修行している。

そんな場所へ、何も知らない自分が突然入ってきた。

歓迎されないのは当然なのかもしれない。


ヤーシンは一歩、ジンランへ近づいた。

そして、静かな声で言った。

「お前のような村娘に、この修行が耐えられるはずがないわ。」

その言葉には、確かな敵意があった。

「ここは遊びに来る場所じゃないの。」


ジンランは俯いた。

何も言い返せない。


けれど、そのとき。

脳裏に、あの夜のイェンミンの言葉が蘇った。


『お前には、人を癒す力が眠っている。』

あの言葉だけが、不思議なほど鮮明に胸に残っていた。


自分には何もないと思っていた。

誰にも認められたことがなかった。


けれど、あの人だけは違った。

自分の中に、まだ知らない力があると言った。


だから――

ジンランは顔を上げた。


「…それでも、やります。」

声は小さかった。

けれど、はっきりしていた。


ヤーシンの眉がわずかに動く。


「…何?」


「私は、イェンミン様の弟子になると決めました。」


震える手を、ぎゅっと握りしめる。


「だから…どんなに大変でも、逃げません。」


一瞬、周囲が静まり返った。


ヤーシンはジンランを見つめた。

その瞳に、ほんのわずかな驚きが浮かぶ。

けれど、それはすぐに消えた。


「…好きにすればいいわ。」

そう言い残し、ヤーシンは背を向けた。

「すぐに泣いて帰るでしょうけど。」


その背中が遠ざかっていく。

ジンランは、その場に立ったまま拳を握りしめていた。


悔しかった。

怖かった。

自分がここにいていいのかさえ、分からなかった。


それでも――帰るつもりはなかった。


母と約束した。

立派になって戻ってくると。


そして何より。

自分を弟子として迎えてくれた、あの人の期待を裏切りたくなかった。


その日から、ジンランの修行が始まった。


朝は夜明け前から起き、薬草を集める。

昼は呪術の基礎を学び、夜は古い書物を読み漁る。


何度術を試しても失敗する。

手を傷つけることもあった。

術の反動で倒れることさえあった。

それでも、ジンランは諦めなかった。


失敗すれば、また最初からやり直す。

分からなければ、何度でも書物を読み返す。

眠くても、疲れていても、手を止めなかった。


誰かに認められたいからではない。

ただ――

自分の中に眠る力を知りたかった。


そしていつか。

母を救ってくれたあの人のように、自分も誰かの命を救える人間になりたかった。


こうして、山奥の闇の館で一人の村娘の、新たな人生が始まった。


そんな日々の中――

ある日の修行で、イェンミンはジンランに一つの試練を与えた。


「今日は、魂視を行う。」


「…魂視?」

初めて聞く言葉に、ジンランは首を傾げる。


イェンミンは静かに答えた。

「他者の魂を視る術だ。」

そして、少し間を置いて続ける。

「だが、人の魂を視るということは、その者の痛みや恐れに触れることでもある。」


ジンランは黙って彼の言葉を聞いていた。


「他者の影を見るには、まず己の影から逃げないことだ。」

そう言ってイェンミンが連れていったのは、館の地下深くにある部屋だった。


そこには、光がなかった。

窓もなく、灯りすらない。

ただ、どこまでも深い闇だけが広がっている。


「ここで一人になれ。」


「…どのくらいですか?」


「お前自身が、己の心と向き合えるまでだ。」

それだけ告げると、イェンミンは部屋を出ていった。


重い扉が閉じる。

――途端に、世界から音が消えた。


最初は、ただ静かなだけだった。

けれど、時間が経つにつれ、その静けさが恐ろしくなっていく。


自分の呼吸。

早くなる鼓動。

衣が擦れる小さな音。

普段なら気にも留めないものまで、異様なほど大きく聞こえた。


やがて――

闇の中から、声が聞こえ始めた。

「お前に何ができる?」


「ただの村娘だろう。」


「ここにいる資格なんてない。」


誰の声なのか分からない。

けれど、それは確かに、ジンランがこれまで心の奥で何度も聞いてきた言葉だった。


「違う…」

耳を塞いでも、声は止まらない。


「お前は弱い。」


「イェンミン様に捨てられる。」


「お前なんか、何者にもなれやしない。」


胸が締めつけられる。

息が苦しい。

逃げ出したい。

扉を叩いて、ここから出してほしいと叫びたい。


それでも――

ジンランは、その場から動かなかった。


膝を抱え、震える身体を必死に支える。

そして、ゆっくりと目を閉じた。


「…私は、弱い。」

ぽつりと呟く。

「怖い…」


涙が頬を伝った。


「何もできない自分が、怖い。」


それでも。

ジンランは顔を上げた。


「でも…だから、逃げない。」


恐怖が消えたわけではない。

痛みがなくなったわけでもない。

ただ、そのすべてを抱えたまま、向き合うことを選んだ。


どれほどの時間が過ぎたのか。

やがて――

闇の中に、かすかな光が生まれた。


ジンランの指先だった。

そこに、淡い黒い光が宿っている。


「…これ、は…?」


驚いて手を見つめる。


その光は、禍々しいものではなかった。

むしろ、深い夜が傷ついた心を包み込むような、穏やかな温もりを帯びていた。


それは――闇の力だった。

けれど、その闇に触れたとき、人の痛みは少しずつ和らいでいく。


それから行われた「魂視」の儀式で、ジンランは初めて他者の魂へ触れた。


一人の弟子へ手をかざす。

すると、その者の魂に絡みついていた黒い影が、ゆっくりとほどけていった。


怒り。

悲しみ。

恐怖。

長い間、その心を蝕んでいた感情が、夜明けに霧が消えていくように薄れていく。


「…っ」

見守っていた弟子たちから、息を呑む音が漏れた。


「今の…」


「魂に触れたのか?」


「いや…それだけじゃない。」


誰もが言葉を失っていた。


その進歩は、異常なほど早かった。

まるで――ずっと以前から、この力を知っていたかのように。


その様子を、少し離れた場所からイェンミンが見つめていた。

表情はいつもと変わらない。

けれど、その青い瞳には、ほんのわずかに満足の色が浮かんでいる。


「やはり…」

低い声が、静かな部屋に落ちた。

「私の目に、狂いはなかった。」


その言葉を聞いた瞬間。

ジンランの胸が、大きく鳴った。


たった一言。

それだけだった。

けれど、誰かに認められることなどほとんどなかった彼女にとって、その言葉は何よりも嬉しかった。


胸の奥に、淡い光が灯る。

――認めてもらえた。

その喜びだけで、もっと頑張れる気がした。


もっと力をつけたい。

もっと師匠の役に立ちたい。

もっと、褒めてもらいたい。


その夜。


自室に戻ったジンランは、一人で胸に手を当てていた。

まだ鼓動が速い。


『私の目に、狂いはなかった。』

その言葉を、何度も心の中で繰り返す。


「…嬉しい。」

小さく呟いた。


それは、ただの「認められた」という喜びだった。

――このときまでは。


けれど、その小さな喜びは。

少しずつ。

少しずつ。

形を変えていった。


師に認められたい。

師の期待に応えたい。

もっと師の傍にいたい。


そしていつしか――

自分だけを見てほしい。

そんな願いへと。


その感情が、師弟という境界を越え始めていることを――

このときのジンランは、まだ知らなかった。


ある夜のことだった。


その日は珍しく、イェンミンは弟子たちをすべて下がらせていた。

誰もいなくなった中庭には、夜の静けさだけが残されている。

月明かりさえ届かない庭の中央で、イェンミンは一人、呪術の依頼を受けていた。


ジンランは、その気配に引き寄せられるようにして、こっそりと中庭を覗いていた。


本当なら、見つからないうちに立ち去るべきだった。

けれど――その場から離れることができなかった。


イェンミンの周囲だけ、空気が違っていた。

静かなはずの夜が、何かに怯えるように震えている。

足元に落ちた影がゆらりと揺れ、まるで意思を持った生き物のように蠢いていた。


イェンミンがゆっくりと片手を持ち上げる。

その指先が宙をなぞると、何もない空間に黒い紋様が浮かび上がった。


一画、また一画。

複雑な紋が重なり合うたび、辺りの闇が濃くなっていく。

やがて、彼の前に並べられていた呪符が一枚ずつ燃え始めた。


炎は赤くない。

最初は青白く揺らめいていたそれが、次第に血のような深紅へと変わっていく。


瞬間――

赤い光が夜空を鋭く裂いた。

風がないはずなのに、長い髪が大きく揺れる。

大地の底から何かが這い上がってくるような、低い気配が響いた。


恐ろしい。

そう思った。

けれど、それ以上に――美しいと思った。


闇はただ恐ろしいものだと思っていた。

村では、誰もが闇を忌み、恐れていた。

けれど目の前にあるそれは、恐怖だけではなかった。


黒い紋様も、揺らめく炎も、夜を切り裂く赤い光も。

すべてが一つに溶け合い、まるで誰かの意思を持って動いているようだった。


「…これが、呪い…?」

気づけば、ジンランの唇から言葉がこぼれていた。


胸が早鐘のように鳴っている。

怖い。

なのに、目を逸らすことができない。

恐怖と好奇心が入り混じり、胸の奥を熱くしていく。


そのときだった。

ふいに、イェンミンの手が止まった。


「…そこにいるのは、誰だ?」

低い声が夜気を震わせる。


ジンランの身体がびくりと強張った。

逃げなければ。

そう思ったのに、足は動かなかった。


ゆっくりと振り返ったイェンミンと、視線が重なる。

しばらく二人の間に沈黙が落ちた。


やがて、イェンミンは驚く様子もなく、ほんの僅かに口元を緩めた。

「怖いか?」


問われて、ジンランは呪術の残した赤い光へ視線を戻した。


「…怖いです。」

正直に答える。

けれど、その声には逃げたいという響きがなかった。

「…でも、目が離せません。」


自分でも不思議だった。

なぜこんなにも惹かれるのか、ジンラン自身にも分からない。


ただ、目の前で蠢く闇を見ていると、胸の奥に眠っていた何かが、静かに目を覚ましていくような気がした。


「まるで…」

ジンランは、しばらく言葉を探した。

そして、小さく呟く。

「闇が、歌っているみたい…」


その瞬間。

イェンミンの瞳が、ほんの僅かに細められた。

今まで幾人もの弟子を見てきた彼でさえ、そんな言葉を口にする者はいなかった。


恐れながらも、目を逸らさない。

嫌悪するのでもなく、ただそこにあるものを見つめている。


その少女の瞳に映る闇を、イェンミンはしばらく黙って見つめていた。


やがて、彼の唇が僅かに吊り上がる。

「…それでいい。」

静かな声だった。


「闇を恐れぬ者こそ…」


夜の底で、深い瞳がジンランを捉える。


「真に強くなれる。」


その言葉を聞いた瞬間。

ジンランの胸の奥で、何かが小さく揺れた。


それが何を意味するのか、このときの彼女はまだ知らなかった。

ただ――その夜、初めて見た闇の美しさが、彼女の心に深く刻まれた。


それから、幾日かが過ぎた。

あの夜を境に、ジンランは少しずつ変わっていた。


呪術を目にしたときの恐怖。

その奥に潜んでいた、言葉にできない美しさ。


そして、イェンミンから向けられた言葉。

『闇を恐れぬ者こそ真に強くなれる。』

それらは消えることなく、彼女の心の奥に残り続けていた。


そんなある夜のことだった。


その日の修行を終えた弟子たちが、一人、また一人と部屋を出ていく。

やがて修行部屋には、イェンミンとジンランの二人だけが残された。


いつもなら聞こえてくる弟子たちの話し声も、足音もない。

広い部屋を満たしているのは、灯火がかすかに揺れる音と、二人の呼吸だけだった。

張りつめた静寂の中、衣擦れの音がかすかに響く。


ジンランは、少し離れた場所に立つイェンミンを見つめていた。


何かを教えられるのを待っているだけのはずだった。

それなのに、なぜか胸が落ち着かない。

視線を逸らそうとしても、気づけばまた彼を見てしまう。


そのときだった。


窓から差し込む淡い月明かりの中で、イェンミンの影がゆっくりとジンランへ伸びていった。

まるで意思を持つかのように、ジンランの足元へ近づいてくる。


そして彼自身もまた、静かに歩み寄ってきた。

一歩。

また一歩。

その距離が縮まるにつれて、ジンランの鼓動が少しずつ速くなっていく。


やがて、イェンミンが足を止めた。

近い。

そう思った瞬間、彼の瞳がまっすぐにジンランを捉えた。


「…美しいな。」


不意に落とされた言葉に、ジンランの心臓が大きく跳ねた。


「まるで、夜が息をひそめるほどに。」

静かな声だった。

けれど、その一言はジンランの胸の奥へ、深く沈んでいった。


何と答えればいいのか分からない。

頬が熱くなるのを感じ、ジンランは思わず視線を伏せた。


平静を装おうと、ゆっくり息を吸う。

けれど、指先がわずかに震えている。

その小さな変化を、イェンミンは見逃さなかった。


「緊張しているのか?」


「…少しだけ。」

かすかな声で答える。


イェンミンは何も言わなかった。

ただ、静かに手を伸ばした。

ジンランが身を引くより先に、その指先がそっと彼女の手に触れる。


冷たいはずの手だった。

なのに、触れた場所からじわりと熱が広がっていく。

まるで、冷たい闇の中に一つだけ灯された小さな火のようだった。


「私が闇を教える。」

イェンミンの声が、静寂の中に響く。

「お前は、自分の中にある光を知ればいい。」


ジンランは黙って彼を見つめた。


「光だけでは、見えないものがある。」


その言葉が、静かに胸へ落ちてくる。


「闇だけでも、届かない場所がある。」


握られた手に、ほんの少しだけ力が加わった。


「その狭間に立って初めて見えるものがある。」


ジンランは、その言葉を一つひとつ受け止めていた。

これまで誰かに、そんなふうに言われたことはなかった。


自分の中に何があるのか。

自分が何を秘めているのか。

そんなことを考えたことさえなかった。


ただ母を救いたかった。

それだけだった。


けれど、イェンミンは違う。

彼はまるで、ジンラン自身さえ気づいていない何かを見つめているようだった。


「お前は、恐れることを知っている。」

イェンミンが言う。

「だからこそ、闇に呑まれず、それを使いこなせる。」


ジンランの瞳が、わずかに揺れた。


「そして、お前の心も、私は知りたい。」


その言葉に、胸の奥が大きく鳴った。

呼吸が浅くなる。


何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。

ただ、目の前にいるイェンミンを見つめることしかできなかった。


静かな時間が流れる。


やがて、イェンミンの顔が少しずつ近づいてくる。

一歩ではない。

ほんのわずかな距離が、ゆっくりと縮まっていく。


ジンランは動かなかった。

動けなかったのかもしれない。


吐息が触れそうな距離で、二人の視線が絡み合う。

その瞬間、ジンランの胸の奥で、何かが燃え上がった。


怖い。

けれど、離れたくない。


嬉しい。

なのに、なぜか胸が苦しい。


いくつもの感情が絡まり合い、自分でもその正体が分からなくなっていく。

それが何なのか。

まだ、彼女は知らなかった。


窓の外では、夜が静かに更けていた。

淡い月光が部屋へ差し込み、二人の姿をぼんやりと照らしている。


外の世界から切り離されたような、二人だけの時間。

その静けさは、まるで世界そのものが二人の存在を隠しているかのようだった。


その頃、遠くから修行部屋を見つめる者がいた。

ヤーシンだった。


彼女は、ジンランが館に来てからというもの、胸の奥に消えない苛立ちを抱えていた。


なぜ、あの娘なのか。

なぜ、イェンミンはあの娘を気にかけるのか。

問いかける相手もなく、嫉妬だけが静かに積もっていく。


しかし、閉ざされた部屋の中で何が起きているのかを、彼女はまだ知らない。


二人が交わす言葉も。

縮まっていく距離も。

そのすべてが、夜の静寂に隠されていた。


そしてイェンミンもまた、弟子たちの目からこの時間を遠ざけるように、何も語らなかった。


誰にも知られぬまま、二人の間に生まれた小さな変化。

それはまだ、名を持たない感情だった。

愛なのか。

それとも、もっと深く、逃れることのできない何かなのか。

二人には、まだ分からない。


ただ一つ確かなのは――

この夜を境に、師と弟子という二人の関係が、少しずつ別の形へと変わり始めていたことだった。

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