スキュルロスの静寂、血のインク
松の針葉が風にこすれる。ザリッ、ザワッ。
ただの摩擦音。松ヤニの青臭い揮発成分が鼻腔を通り抜け、脳髄の裏側を無意味に冷やす。オリンピア近郊、スキュルロスの領地。スパルタが与えた隔離施設。
静かすぎる。
音の欠落が物理的な暴力となって鼓膜を外側へ引っ張る。鼓膜が破れる寸前の強い張力。痛い。
バビロンの熱風、一万のすり減ったサンダルが土を踏み砕く低い地鳴り、槍の穂先がペルシャ兵の胸骨を叩き割る硬質な破砕音。極限の飢餓状態に最適化された三半規管は、平和という絶対的な真空状態に耐えられない。強烈な耳鳴り。キーンという高周波が頭蓋骨の内側で乱反射し、前頭葉を微振動させている。
机の上。
羊の皮をなめした紙が置かれている。広げられた羊皮紙の、病的に白茶けた平面。網膜を刺す異常な白さ。そこに付着した一粒の黒いチリ。風で飛んできたのか。親指の爪で弾き飛ばそうとしたが、皮の繊維に深く食い込んで取れない。チリの周りに微小な脂の染みが広がっている。気になって息が荒くなる。
机の上に置かれた右腕。
指の関節が異常に太く肥大している。親指と人差し指の股に、黄色く変色した分厚いタコ。かつて青銅の剣の柄を毎日限界まで握りしめ続けた結果、皮膚が硬化して別の生体器官へと変異した痕跡だ。タコの奥で、死んだはずの神経がズキズキと脈打っている。
右手は葦のペンを握っている。
軽すぎる。
柄の重みがない。重心がない。指の腱が混乱し、勝手にピクピクと痙攣する。肉を裂き、骨を断つための反発力が存在しないただの細い植物の管。これを握っていると、手首から先が急速に萎縮して腐り落ちていく強烈な錯覚に襲われる。
部屋の隅。
日陰の境界線に、安っぽいバラの香油の匂いが淀んでいる。
肉の腐る甘ったるいガスが混ざっている。
プロクセノスが立っている。
首は繋がっている。しかし頸動脈の真上に、横に真っ直ぐ走る黒ずんだ血の痂皮。縫い目だ。頭部を無理やり胴体に乗せている。プロクセノスの青白い唇の端を、一匹の小バエが這い回る。ハエは口の裂け目から中へ入り、また出てくる。
「美しい領地だ」
死んだ肉の顎が上下する。カチリ。関節の潤滑油が切れた乾燥した骨の音。
「これで君も立派な貴族だ」
クセノフォンの胃の底で、強酸が激しく沸騰した。
食道を逆流する酸っぱい熱。喉の粘膜をチリチリと焼く。
「静かすぎる」
クセノフォンの声帯が、ひきつった摩擦音を部屋に吐き出す。
「耳の奥で、雪山で食い殺したアカイア人の骨を噛み砕く音が鳴り止まない。この静けさは俺の胃をねじ切ろうとしている」
プロクセノスの幻影は答えない。ハエが目玉に移動し、濁った角膜の上で前脚をこすり合わせている。
平和。安全圏。
一万人の肉の部品を統率し、明日のカロリーを計算するためだけに稼働していた冷徹な王の回路。それが、この無音の空間で行き場を失い、自らの内臓を攻撃し始めている。
敵がいない。奪う麦がない。切り捨てるべきバグを起こした兵士がいない。
ならば、この暴走する神経パルスをどこへ排出するのか。排出先がなければ、胃壁は自らの酸で穴が空き、脳血管は圧力で破裂する。
クセノフォンは葦のペンをインク壺に突っ込んだ。
黒い液体。没食子と鉄を混ぜたインク。壺の底に溜まった沈殿物が、切断されたばかりの馬の頸動脈から噴き出すどす黒い血の粘りに酷似している。鉄の匂い。血の匂い。
葦のペンを引き抜く。先端から黒い滴が垂れる。
それを、病的な白さを持つ羊皮紙の表面に叩きつける。
ザリッ。
葦の先端が皮の繊維を削り取る甲高い音。
かつてアゴラで、ペルシャの書記官が蜜蝋を削ったあの乾いた引っ掻き音。完全に同期する。
そうだ。これは王への即位ではない。
ただの排泄作業だ。
頭蓋骨の中にぎっしりと詰まった、一万人の怪物の足音。凍りついた馬の肉。切断された首。燃える村。それらを物理的なインクの染みとして体外へ嘔吐しなければ、彼自身が内部から破裂する。
ザリッ、ガリッ。
右手の肥大したタコが、葦のペンをへし折らんばかりの力で握りしめる。
指の関節が白く突っ張り、手首の腱がギリギリと軋む。
青銅の剣で敵の鎖骨を叩き割るのと同じストローク、同じ筋力で、アルファベットの羅列を羊皮紙に刻み込んでいく。黒い血が白い皮の上で文字の形に凝固する。
静寂を殺すための、ただの物理的な摩擦音。
クセノフォンの額から脂汗が滲み出し、羊皮紙の上にボタリと落ちて丸い染みを作った。止まらない。ペンの先端が削れ、インクが飛び散る。ただの肉の排出機構と化した男が、無人の部屋でひたすらに紙を引っ掻き続ける。ザリッ。ガリッ。
風が松の木を揺らす。それ以上の音は、どこにも存在しなかった。




