表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十五章:ソクラテスのいない空
PR
82/82

哀しい職業の記録

 ザリッ。

 葦のペンが羊皮紙の表面を削り取る。

 皮の繊維が毛羽立ち、そこに黒い液体が無理やり染み込んでいく。

 インク壺。素焼きの小さな鉢。底のほうに、どろりとした澱みが溜まっている。没食子と鉄の化合。酸化した古い血だ。壺の縁に、昨日こぼれたインクが乾燥して黒いカサブタを形成している。クセノフォンは左手の親指の爪で、そのカサブタを無意識に弾いた。パキッ。乾いた破片が机の上に飛び散る。破片の一つが親指のささくれに刺さる。微かな痛覚。血は出ない。ただ皮膚の下で鈍い圧迫感が残る。


 ザリッ。

 右手の肥大したタコが、植物の管を力任せに握りしめている。

 手汗が葦の表面を滑る。関節の軟骨がすり減り、ペンを動かすたびにギリギリと微小な摩擦音を骨伝導で頭蓋骨に直接響かせる。

 この一定のリズム。

 バビロンの熱風。砂埃。ペルシャ人書記官。蜜蝋を塗った木板を尖筆で引っ掻く、あの乾いた音。カリッ。

 一万三千の重装歩兵。男たちの汗のすっぱい悪臭。青銅の盾の反射。

 書記官の親指の爪はひどく黄色く濁っていた。縦に二本のひび割れ。ひび割れの奥に黒い垢がぎっしりと詰まっていた。

 今、クセノフォンの右手はその書記官の濁った爪と完全に同期している。

 彼が書いているのは、英雄の凱旋歌ではない。

 ゼウスの加護。アテネの法。ペリクレスの美辞麗句。スパルタの高潔。

 羊皮紙の上に並べれば、ただの黒い染みだ。インクの無駄遣い。カロリーの浪費。


 彼が刻み込んでいるのは、純粋な数字の羅列。

 何パラサングス歩いた。

 乾燥した干し肉を何グラム噛みちぎり、それを消化するのに何滴の胃液を分泌した。

 アルメニアの雪山。マイナス数十度の冷気。凍りついたアカイア人の腿肉。刃こぼれした青銅のナイフで、同胞の筋肉を何グラム削り取り、焚き火の煙で炙ったか。

 トラペズスの村。ギリシャ人の農夫。頭蓋骨を槍の石突きで叩き割り、隠し持っていた豚の腸を引きずり出した。その豚肉の脂の粘度と、胃袋を膨らませた絶対的なカロリー値。

 それだけだ。

 美しい言葉も、神の啓示も介入しない。ただの簿記。巨大な生体機械の稼働記録。


 ペンの先端がわずかに割れる。

 羊皮紙の白茶けた平面に、余分な黒い飛沫が三つ、四つと飛ぶ。

 一番大きな飛沫が、皮の表面に残っていた獣の毛穴の跡に吸い込まれていく。毛穴の周囲の繊維が黒く染まり、小さな虫の死骸に見える。潰れた南京虫。昨日、寝台の隙間で指で押し潰したやつの体液の色。

 ペンを止める。

 呼吸。

 肺胞が空気を吸い込み、吐き出す。気管支の奥で、ゼーゼーと微かな湿った音が鳴る。


 市場(アゴラ)の白亜の柱の下で、真理(ロゴス)を論じる理性ある市民。

 違う。

 明日の朝飯のために、他人の喉笛を躊躇なく噛みちぎる一ドラクマの肉塊。

 アテネの石畳で、自分自身の肉に値段をつけ、ペルシャの銀貨を欲して四つん這いになっていた連中。

 彼らは今、ギリシャ全土に散らばっている。

 クセノフォンが鍛え上げた一万人の怪物。

 解散などしていない。

 トラキアの森へ。小アジアの荒野へ。スパルタの陣営へ。

 胃袋の痙攣を鎮めるためだけに、彼らは雇い主を転々と移動し、村を食い破り、都市の内臓を食い荒らしている。終わらない略奪のループ。

 アテネの都市国家。防壁。法。

 それらは完全にへし折れ、ヒビの入った骨の断面から黄色い髄液がドクドクと流れ出している。飢えた野犬どもがその髄液をすすり、さらに飢えを増幅させる。

 生身を切り売りする。銭を手にする。

 哀しい職業。

 悲劇ではない。ただの生理現象の延長。食うための蠕動運動。腸の収縮。


 クセノフォンの胃の底で、朝食の麦粥が酸っぱく発酵している。

 食道を逆流する強い酸の刺激。

 奥歯を激しく噛み締める。右の顎の付け根がパキリと鳴る。

 唾液腺から分泌されたどろりとした唾液と一緒に、その酸っぱさを胃の奥へ無理やり押し戻す。喉仏が不格好に上下する。ごくり。


 窓の外を見る。

 スキュルロスの松の木立。

 松の幹の表面。ひび割れた樹皮の隙間に、白い樹脂が固まっている。鳥の糞だと思ったが、樹脂だった。

 風が完全に止んだ。

 圧倒的な真空。鳥の鳴き声すら存在しない。

 耳の奥で、キーンという高周波の耳鳴りだけが極限まで肥大化していく。

 この無音の牢獄。

 救済はない。アテネの哲人の魂は、あのバビロンの泥の中で豚の糞と一緒に完全に腐敗した。残されたのは、インクの染みを量産するだけの右腕。


 クセノフォンは視線を羊皮紙に戻す。

 インクが乾きかけ、鈍い光を放っている。

 割れた葦のペンをインク壺に突っ込む。

 黒い澱みをすくい上げる。

 右手の肥大したタコに力を込める。手首の腱が引き攣る。

 ザリッ。

 新しい行。

 ただの現象の積み重ね。肉が肉を食い、銀貨が血を吸う過程の記録。

 ザリッ。

 文字が刻まれる。

 ガリッ。

 虚無の空間に、ただ物質が物質を引っ掻く乾いた摩擦音だけが、永遠の反復運動を続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ