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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十五章:ソクラテスのいない空
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毒杯の底の泥

 路地の壁はひどく乾燥している。崩れかけた漆喰。その表面に赤褐色の染みがべったりとこびりついている。誰かの嘔吐物の跡。完全に水分を失い、粉状に剥がれ落ちている。


 かつての同門の男。アゴラで老人の後ろを歩き、熱心に頷いていた無数の市民の一個。男の額は異常なほど油ぎっている。毛穴から絶え間なく滲み出る脂の層が、病的に白茶けたアテネの太陽光をヌラヌラと反射する。不快なテカリ。額の真ん中、縦に深く刻まれたシワの谷間に、古い汗と埃の混ざった汚れが黒く溜まっている。

 男が口を開く。


「死んだ」


 吐き出された息の塊が、横風に乗ってクセノフォンの顔面に直撃する。未消化の豆のきつい腐臭。すっぱい唾液の匂い。男の上の前歯の隙間に、豆の薄皮がこびりついている。黄色く変色した歯垢。薄皮の端が、男の荒い呼吸に合わせてピクピクと震える。


「毒人参だ」


 クセノフォンの喉の奥の筋肉が、勝手に猛烈な痙攣を起こした。ギクッ。

 甲状軟骨が不自然に擦れ合う鈍い音。唾液腺が暴走し、口内に大量の唾液を分泌する。

 飲んでもいない毒人参のどろどろとした青臭い汁。それが食道の壁をじりじりと焼く。錯覚が物理的に肉を焦がし始める。胃の底が激しく収縮する。内臓が雑巾を絞る形にねじれ上がる痛覚。胃液が逆流する。食道を駆け上がり、舌の根元を強酸で刺す。クセノフォンは奥歯を強く噛み締めた。右の顎の関節の奥深くで、骨同士がぶつかる鈍い音が鳴る。


「アテネの法が、あの老人の問答を殺した」


 男の目が潤む。眼球の表面を、濁った粘液が厚く覆う。悲劇に酔い、自らを高尚な歴史の目撃者と錯覚した市民の弛緩した顔。


「国家の神を信じず、若者を堕落させた。それが罪状だ。五百人の裁判官が、彼に死を命じた。我々の誇り高き法が、アテネの知性を破壊したのだ」


「問答なんてカロリーの無駄だ」


 クセノフォンの声帯が、冷たい摩擦音を空気中に押し出した。

 男の言葉が途切れる。瞬き。まつ毛の根元にこびりついた白いフケが、わずかに揺れる。


「市民どもは腹が減って、一番うるさい口を物理的に塞いだだけだ。バビロンの野営地と同じ計算式だよ」


 男の額のシワがピクッと動く。脂汗が一滴、右の眉毛の上に引っかかって止まる。汗の滴の中に、周囲の薄汚れた景色が逆さまに映り込んでいる。思ったが、すぐに忘れた。


 老人の喉に流し込まれた毒。冷たさが足の指先からゆっくりと這い上がり、心臓の筋肉を完全に停止させる物理的プロセス。

 ロゴス。真理の探求。無知の知。

 どれも腹を満たさない。

 極限まで飢えたアテネの胃袋にとって、あの老人の発する言葉は、消化管の蠕動運動を阻害する異物でしかなかった。栄養素ゼロのノイズ。国家という巨大な消化器官は、異物を排除するために「法廷」という名の排泄口を開いた。ただの生理的排泄。五百人の裁判官は、五百の空っぽの胃袋の集合体だ。彼らは老人の思想を裁いたのではない。自分たちの限られた食糧の分配を脅かすバグを、事務的に切り取って土に埋めただけだ。


 クセノフォンは路地の壁に手をつく。

 乾燥した漆喰がボロボロと崩れ、指の股に白い粉が入り込む。爪の間に詰まったトラペズスの泥と混ざり、不気味な灰色に濁る。

 老人の声が、鼓膜の奥で強引に再生されようとする。


『善く生きるとは』


 うるさい。

 頭蓋骨の裏側にへばりついた過去の残響。クセノフォンは右手の親指の爪を、人差し指の腹に深く食い込ませる。乾燥した皮膚が容易く裂け、わずかな血が滲む。鋭い痛覚。痛覚だけが現在だ。


 善く生きる。そんな概念は、アルメニアの雪山で凍りついた馬の頸動脈を切り裂いた瞬間に完全に蒸発した。顔面に吹き付けた生温かい血。熱い血を貪り飲む男たちのけたたましい嚥下音。その音だけが絶対の真理だ。

 毒杯の底に溜まった緑色の泥。

 老人はそれを飲み干した。アスクレピオスに鶏を捧げろ。最後の言葉。鶏の肉。焦げた脂の匂い。グラム単位のタンパク質。偉大な老人も最後は肉の供物の要求に還元された。見事な唯物論の完成。


 男がまだ何かを喋り続けている。法の堕落。民主制の危機。無意味な音声の羅列。

 男の唇の端に、白い唾の泡が溜まる。泡が限界まで膨らみ、弾ける。プチッ。

 クセノフォンはその泡の弾ける微小な破裂音だけを正確に拾い上げた。


 内なる審判者。絶えず魂に問いを投げかける声。

 今、完全に死滅した。

 アテネの街は、ひどく静かだ。彼の中の一万人の怪物が踏み鳴らす、あの暴力的な地鳴りに比べれば、この街の喧騒はハエの羽音に等しい。

 こいつらは何も知らない。自分たちがすでに、銀貨で売り買いされる肉の相場に組み込まれている事実を。ペルシャの泥の中で剥き出しになった純粋な暴力の論理が、この白亜の都市の足元を完全に侵食し尽くしている現実を。


 胃の痙攣が収まらない。

 クセノフォンは腹を押さえた。革鎧の冷たさが、手のひらを突き抜けて腸の形を直接なぞる。


「おい、聞いているのか」


 男の油ぎった顔が近づく。未消化の豆の匂いがさらに濃度を増す。

 クセノフォンは男の胸ぐらを片手で掴み、無造作に突き飛ばした。

 男の背中が土壁にぶつかり、ドスという鈍い音が鳴る。男の顔に浮かぶ、怯えと混乱の入り混じった表情。ただの弱い肉。一ドラクマの価値もない廃棄物。


 歩き出す。

 すり減ったサンダルの底が、アテネの乾いた土を踏みしめる。ザク、ザク。

 もはや問いは発生しない。あるのは、次に行くべき場所と、消費すべきカロリーの計算だけだ。空っぽの胸の奥で、鉛色の冷たい血がゆっくりと巡り始める。

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