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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十五章:ソクラテスのいない空
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ピレウスの淀んだ水鏡

 タラップの湿った木板が、クセノフォンの体重で軋む。ギシ。

 板の表面に張り付いた白い塩の結晶が、サンダルの底で押し潰されて粉々になる。タラップを支える麻ロープは過剰に海水を吸い、黒く変色している。ロープの繊維の一本一本が毛羽立ち、空中で無意味に震えている。水夫の指の垢がべっとりと擦り付けられた結び目。


 すり減ったサンダルの底が、ピレウスの波止場を踏み抜く。

 数ヶ月ぶりの完全な陸地。三半規管の奥底で、まだ黒海の波が揺れ続けている。固定されたはずの地面が、脳髄の中でぐらりと傾く。陸酔い。胃の腑が持ち上がり、内耳のリンパ液が偏る嫌な眩暈。クセノフォンは両足を踏ん張り、無理やり重力を骨格に固定する。


 かつて白く輝いていた石畳は存在しない。

 足の裏を突き上げたのは、腐敗してゼリー状に崩れた海草の層と、黒く発酵した泥の塊だ。泥がサンダルの革紐の隙間から這い上がり、足の指の間に冷たく入り込む。ぬるぬるした不快な摩擦。右足の親指の付け根、バビロンの砂漠でできた分厚いタコの痕が、泥の冷気に反応して鈍く疼く。足首の腱が反射的にこわばる。


 視界の端で、巨大な木造の物体が水面に浮かんで上下している。かつてアテネの誇りだった三段櫂船の残骸。海水を吸って膨張した船腹には、白いフジツボが隙間なくびっしりとこびりついている。密集した石灰質の小さな管。管の先端が波を被るたびに微かに開閉する。網膜の裏側がむず痒くなる。緑色の藻の塊が木肌からだらりと垂れ下がり、だらしなく揺れる。波打ち際には、頭の潰れた銀色の小魚の死骸と、犬の糞が並んで漂着している。小魚の開いた口から、半透明の内臓がはみ出している。どうでもいい。クセノフォンは目を逸らした。


 波止場の向こうに連なる建物群。ペロポネソス戦争の爪痕。

 崩れ落ちた防壁の石の隙間から、黄色い花をつけた雑草が不気味なほどの生命力で顔を出している。漆喰の剥がれた酒場の壁には、誰かが排泄物を擦り付けた茶色い染み。


 港に充満する空気は重く淀んでいる。

 すれ違う男たちの群れ。彼らの皮膚は潮風と強い日差しでひび割れ、剥がれかけた薄皮が首筋に白くこびりついている。アテネの清潔なチュニックを着た市民はどこにもいない。誰もが異国の安い革鎧を纏い、腰に青銅の短剣をぶら下げている。ある男はペルシャ人の派手な赤いズボンを不格好に穿き、またある男はトラキア製の歪んだ兜を小脇に抱えている。

 男たちが動くたび、彼らの毛穴から揮発した体臭が風に乗る。安ワインのアルコール成分と、腐りかけた酢のすっぱい臭い。それが鼻腔の粘膜に直接張り付く。胃の底で、船上で食った固い干し肉の残骸が不快に波打つ。酸っぱいゲップが食道をせり上がる。クセノフォンは奥歯を噛み締めてそれを飲み込んだ。喉仏がごくりと上下する鈍い音。


「アテネの土だ」


 隣を歩いていた男が、ひどく掠れた声を絞り出した。バビロンからずっとついてきたトラキアの歩兵だ。男の鼻の頭には、治りかけの吹き出物が赤く腫れ上がっている。吹き出物の中心の白い膿の点。男が喋るたびに、その白い点が微妙に位置を変える。


「故郷の匂いがするだろう」


 男の口から漏れた息が、クセノフォンの頬を撫でる。生魚の内臓を何日も放置した悪臭。

 クセノフォンの網膜の裏側に、トラペズスで焼き払ったギリシャ人村落の炎が唐突にフラッシュバックする。豚の血でぬかるんだ土。悲鳴。燃える茅葺き屋根から舞い散る黒い煤。

 彼はゆっくりと首を横に振った。首の関節がコキリと乾いた音を立てる。


「いいや」


 声帯の振動が、冷え切った管を通って外へ出る。


「クレタ人の小便と、スパルタの銀貨の匂いしかしない。俺たちが略奪してきた村とまったく同じ臭いだ」


 トラキアの男は黙った。赤い吹き出物がピクピクと痙攣する。

 故郷。無償の愛国的献身。共同体。

 そんな概念は、アルメニアの雪山で凍りついたアカイア人の肉と一緒に、すでに胃袋の中で消化されて排泄された。


 目の前のピレウス港は、防衛網に守られた安全な揺りかごではない。

 ここにあるのは、日当を求めてうろつく武装した浮浪者たちの巨大な待合室だ。誰もが他人の肉を切り売りして小銭を稼ぐ機会を待っている。ペルシャの荒野で一万人の怪物がやっていた殺戮の計算式が、そのままこの港の石畳の上に持ち込まれている。


 すれ違った大男の肩の革紐が、クセノフォンの鎖骨にこすれる。ザリッ。

 硬い感触。男は謝りもせず、血走った眼球をぎょろりと動かしただけで歩き去る。男の背中に背負われた青銅の盾の表面に、赤黒い酸化した血の染みがべったりと付着している。血の染みの真ん中を、一匹の緑色のハエが歩き回っている。ハエは前脚を擦り合わせ、すぐに飛び立った。


 帰還。

 クセノフォンは足元の黒い泥をもう一度強く踏みつけた。泥が飛び散り、すね当ての金属部分にへばりつく。

 ここは終着点ではない。新しい狩り場の入り口だ。

 六千キロの泥と血を吸い込んだ一万人の暴力装置。その病の種子を内包したまま、ギリシャという巨大な肉体がゆっくりと腐敗のガスを放出している。かつてペルシャを撃退した誇り高き文明は、自らの手で銭と血の取引所へと姿を変えた。

 クセノフォンは肺の奥深くまで、そのすっぱいガスを吸い込んだ。内臓が冷たく収縮する。前進を止めた肉体は、たちまちこの泥の中に沈み込んでいくだろう。

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