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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十二章:海だ(タラッタ)!
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勝利という名の絶望

 潮風が顔面に叩きつけられる。

 皮膚の表面にこびりついていた汗の膜が、一瞬で蒸発した。顔の皮が急激に収縮する。左頬の三日前の引っ掻き傷が、頭蓋骨から直接引き剥がされようと引き攣る。痛いわけではない。顔面というただの肉の皮膜が、勝手に縮んで脳髄を外側から圧迫している物理的な不快感。

 両腕から一切の張力が消え失せた。

 重力。地球が質量の大きな物体を下に引っ張る単純な法則。それに逆らう筋肉の機能が突然オフになった。肩関節からぶら下がったただの重たい肉の棒。風が吹くと、爪の剥がれた右手の指先が微かに揺れる。自分の意思ではない。ただの振り子だ。


「帰れるな、ギリシャへ」

 横に立つ男の声帯が、乾いた摩擦音をひねり出した。男が笑う。乾燥した唇が無理にめくれ上がり、後退した歯茎が露出する。歯の根元の黄色い象牙質。そこに、細い緑色の繊維が挟まっている。なんだあれは。ネギか。いつ食った。アルメニアの極寒の雪山にネギなどなかった。バビロンの野営地からずっとあそこに挟まっているのか。繊維の端が、男の呼吸の風圧に合わせてピクピクと震えている。指を突っ込んで引き抜きたい。引き抜いて、そのまま男の濁った眼球に押し当てたい。無意味な破壊衝動が脳裏をかすめ、一瞬で消える。


「帰る場所など最初から無い」

 クセノフォンの喉が、冷え切った排気音を吐き出す。

「俺たちはただ、次の雇用主の庭先へ移動するだけだ」


 男の歯茎から笑いが消える。緑の繊維の震えが止まった。つまらない。


 肋骨の奥。

 心臓と呼ばれる内臓が、不気味なほどゆっくりと稼働している。ギシ、ギシ。熱い血液ではない。冷え切った鉛色の泥水を、全身の管に嫌々ながら押し出している圧迫感。

 アテネの法。ソクラテスの問答。あのアゴラに照りつけていた陽光。

 全てはあのバビロンの泥の上で、吐き出した酸っぱい胃液と一緒に腐敗した。ここに立っているのは、アテネの市民ではない。ただの巨大な生肉の塊を管理する、冷徹な卸売業者だ。

 六千キロを持ちこたえた一万個の欠陥品。石塚の周りで無意味に跳ね回っているあの獣ども。あれらをどこへ運ぶ。どう売りさばく。スパルタの将軍か、トラキアの王か。彼らはもはや、銀貨の重さと日々の麦粥でしか稼働しない完全な暴力装置に改造されている。


 下を見る。

 崖の底で、黒海が鈍く波打っている。

 波頭が崩れ、白い泡を海岸線に撒き散らす。ただの液体の塊が重力で落ちるだけの運動。

 救済。勝利。

 そんなものは、胃袋の痙攣と筋肉の疲労の前では完全に無効化された概念だ。彼らは眼前の障害を乗り越えた。確かにここまで歩いた。だが、歩き終わった先に待っていたのは、自分たちが永遠に金で買われるだけの分厚い肉の塊に落ちぶれたという、冷厳な事実の証明だった。


 永遠の労働。

 次の買い主が現れるまで、この獣どもに何かを食わせ続けなければならない。カロリーの供給が途絶えれば、この一万の胃袋はたちまち周囲の村を食い破る害虫と化す。略奪と暴力を再生産し続ける無限のループ。彼らはもう、剣を置くという機能を完全に喪失している。平和な市民に戻る回路は、とうの昔に物理的に切断された。


 風がさらに強くなる。

 足元の泥が急激に乾燥し、細かいひび割れを作っていく。ひび割れの形が、ペルシャ人の腸の並び方に似ている。思ったが、すぐに忘れた。

 クセノフォンはだらりと垂れた右手で、無意識に短剣の柄を握った。

 刃こぼれした青銅の冷たさが、掌の皮膚を刺す。痛覚。

 まだ動ける。

 次の市場へ。次の陳列棚へ。

 一万の暴力装置を引き連れて、彼はただ、足元のひび割れた泥を踏み潰す。

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