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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十二章:海だ(タラッタ)!
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鉛色の海(タラッタ)

 頂上の岩を掴む。

 引き上げた上半身に、物理的な質量を持った暴力的な風が真正面から激突した。

 冷たい。

 眼球の表面の水分が一瞬で蒸発し、角膜に微細な砂粒が直接突き刺さる鋭利な激痛。瞬きをする。無駄だ。すでに涙腺が完全に壊れている。両目から制御不能の液体が溢れ出し、凍りついた頬の汚れを溶かしながら急速に流れ落ちる。鼻腔の奥で粘膜が痙攣を起こし、黄色い鼻水が上唇のひび割れにべっとりと流れ込む。

 強烈な塩辛さ。

 血の味か、涙か、鼻水か。それらが全て混ざり合った不快な液体の塊を、クセノフォンは無意識に舌先で舐め取った。胃の底から、猛烈な酸の塊が食道を逆流してくる。

 数ヶ月ぶりに嗅ぐ塩の気配。それはかつてアテネで嗅いだあの穏やかなエーゲ海の芳香ではない。巨大な獣の腐乱死体が放つ、むせ返る磯の悪臭だ。胃液が口内に噴出する。クセノフォンは岩肌に突っ伏し、黄色い胆汁を泥の上にぶちまけた。


 顔を上げる。

 視界を埋め尽くすのは、鉛で出来た重々しい液体のうねり。

 黒海。エウクセイノス・ポントス。

 青い輝きなど微塵もない。ただ鈍く濁り、空の灰色の絶望をそのまま反射し、波頭から白く濁った唾液を散らしている。重い。途方もなく重い。この巨大な水たまりは、底の知れない泥の沼にすぎない。水面近くを低く飛ぶ灰色の海鳥の羽ばたきが、なぜかクセノフォンの網膜に不快なノイズとしてこびりつく。あの鳥は左の翼の先が少し欠けている。どうして右ではなく左なのか。海鳥が飛び去った後の虚空を、意味もなく三秒間見つめる。海鳥の羽毛の間に潜むシラミの数を想像し、ぞっとする不快感が背筋を駆け下りる。


「アテネの海より、ずいぶん黒くて不吉な色だな」


 横で息を切らしている男が言う。額の傷口から滲んだ血が、眉毛の毛根で乾いて黒いかさぶたを形成している。そのかさぶたの端が、喋るたびにわずかに浮き上がる。指で剥がしたい衝動。剥がせば新しい血が滲む。その血をこいつは舌で舐めるだろうか。クセノフォンは舌打ちをした。


「色なんてどうでもいい」


 喉の奥で痰が絡む湿った排気音。男の顔面に唾を吐きかけたい衝動を、奥歯を噛み締めて抑え込む。


「あそこに行けば、俺たちの肉を銀貨に換えてくれる商人がいる。それだけだ」


 黒い水。ただの物流の経路。

 ギリシャの美しい帰還。胃袋の痙攣の前で完全に無効化された幻覚。この海は救済ではない。ただの新しい市場の入り口だ。あの波の向こうには、武器商人や奴隷商人が、よだれを垂らして新しい在庫の到着を待っている。クセノフォンの脳髄は極度に冷え切った算盤を弾く。

 この六千キロを持ちこたえた一万個の暴力装置。これらをどこへ運ぶか。誰に売るか。一人あたりの肉の価格はいくらになるのか。


 海鳥の鳴き声。錆びたノコギリで鉄を挽く不快な摩擦音が鼓膜を引っ掻く。

 海だ。タラッタ。

 発狂した男たちが背後から次々と斜面を這い上がり、クセノフォンの横をすり抜けて絶叫し続ける。彼らはまだ気づいていない。自分たちが市民ではなく、永遠に金で買われるだけの分厚い肉の塊に落ちぶれた事実を。彼らはこの黒い液体の前で、ただ無意味に声を枯らし、塩風で喉を破壊し続けている。男たちの足元で、踏み砕かれたカタツムリの殻が白く粉砕される。その粉が風で舞い上がり、クセノフォンの睫毛に付着した。


 クセノフォンは再び胃液を吐き出した。

 今度は何も出ない。ただ強酸が喉の肉を焼くだけだ。鉛色の海が、彼の充血した網膜を容赦なく圧迫し続ける。水面がうねる。何トンもの水が持ち上がり、また落ちる。ただの物理現象。

 救済など最初から存在しない。

 新しい取引が、波の音とともに冷酷に開始されただけだ。風がさらに強く吹き付ける。クセノフォンの耳たぶの裏にこびりついた冷たい汗が、急速に体温を奪っていく。

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