伝播する獣のノイズ
「海だ」
その音列が、上方の岩肌から泥まみれの斜面を転がり落ちてきた。
海だ。海だ。海だ。
意味のある言語ではない。飢えた野犬が、腐りかけた肉の塊を見つけたときに喉の奥で鳴らす、下品で湿った咆哮の伝播。前の部品が吠え、後ろの部品がそれを模倣する。狂気が音波となって、張り付いた一万の肉塊を物理的に震わせる。
男たちの動きが急激に狂い始めた。
一定のリズムで稼働していたムカデの脚が、突如として制御を失い、痙攣的に前へ前へと這いずり出そうとする。斜面の秩序が崩壊する。右斜め前を登っていた禿頭の男が、突然立ち上がろうとしてバランスを崩した。男の足首が、下から登ってきた別の男の肩に激突する。
「海だ!海だ!海だ!」
下から突き上げられた男が、裂けた声帯から空気を絞り出して喚く。叫びすぎたせいで気管の粘膜が完全に破綻している。男の口の端から、ピンク色に染まった細かい唾液の泡が吹き出し、風にちぎれて飛んでいく。泡の一つがクセノフォンの目の前の岩にこびりつく。パチン。気泡が弾ける極小の破裂音。ひどく不快だ。そのピンク色のシミの形が、アテネの裏路地に転がっていた犬の死骸の耳の形に似ている。どうでもいい記憶が網膜をかすめ、即座に消去される。
前へ出ようとする暴力的な推進力。
上へ向かう圧力が限界を超えた。ピンクの泡を吹く男が、前の男の腰帯を力任せに引っ張る。前の男が振り返りざまに、背負っていた青銅の盾を振り回した。
ゴキャッ。
盾の縁が、泡を吹く男の顔面の中心に激突する。鼻柱の軟骨が完全にへし折れる、湿って潰れた不快な破裂音。男の顔面の中央が陥没し、どす黒い鼻血が顎を伝って胸の革鎧にぶちまけられる。それでも男は止まらない。折れた鼻から赤い血の塊を噴き出しながら、盾の男のすねに噛み付こうと四つん這いで突進する。男の前歯が青銅のすね当てにこすれて、キーッという甲高い金属音が鳴る。
「うるさい。ただのしょっぱい水だ」
クセノフォンの隣で、アカイア人が黄色い氷柱を揺らしながら吐き捨てる。
「あの水で俺たちの干からびた胃袋が膨らむのか!」
膨らまない。塩水は胃壁を荒らし、脱水を加速させる毒だ。海。帰還。アテネの栄光。すべては網膜の裏側にこびりついた古いカビに過ぎない。彼らが求めているのは、故郷の青い波ではない。これ以上、このすり減った軟骨を動かさなくて済むという物理的な停止命令。あるいは、その塩水の向こう側に、略奪可能な新しいカロリーの貯蔵庫が口を開けて待っているに違いないという、剥き出しの胃袋の欲望だけだ。
クセノフォンの股ぐらを、生温かい液体が伝い落ちる感覚。
尿だ。
極度の恐慌と、それを上回る異常な興奮がないまぜになり、膀胱の括約筋が完全に機能不全を起こした。制御できない。黄色い液体が、冷え切った太ももの皮膚を伝って流れ落ち、すり減ったサンダルの底の泥と混ざり合う。一瞬の温もり。すぐにそれは、氷点下の風にさらされ、鋭い刃物に変貌して皮膚の表面を切り刻む。自分の排泄物で凍傷を加速させる致命的なエラー。なぜ人間は膀胱という袋をわざわざ内蔵しているのか。液体を体内に貯めておくなど、重量の無駄でしかない。歩行機械には不要な欠陥器官だ。
だが、周りの肉塊どもも同じだ。斜面全体が、酸っぱいアンモニアの臭気で充満し始めている。彼らは完全に理性のストッパーを焼き切り、ただの巨大な消化器官と化して頂上へと殺到している。這い上がり、蹴落とし、他人の顔面を踏み台にする。
海だ。海だ。
意味の死滅した音の反復が、鼓膜を容赦なく殴り続ける。
クセノフォンは、岩角に引っ掛けた血だらけの指に力を込める。
鼻を折られた男が、そのまま自分に向かって転がり落ちてきた。クセノフォンは無表情のまま、男の顔面の傷口をサンダルの裏で踏みつけ、その反発力を利用して自分の身体を上に引き上げる。痙攣する肉の階段。
頂上は近い。
潮の匂いよりも先に、むせ返るような泥と血と尿の悪臭が、クセノフォンの肺胞を限界まで膨らませた。




