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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十二章:海だ(タラッタ)!
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酸素の枯渇と無機質な登攀

 右足。岩の突起。左手。黒ずんだ土。

 上昇。

 ただそれだけの反復運動。テケス山の斜面。岩の角が不規則に突き出した、人間の肉を削るためだけに存在する巨大な洗濯板。一万の部品がそこにべったりと張り付き、無意味な摩擦を繰り返している。


 すり減った革サンダルの底を、鋭利な石英の刃が下から突き破る。足の裏の硬化した皮が削り取られ、真皮が直接岩の表面に擦り付けられる。熱い痛み。摩擦熱が凍結していた神経を強引に叩き起こす。痛い。だが足は止まらない。


 クセノフォンの網膜には、すぐ前を這うトラキア兵のひび割れた踵だけがべったりと張り付いている。踵の垢の層。歩を進めるたびに、それが微細な粉となって剥がれ落ちる。粉が風に乗り、自分の鼻先をかすめる。払いのけるカロリーすら惜しい。トラキア兵の腰に巻かれた麻布は、右の臀部のあたりで不自然に裂けている。裂け目から覗く、凍傷で黒変した皮膚のたるみ。なぜあそこだけ裂けたのか。岩に引っ掛けたのか。それとも自分で破ったのか。その裂け目の形状が、妙に気になって仕方がない。三角形。いや、いびつな四角形だ。


 呼吸。

 薄い。空気が決定的に足りない。肺胞の奥底に冷たい気体を無理やりねじ込む。喉の奥で、ヒュー、ヒューと乾いた笛の音が鳴る。誰かの笛ではない。自分自身の気管が極度に収縮して発する、欠陥品の不快な排気音だ。吸う。吐く。そのたびに肋骨の内側を、錆びたヤスリでゴリゴリと削り落とされる感覚。


 指先が岩角を掴む。

 第一関節から先が黒ずみ、完全に温度を失っている。力を込める。メキッ。右手の人差し指の爪が、根元から綺麗に剥がれ落ちた。土の隙間に転がり落ちる黒い半月。血は出ない。血管はとっくに干からびている。爪がない肉の塊で、再び岩の出っ張りを引っ掛ける。指先の肉が凹み、中の骨が直接岩の硬さを検知する。鈍い圧迫感。


 前衛で何かが起こっている。

 上の方から、意味不明のノイズが降ってきた。絶叫。いや、絶叫ですらない。人間の声帯の限界を無視してひねり出された、粗雑で暴力的な音の連なり。

 ヒュヒュー。ヒュー。

 クセノフォンは息を吸う。

 斜面に張り付いた一万の部品たちが、一瞬だけ動きを止めた。前の部品が停止したから、後ろの部品もつられて停止する。巨大なムカデの連鎖的な機能停止。ただの物理的な伝播。


「前の奴らが喚いている。敵の伏兵か」


 左隣で、欠けっ歯のアカイア人が喘ぐ。男の顎からは、凍りついたよだれが一本の氷柱となってぶら下がっている。喋るたびにその氷柱が揺れ、顎の皮膚を不格好に引き攣らせる。


「どうでもいい」

 クセノフォンの声帯が、乾いた摩擦音をひねり出す。声帯を震わせる行為自体が、著しいエネルギーの浪費だ。


「槍を構えるカロリーの無駄だ。殺されるなら、寝たまま首を差し出す」

 そうだ。もう抵抗する意味すらない。筋肉を収縮させて青銅の槍を振り上げる作業と、首の動脈を掻き切られて肉体が冷えていく現象。脳の算盤は瞬時に後者の手間の少なさを弾き出す。死は恐怖ではない。単なる機能停止だ。


 アカイア人はそれ以上何も言わなかった。ただ氷柱を揺らし、再び岩に指を食い込ませる。


 ギャア。オオオ。

 上からのノイズが大きくなる。

 岩肌にこびりついた苔の緑色が、突然異常に鮮やかに網膜を刺した。クセノフォンの意識は突如、その苔の微細な胞子の並び方に吸い寄せられる。丸い。少し歪んでいる。親指の腹ほどの面積に、数え切れないほどの胞子が密集している。これを舐めれば、胃液の狂暴な酸っぱさを中和できるだろうか。舌を伸ばす。岩の絶対的な冷たさが舌先に触れる。味はない。ただ泥の微粒子が粘膜を傷つけるだけだ。何をやっている。


 前進。

 前の踵が動いた。だから自分の手も動かす。

 そこには希望も絶望もない。ただ、止まれば後ろから這い上がってくる別の肉の塊に踏み潰されるという冷酷な運動法則だけが稼働している。踏み潰されれば、肉は岩肌にすり潰されてシミになる。それだけのことだ。


 右足。左手。

 ヒュー。

 喉の笛が鳴り続ける。

 酸素が足りない。脳の血管が収縮し、視界の端から黒いノイズが浸食してくる。上からの叫び声が、次第に輪郭を持ち始めた。言葉。単語の断片。

 しかし、その単語を処理する機能は、クセノフォンの脳からすでに完全に切除されていた。

 今はただ、前のトラキア兵の踵の垢を見つめ、岩を掴むだけだ。爪の剥がれた指先が、再び鈍い音を立てて岩角に激突した。

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