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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十二章:規律という名の神
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血の句読点

 酸っぱい風が顔面を叩いた直後。

 クセノフォンは右腕の筋肉を伸縮させた。ただの物理的な動作の連なり。

 右腰に吊っていた青銅の短剣。柄に巻き付けた革紐は汗と脂で黒光りし、三番目の結び目が少し緩んでいる。なぜ結び目が緩むのか。親指の腹が常にそこに擦れるからだ。親指の腹の摩擦による革の摩耗率。どうでもいい。

 短剣が鞘から滑り出る。鈍い摩擦音。

 兜の男の顎の下。黄色い黄疸の眼球が、一瞬だけ見開かれた。

 アテネの弁論術は胃液の海に沈んだ。必要なのは、最も声の大きい肉袋の音の出る管を物理的に切断すること。それだけだ。

 短剣の刃が、男の喉笛に沈み込む。

 肉を切るというより、硬い筋膜を無理やり引き裂く嫌な抵抗感。男の首の皮膚の下には、長期間の飢餓でスカスカになった皮下脂肪の層があった。短剣の刃が気管の軟骨に当たって、ゴリッ、と鳴る。自身の指の関節を鳴らす時の音だと思ったが、すぐに忘れた。

 横に引き抜く。

 圧倒的な圧力の解放。

 切断された頸動脈から、どす黒い生温かい液体が猛烈な勢いで噴き出した。

 プシュッ。

 血の飛沫が、クセノフォンの右の頬にべったりと張り付いた。熱い。異様に熱い。飢えで冷え切った空気に触れて、血は一瞬でゼラチン状に凝固し始める。頬の皮膚が不快に引き攣る。酸化した古い釘を鼻の奥に突っ込まれた強烈な鉄の匂い。

 兜の男は悲鳴を上げなかった。上げるための管が切断されたのだから当然だ。

 彼は両手で自分の喉を押さえ、膝から崩れ落ちた。泥の上に倒れ込む。

 男の体が激しく痙攣を始める。

 酸素の供給を絶たれた脳髄が、無秩序な電気信号を四肢に送り続けるバグ。男の右足の踵が、地面の泥を何度も叩く。

 バチャ。バチャ。バチャ。

 不規則な打撃音。泥が跳ね上がり、男のひしゃげた兜の表面に茶色い斑点を作る。その斑点の一つが、兜の耳当ての曲がった金属の端に引っかかっている。なぜ丸い斑点ではなく、星型に跳ねたのか。泥の粘度と落下の角度。計算がずれた。猛烈にイライラする。


 周囲の三百の肉袋たちが、一斉に動きを止めた。

 彼らの黄色く濁った眼球が、泥の上で痙攣する男の踵の動きに釘付けになっている。

 クセノフォンは、青銅の短剣を見下ろした。

 刃こぼれした部分に、黄色い皮下脂肪の小さな塊がこびりついている。脂肪。貴重なカロリーだ。男の喉から削り取ったカロリーが、金属の表面で白く固まりかけている。それを親指で弾き飛ばす。泥の上に落ちて見えなくなった。無駄な消費。


「アテネの裁判もないのか……」

 群衆の後ろのほうから、震える声が漏れた。

 誰の声か探す必要もない。恐怖で声帯が縮み上がった、ただの反射的な音声。

 アテネの裁判。水時計。白い石と黒い石。

 満腹の市民がアゴラの石段に座って楽しむ遊戯。ここは泥と酸の底だ。

 別の男が、堰を切ったように泣き喚き始めた。

「あんたは狂ってる! 俺たちは腹が減ってるだけだ! 腹が減って、ただほんの少し肉を分けてほしかっただけだ! なのにいきなり喉を! 俺たちは市民だぞ!」

 極限状態における、卑屈な自己正当化と甘え。被害者ぶる醜悪な喉の震え。

 クセノフォンは頬に張り付いた血の塊を手の甲で無造作に拭い取った。手の甲の産毛に血が絡みつく。産毛の生え方が一定方向ではない。旋毛の形に渦を巻いている。その渦の中心に血の塊が乗った。なぜ渦を巻く。不快だ。


「今ここでお前の管を切り裂いたのが、俺の判決だ」

 クセノフォンは短く言い放った。

「それに市民の肉は硬くて不味い。馬のほうがずっとマシだ」

 弁明はしない。理由も説明しない。

 機械のバグを排除するための、最小コストのメンテナンス作業。

 三百の群れは、一人の男が喉から血を噴き出して痙攣するのをただ見下ろしていた。男の踵の動きが徐々に鈍くなる。

 バチャ……バチャ…………チュッ。

 踵が泥に吸い込まれ、ついに止まった。

 静寂。

 一万人の胃袋が同時に鳴る、グルグルという酸の音が窪地に充満している。

 クセノフォンは右手の短剣を下げたまま、次のバグを探すために三百の眼球を順にスキャンし始めた。

 彼の胃の不快な収縮は消えていない。

 だが、暴動という名の熱狂は、圧倒的で冷酷な物理的切断の前で急速に冷却された。ショートした神経回路が、切断された男の死体を基準点にして強制的にリセットされる。

 ただの作業の完了。泥の上の死体から立ち昇る湯気だけが、白く淀んだ空気の中でゆっくりと拡散していった。

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