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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十二章:規律という名の神
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胃酸の反乱

 泥。足。泥。足。

 ズチュ。ザク。


 左の脇腹の奥で、ジリッ、と音がした。

 胃酸だ。

 強烈な酸が、カラカラに乾いた胃の粘膜を直接焼いている。クセノフォンの臓器が、自分自身の肉を消化し始めた。強酸が胃壁の神経を削り取る鈍痛。唾液すら出ない。口の中は古い銅貨を三日舐め続けた後の味がする。

 アルメニアの雪は背後に消えた。だが、目の前に広がるのはひたすら灰色の岩肌と、凍結と融解を繰り返してひび割れた赤黒い泥の斜面だけだ。植物はない。ネズミ一匹の糞すらない。完全な無機物の底。

 一万個の胃袋が、ただズルズルと泥を引きずって移動している。

 隣を歩く男の横顔を見た。眼球が黄色く濁り、白目の部分に赤い毛細血管がヒビ割れた陶器の模様の形に浮き出ている。その血管の先が右斜め上に曲がっている。なぜ右だ。左じゃないのか。左に曲がっていれば明日ペルシャ王が金貨を降らせるのか。どうでもいい。

 男の口から漏れるのは呼吸音ではない。内臓が空気を求めて痙攣する、ヒュー、ヒューという湿った摩擦音だ。


 泥の中に、白い石があった。

 いや、石ではない。端がわずかに湾曲し、細かい多孔質の断面が覗いている。骨の欠片だ。犬か、山羊か、数日前に死んだ人間の脛椎か。

 トラキア人の軽装歩兵がそれに気づき、列を乱して泥の中に顔から突っ込んだ。素手で骨を掴む。だがその瞬間に、後ろを歩いていたボイオティア人がトラキア人の後頭部を青銅の盾の縁で力任せに殴りつけた。

 ゴッ。

 湿った土を叩く音。トラキア人が仰向けにひっくり返る。鼻の穴からドス黒い血が噴き出す。ボイオティア人がその上に馬乗りになり、泥にまみれた顔面を拳で何度も叩き潰す。

 パチン。

 顎の骨が縦に割れる、乾いた破裂音。

 木の実が弾ける音だと思ったが、すぐに忘れた。

 殴っている男の右手の親指の爪は、根本から半分剥がれかかっている。そこからドロドロに粘り気のある黒い血が、一撃ごとに飛び散る。その血がトラキア人の開いた口の中に入る。トラキア人は自分の顎を割った男の血を、舌で舐め取って嚥下した。カロリーだ。

 彼にとって痛みはもはや警告信号ではない。口内に流れ込んだ液体がタンパク質を含んでいる事実。それこそが絶対の真理だ。彼は血を飲み込み、そしてボイオティア人の指を食いちぎろうと泥だらけの歯茎を剥き出しにして噛み付いた。

 彼らはもう人間ではない。アテネの市民でもない。広場(アゴラ)で政治を語る口は、ただ他人の血を啜るだけの単なる管に退化した。タンパク質と脂質を奪い合う、競合する口。それだけだ。


「その革袋の中に何が入っている。見せろ」

 前列のほうで、掠れた声が響く。

 アカイア人の槍兵が、前の男の腰からぶら下がった黒ずんだ革袋をひったくろうとしていた。革袋の紐の結び目が、不格好な八の字になっている。右の輪のほうがわずかに大きい。あんな結び方では三歩歩けば解ける。なぜもっときつく縛らない。猛烈に腹立たしい。

 ひったくられた男は、窪んだ眼窩の奥で眼球をギョロリと動かした。唇の端が乾燥でぱっくりと割れ、喋るたびに細かい血の泡が弾ける。

「見たいか。触るな。俺の財産だ」

 男は革袋の口を解き、中身をごろりと泥の上にぶちまけた。

 黒く変色し、ミイラ化した三つの肉塊。

 人間の爪の跡がある。

「俺の切り落とした足の指だ。食うか?」

 男は泥だらけの指で、その黒い塊をつまみ上げた。

「生でもいける。凍傷で腐りかけた分、少し甘みがある。お前の持ってるその錆びた青銅のバックルと交換してやってもいい」

 アカイア人は泥に落ちたその黒い指を、しばらく凝視していた。彼の喉仏がゴクリと上下した。だが彼はすぐに手を引っ込めた。指は完全に干からびていて、脂が乗っていない。咀嚼するカロリーのほうが損だと判断したのだ。

 男は笑い、足の指を自分の革袋に大事そうにしまった。


 腹が減っている。

 クセノフォンの胃袋が、さらに強烈に収縮する。左の肋骨の下から背骨に向けて、太い青銅の釘を打ち込まれる激痛。胃酸が壁を突き破りそうだ。

 規律。

 ペルシャの追撃を振り切るための完璧なシステム。

 ただの幻想だ。

 胃酸がすべてを溶かしている。軍隊という全体生存のための巨大な機械は、外からのペルシャの矢によって壊れるのではない。内側に組み込まれた一万個の小さな酸の壺が、暴走して自らの部品を溶かし始めている。

 前を歩く男の背中。肩甲骨の下の筋肉の付き方。そこをナイフで削ぎ落とせば、何グラムの肉が取れるか。

 クセノフォンの脳髄は、無意識のうちに計算を始めている。肩甲骨の間の肉は硬い。ふくらはぎの方が歩行で鍛えられている分、噛み応えがあるはずだ。味の話をしているのではない。咀嚼回数が増えれば、脳が満腹感を錯覚する。ただそれだけの物理的なカロリー効率の計算。

 隣の男が俺を見ている。俺も奴の肉を値踏みし、奴も俺の肉の重さを量っている。

 ここはただの食肉の陳列棚だ。誰かが陳列棚をひっくり返し、陳列されている肉同士が互いを貪り食う。

 足元の泥が、急にぬかるむ。前の連中が恐怖で失禁した尿が泥と混ざり、強烈なアンモニアの臭いを放っている。

 胃の奥から酸っぱい塊がせり上がってくるが、吐くものがない。

 クセノフォンはただ、空っぽの空気を肺から押し出し、また吸い込んだ。

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