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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十一章:雪山の中の獣たち
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凍てつく歯車の王

 視界を埋め尽くす白。純白ではない。網膜を物理的に削り取る、光のヤスリだ。

 上も下もない。自分が巨大な白い胃袋の粘膜にへばりついているだけの錯覚。太陽はどこにもない。乱反射する光の粒子が、眼球の裏側に直接針を打ち込んでくる。涙腺が防衛反応を起こすが、涙は外気に触れる前に目尻で凍結する。瞬きをするたび、細かいガラスの破片が目の縁でジャリッと鳴る。網膜の破壊。眼球の凍結。どうでもいい。前さえ見えれば、目はただの光の受信機だ。


 右手。

 木製の槍の柄を握りしめている。

 指を開こうとした。関節の命令が筋肉に伝わらない。皮膚の表面角質層と、木の繊維が分子レベルで癒着している。極寒が作り出した完璧な接着剤。

 無理やり中指と薬指に力を入れる。

 メリッ。

 古い麻布を引き裂く乾いた音。手のひらの皮が、柄の側にベッタリと貼り付いたまま剥がれた。露出した赤い真皮。その瞬間、空気が鋭い刃物となって傷口を抉り、手首から肘、そして肩口まで猛烈な痛覚の電流が駆け上がる。

 だが、血は垂れない。

 滲み出た赤黒い液体は、一拍遅れて瞬時に黒い氷のプラグへと変質した。傷口を物理的に塞ぐ天然の止血栓。

 完璧な生体反応。

 この極寒の狂気は、人間の脆弱な肉体を容赦なくハッキングし、環境に適合したグロテスクな仕様へと強制的に書き換えている。痛覚は生存に不要なエラー信号だ。脳はそれを即座に遮断し、ただ肉の塊を維持する作業に専念する。


 俺は冷えた。

 腹の奥底。腸の裏側にこびりついていた最後の微熱が、完全に体外へ逃げていく。

 アテネの市場(アゴラ)で交わした熱狂的な弁論。プロクセノスの髪から漂っていた甘ったるい香油の匂い。ソクラテスの獅子鼻から噴き出していた温かい吐息。

 全部、凍りついて粉々に砕け散った。

 倫理。徳。市民の誇り。

 そんなものは、オリーブの木陰で腹を満たした豚たちが楽しむ娯楽だ。

 俺の脳髄に残っているのは、純粋な演算回路だけだ。

 カロリーの収支計算。歩行速度の維持。後方に迫るペルシャ追撃部隊との距離。

 ただそれだけを処理する、温度ゼロの命令装置。

 一万の肉塊を統率し、前へ押し出すための凍てつく歯車の王。それが今の俺だ。


 隣で、炙った肉片を飲み込んだばかりの男がゆっくりと立ち上がる。トラキア人の軽装歩兵。

 男の顎を覆う不潔なヒゲに、黄色い脂肪の塊がべったりとこびりついている。同胞の太腿から溶け出したカロリーの残滓。脂肪の重みで、ヒゲの毛根が下へ強く引っ張られている。引っ張られた顎の皮膚の毛穴。楕円形に歪んでいる。

 なぜ完全な円ではないのか。

 クセノフォンは、その楕円形の毛穴からどうしても視線を外せない。指先でその脂肪を弾き飛ばし、毛穴が元の円形に戻るかどうかを確認したいという猛烈な衝動。全体の行軍など放り出して、その毛穴の観察に数時間を費やしたい錯乱。

 ピントが狂っている。

 男がひび割れた口を開く。

「前に進む以外に道はないのか」

 男の口臭。腐敗したタンパク質と胃酸が混ざり合った強烈な発酵ガス。

 怯えだ。

 吹雪の壁の向こうに、終わりなど存在しないことを男の動物的な嗅覚が察知している。アテネの娼婦のベッドを夢見て雪に顔を埋める誘惑と、ただ無意味に歩き続ける苦痛の天秤。男の魂は今、その境界線で激しく痙攣している。


 クセノフォンは、皮の剥がれた右手で槍の柄を再び強く握り込む。

 傷口を塞いでいた氷のプラグがメリメリと音を立て、肉の奥深くまで食い込む鈍い感触。

「ない」

 彼の喉から飛び出したのは、声帯の震えではない。青銅の盾同士を力任せに叩きつけた、硬質で冷たい打撃音。

「俺の足跡だけが道だ。黙ってそれを踏んで歩け」

 言葉の意味など、どうでもいい。

 真理を語る必要もない。ただ、その絶対的な断定の響きが、怯える獣の脳髄に新しい首輪をガッチリとはめ込む。起爆装置のスイッチを押す。


 男は黙って首をすくめ、自分のサンダルの革紐を結び直した。

 紐の端が、三本にほつれている。

 昨日倒れたクレタ人の紐と同じだ。なぜどの紐も三本にほつれるのか。靴職人の悪意か。革の性質か。

 思考の脱線。どうでもいい。忘れた。


 立ち上がれ。

 クセノフォンは足元の硬い雪面を、石化したブーツで強く踏みしめる。

 ザクッ。

 一万の男たちが、その一つの音に反応して重い腰を上げる。

 膝の関節で凍りついた滑液が一斉に軋む。ギチギチ。バキバキ。巨大な木造船が嵐の中で悲鳴を上げる不快な合唱。

 彼らの顔に表情はない。死んだ仲間の肉を胃袋に流し込み、ただ物理的な熱量とタンパク質を補充しただけの生体機械。

 俺が、この巨大な機械のメインシリンダーだ。

 感情も、倫理も、悲哀も、すべてをアルメニアの吹雪の底に投げ捨てた理性の王。

 一歩。前へ。

 俺の足跡が雪に黒い泥の穴を開ける。

 後ろの男が、その穴を正確に踏む。また後ろの男が踏む。

 巨大なムカデが再び這い始める。雪の平原を削り取り、ただひたすらに質量を北へと移動させる暴力的な運動。

 胃袋の痙攣は一時的に収まっている。だが数時間後には、腸が再び燃料を要求して激しく暴れ出すはずだ。

 その時はまた、歩けなくなった部品の肉を削り出せばいい。

 極めて単純な算術。

 俺は一歩を踏み出す。左足の太ももの筋肉が収縮し、腱が引き伸ばされる。機械的な反復。

 白のノイズの中へ、ただひたすらに靴底の泥を擦りつけながら。

 世界を食いつくすための行軍が、また再起動した。

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