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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十一章:雪山の中の獣たち
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タンパク質の削り出し

 白と黒の斑点。視界の隅で点滅する飢餓のノイズ。

 雪の野営地。風の音が鼓膜を直接圧迫する。

 食料は尽きた。革袋の底の粉末すら、すでに誰かの胃酸が溶かし尽くした。


 炎の周り。男たちが車座を組む。

 中心にあるのは数時間前に機能停止したアカイア人の重装歩兵だ。

 死を悼む集まりではない。解体作業の順番待ち。

 トラキア人の軽装歩兵が、死体の右太腿に馬乗りになる。

 男の太腿はアルメニアの極低温で岩石に変質している。青黒い皮膚。その下の筋肉繊維が水分を喪失し、ガチガチの地層を形成した。


 トラキア人が青銅のナイフを突き立てる。

 ギギギ。キィィィィ。

 刃こぼれした金属が凍結したタンパク質のブロックを削り取る。甲高い摩擦音。歯の神経を金属ワイヤーで直接引っ掻き回される不快な高周波。

 肉の解体ではない。硬い樫の木を削る大工の作業だ。削り出された肉片は赤黒い木屑となり、雪の上にパラパラと落ちる。


 男は次に左腕にナイフを向ける。前腕部の筋肉。盾を構え続けた太い腕。トラキア人が力を込めると、凍りついた腱がパキッと乾いた音を立てて断裂した。断面に露出する、白濁した脂肪層と赤黒い筋肉のコントラスト。極寒の空気に晒されても一滴の血も垂れない。完璧に密閉された保存食のパッケージ。


 削り取られた腿肉の破片。

 厚さ二分の一インチ。不格好な楕円形。表面に青い静脈の残骸が細いヒビ割れとなって走っている。クセノフォンは、その青い線の分岐点がアテネの陶工街の路地の形と完全に一致している事実を網膜で確認する。三番目の角を右に曲がれば、安ワインの酒場がある。どうでもいい。路地の記憶は胃袋の強烈な痙攣で一瞬にして掻き消された。


 木の枝の先にその肉片を突き刺す。

 焚き火の貧弱な炎にかざす。

 熱。

 黒焦げになるまで炙る。タンパク質の急速な変成。焦げた髪の毛の悪臭。だが、すぐに別の匂いが立ち昇る。

 透明な脂。人間の太腿に蓄積されていたカロリーの結晶。

 炎の熱で溶け出し、肉片の表面にヌラヌラとした光沢を作る。

 ボト。ボトボト。

 脂が炎の中に滴り落ちる。火がジューッと爆ぜ、オレンジ色の火の粉が舞い上がる。


 トラキア人が、黒焦げになった肉片を枝から引き抜く。指先が火傷で焼け焦げている。痛覚はない。そのまま、ひび割れた唇の間に肉を放り込む。

 咀嚼。

 ガクッ。ガクッ。

 男の顎の関節が、油の切れた蝶番の音を立てる。極度に乾燥した筋繊維が唾液を奪いながら喉の奥へ押し込まれる。

「アカイア人の肉は筋張ってて不味い。トラキア人のほうが脂が乗ってる」

 男は歯に挟まった肉の繊維を指でほじくり出しながらぼやいた。喉仏が上下する。嚥下完了。


 隣で肉を炙っていた別の男が鼻で笑う。

「文句を言うな。俺たちの胃袋の中に入れりゃ、どっちもただのウンコになる」

 即物的な真理。

 神殿の祭壇で捧げられる牛の腿肉。かつての戦友の腿肉。

 分子レベルの構造に違いはない。アミノ酸と脂質。消化器官の蠕動運動の燃料。それだけだ。

 アテネの哲学者たちが顔を赤くして議論する倫理。禁忌。同胞を食う罪悪感。

 胃酸が分泌する酸っぱい匂いと一緒に、とうの昔に雪の上に吐き捨てた。カロリーの収支計算。今日生き延びるために必要なタンパク質のグラム数。計算式に感情の変数は存在しない。


 クセノフォンの手元にも肉片が回ってくる。

 冷たい。硬い物質。

 火にかざす。炎の揺らぎが肉片の表面の油膜を不気味に照らす。

 同胞の肉。

 昨日まで一緒にペルシャ兵に槍を突き出していた男の体の一部。アカイア人。名前は忘れた。盾を構えるとき、いつも右肩が少し下がる癖があった。その結果、右の背筋が異常に発達していたはずだ。背中の肉を削り出せば、もう少し柔らかい部位にありつけたかもしれない。思考は完全に食肉処理業者のそれだ。

 彼は肉片の端の焦げた部分を親指の爪で削り落とす。黒い炭の粉が親指の腹にこびりつく。その炭の粉のざらつきが妙に気になり、何度も指をこすり合わせる。ザラザラ。ザラザラ。

 完全にピントがずれている。

 肉を食う事実よりも、指先の炭の汚れが重大な問題として脳内を占拠している。


 口に入れる。

 硬い。ゴムの塊。

 奥歯で強く噛みちぎる。

 強烈な獣の臭み。血の酸化した鉄の味。古い汗の塩分。

 すべてが混ざり合い、強酸性の胃液が逆流する。喉の粘膜が焼け焦げる酸っぱいゲップ。

 顔をしかめず、機械的に顎を動かし続ける。

 右の奥歯。左の奥歯。

 細かくすり潰し、唾液と混ぜ合わせる。嚥下。

 食道を通って、冷え切った胃の底に重いタンパク質が落下する感触。

 ドン。

 内臓が歓喜の痙攣を起こす。熱が発生する。細胞がカロリーを吸収し、再び前へ進むための爆発の準備を始める。


「大腿骨は割れ。中の髄を啜るんだ。あれが一番カロリーが高い」

 クセノフォンの喉から号令が出る。

 指揮官の命令。

 男たちが一斉に石を拾い、硬く凍った大腿骨を叩き割る作業に取り掛かる。

 ガン、ガン、ゴッ。

 骨が砕ける音。断面から露出する黄色がかった白い髄液。男たちは素手でそれをすくい、顔中を脂でテカらせながら貪り食う。荒い鼻息。食事の風景ではない。巨大な生体機械への無慈悲な給油作業。


 死体の数は十分にある。

 歩けなくなった者。夜の間に雪に顔を埋めた者。

 脱落者ではない。部隊全体を推進させるための携帯用レーションだ。

 グラム単位で計量された燃料。

 クセノフォンは冷たい雪の上に座り込んだまま、次の肉片が削り出される音を聞いている。

 キィィィィ。

 その不快な金属音を、アテネの劇場の笛の音色に変換しようと試みる。

 失敗した。

 肉を削る音だ。それ以外の手触りはない。

 指先にこびりついた炭の粉を雪にこすりつけて洗う。冷たさが爪の間に突き刺さる。

 腹の底で消化器官が次の燃料を要求し、低く唸り続けていた。

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