甘い雪の誘惑
白。無限に続く石灰の粉末。
視界の上から下まで、ただ白のノイズが網膜をやすり掛けし続ける。
足を踏み出す。ブーツが雪に沈む。引き抜く。また沈む。膝の関節液が完全に凍結し、ガラスの破片が軟骨の間で擦れ合う不快な音がする。ギチ、ギチ。
一万の男たちが、そのガラスを擦り合わせながら等間隔で歩く。巨大なムカデの歩行。
だが、その等間隔の歯車から、ポロリと部品が欠落する。
クセノフォンの三歩前を歩いていた重装歩兵。クレタ出身の弓兵あがり。彼の背中の革袋が、突然右下に傾いた。
バサッ。
麻袋に詰めた小麦粉を乱暴に床に投げ出したような、ひどく無機質な音。
クレタ人はうつ伏せに雪に倒れ込んでいた。青銅の兜が雪に半分埋まり、後頭部の汚れた髪の毛が露出している。その髪の毛の一本一本が、すでに白い霜でコーティングされている。
男の背中は微動だにしない。
クセノフォンは立ち止まる。
肺袋が限界まで膨張し、氷点下の空気を一気に吸い込む。
冷気ではない。無数の極小の剃刀だ。鼻腔の粘膜を切り裂き、気管を通り、肺胞の裏側まで直接到達する。胃の腑、肝臓、腸の襞までが一瞬にして急速冷凍される。内臓が硬い氷の塊に変質し、重力に従って下腹部にドスンと落ちる感覚。
彼は胃液の酸っぱさを噛み殺しながら、倒れたクレタ人の横に立つ。
男の顔は横を向いている。雪に押し付けられた右の頬。
クセノフォンの視線は、クレタ人の左目に吸い寄せられる。
閉じられたまぶた。その短い睫毛。
睫毛の根元から先端にかけて、細かい氷の結晶がびっしりとこびりついている。ダニの卵のように白く不気味な粒の密集。男の体温が蒸発し、外気と触れた瞬間に凍りついたのだ。その氷の粒の一つが、妙にいびつな多角形をしている。六角形でも八角形でもない。欠けた石英の破片。なぜあんな形に凍るのか。クセノフォンはどうしてもそれが気になって、槍の石突きで突くのを一瞬ためらう。氷の粒。ただの凍った体液。それがアテネの彫刻家が彫った神殿の装飾よりも複雑な構造を持っているという無意味な事実。
「おい」
クセノフォンは槍の柄を握り直す。
「起きろ。ここで寝たらただの肉塊になるぞ」
石突きを振り下ろす。男の背中、肩甲骨の間。
ドスッ。
硬い。木製の丸太を叩いたような鈍い反発。青銅の鎧の下にあるはずの筋肉が、すでに弾力を完全に喪失している。血流が止まり、タンパク質が氷の塊へと置換されつつある強烈な手応え。人間の肉が発するべき柔らかい振動はゼロだ。槍を持った手首に、痺れるような痛みが跳ね返ってくる。
「……」
クレタ人の唇がわずかに動いた。ひび割れ、紫色に変色した唇の隙間から、黄色い歯垢がこびりついた前歯が覗く。
「放っておいてくれ。この雪の中はアテネの娼婦のベッドより温かいんだ」
かすれ声。だが、妙に滑らかな発音だった。
死の淵にいる人間の必死の懇願ではない。日曜の朝、二日酔いの頭で毛布を引き被るような、あっけらかんとした怠惰。
男の顔面には、苦痛の皺一つない。
極限の寒さが痛覚を焼き切り、最後にもたらす脳内麻薬の分泌。凍死の直前に訪れるという極上の安息。男の神経は今、幻影の娼婦の豊満な胸に抱かれ、体温という至福の沼に沈み込んでいる。
生存本能の完全な裏返り。
生きるための苦痛を継続するよりも、甘い雪のシーツに包まれて機能停止する方が、生体として圧倒的に快適であるという論理的帰結。
クセノフォンは靴底にこびりついた氷の塊を、男の兜の縁にこすりつけて落とす。ガリ、ガリ。
「そうか。お前のベッドは快適か」
彼はもう一度、槍を振り上げる。
今度は手加減なしだ。石突きの鋭利な部分を、男の腰椎の隙間に正確に叩き込む。
ゴッ。
骨と骨が衝突する嫌な摩擦音。
「痛ッ……!」
クレタ人の喉から、安息を無理やり引き剥がされた獣の呻き声が漏れる。脳髄に直接叩き込まれた物理的な痛覚が、娼婦の幻影を粉々に打ち砕く。
「立て。歩け。お前の体が腐ったら、後ろの奴らが躓く」
ただの経理上のメンテナンス作業だ。
一万の数字。そこから「一」を引くことは簡単だ。だが、この巨大なムカデの歩行リズムが狂う。一人が立ち止まれば、後ろの三人が立ち止まる。全体の速度が落ちる。ペルシャの追撃部隊との距離が縮まる。カロリーの消費効率が悪化する。
倒れた仲間への哀れみなど、そこには一ミリも介在していない。
彼の内側にあるのは、部品が機能停止すると全体のシステムに迷惑がかかるというひどく事務的な苛立ちだけだ。
クレタ人の背中にこびりついた雪が、槍の打撃でパラパラと崩れ落ちる。その一つが、クセノフォンのブーツの甲に落ちて溶けた。不快な冷たさが革を透過して足の甲にシミを作る。チッ。彼は無意識に舌打ちをする。
「お前はまだ在庫のリストから消えてない。自分の足で歩く機能が残っているなら使え」
クレタ人は四つん這いになり、嘔吐するような咳を繰り返しながらゆっくりと立ち上がる。左目の睫毛の氷が、まぶたの痙攣でポロポロと剥がれ落ちる。いびつな多角形の氷の粒も、泥まみれの雪の中に消えた。
男の瞳の焦点は合っていない。ただ、前に進む前の背中の汚れだけを虚ろに追従している。自動人形の再起動。
それでいい。
クセノフォンは空を見る。
病的に濁った灰色の空から、次々と甘い誘惑の白い粉が降ってくる。
男たちは次々とその誘惑に負け、雪に顔を埋めようとする。歩行という果てしない苦痛から逃れ、究極の無へと回帰しようとする猛烈な重力。
それを暴力で引き剥がし、痛覚を強制的に注入して歩かせ続ける。
生きる意志すら蒸発した肉の塊どもを、ただ運動させるためだけに殴りつける。
自分の肺が冷気で凍りつき、呼吸のたびに薄い氷の膜が割れるような音がする。バキ、バキ。
彼は再び歩き出す。
胃の奥底で、酸っぱい胃液がねじれるように動く。何もない空腹。
娼婦のベッド。
彼はその言葉を頭の中で反芻し、すぐに唾と一緒に雪の上に吐き捨てた。
黄色い粘液が雪に穴を開ける。
ただ、前の男のブーツの踵が跳ね上げる泥の飛沫だけを凝視する。
右。左。
歯車を回せ。
雪の甘い匂いが、鼻腔の奥にへばりついて離れなかった。




