頸動脈の蛇口
雪だまり。灰色の巨大な岩が沈んでいる。違う。馬だ。
四本の足という不要な支柱を雪の下に完全に折りたたみ、腹だけを露出させた巨大な革袋。表面の毛は完全に凍結し、無数の透明な針がツンツンと逆立っている。針の隙間から、わずかに白濁した排気が規則的に漏れる。まだ機能している。内燃機関が動いている。
アテネの市場で麦を引いていた誇り高き獣。あるいはどこかの貴族の愛馬。そんな情報は脳のゴミ箱に直行だ。
今、目の前にあるのは、摂氏三十八度の生体液を内包した自律駆動式の熱水タンク。それだけ。
トラキア人の軽装歩兵が近づく。片方のサンダルが完全に底抜けし、足の裏に直接ボロ布を縛り付けている男。彼は腰から青銅の短剣を抜いた。刃こぼれが酷い。柄の部分には、不格好な豊穣の女神らしき彫り物がある。乳房の形が左右で非対称だ。右の乳首がひどくすり減っている。親指をかける位置だからだ。どうでもいい。だがそのすり減った右乳房の滑らかさが、やけに鮮明に視界にこびりつく。
男は馬の首元に膝をつく。
短い腕のストローク。
刃先を、分厚い首の皮に押し当てる。
グズッ。
嫌な抵抗感。凍りついた毛と泥の層が刃を弾こうとする。男は体重をかけ、柄を両手で握り込んで強引にねじり込む。皮の下の脂肪層、そして筋繊維をブチブチと引きちぎる鈍い音。大工が腐った丸太に楔を打ち込むような、純粋に物理的な解体作業。
破裂。
圧力が解放された。
切断された頸動脈から、どす黒い液体が猛烈な勢いで噴射される。強烈な鉄の匂い。酸化した十円銅貨ではない、アテネの裏路地に転がる古い硬貨を口いっぱいに頬張ったような、甘ったるく生臭い暴力的な刺激が鼻腔の奥を殴りつける。
プシュー、プシュッ。
拍動に合わせて液体が空気を叩く。
男は持っていた青銅の兜を放り出し、両手を椀の形にしてその液体のアーチに突っ込んだ。
「熱ッ」
声にならない排気音。
氷点下の世界で、その赤い液体は異常なまでの熱量を保持している。喉の粘膜を確実に火傷させる熱。男は顔中を赤く染めながら、すくった液体をガブガブと胃袋に流し込む。
嚥下音。ゴク、ゴキュ。
顎を伝い、首筋を流れ落ちる赤い筋。鎖骨の窪みに血が溜まる。
周囲の雪が、ジュッという微かな音を立ててピンク色に溶け、そして数秒後には不気味な赤黒いシャーベットへと再凍結する。
後ろから、アカイア人が覆いかぶさる。
「こぼすな。地面に吸わせるくらいなら俺の顔にかけろ」
アカイア人はトラキア人の背中を肘で突き飛ばし、直接、馬の首の裂け目に口を押し当てようとする。
ドスッ。
トラキア人が振り向きざまに、血に濡れた拳でアカイア人の鼻柱を殴りつける。鼻血が噴出する。馬の血と人間の血が空中で混ざり合う。
「馬がまだ生きてるぞ」
アカイア人が鼻を押さえながら、血だらけの口を歪めて叫んだ。馬の巨大な眼球。茶色いガラス玉がギョロリと動き、太い脚が雪の中で無意味に痙攣している。蹄が空を切る。
「ちょうどいい。心臓が動いてるほうが血の出がいい」
トラキア人は歯に挟まった赤い粘液をペッと吐き捨て、再び両手を血の噴水に突っ込んだ。
ポンプだ。
クセノフォンは数歩離れた場所から、その光景を事務的に視認している。
感情の波はゼロ。凪。干からびた塩湖。
可哀想。残酷。長年連れ添った動物への哀れみ。
そんなものは、アテネの裕福な市民が日陰で冷たいワインを飲みながら楽しむ贅沢な娯楽だ。ここでは何の足しにもならない。むしろ、カロリーを浪費する致死性の寄生虫。
目の前にあるのは、ただの物理現象。
筋肉と臓器で構成された自動ポンプが、最後の燃料を使って赤い熱水を地表に汲み出している。それだけのこと。
血の出が悪くなれば、心臓というエンジンの寿命が尽きた証拠。そうなれば、次は筋肉という名のタンパク質ブロックを削り出す作業に移行する。手順は完璧に決まっている。そこに悲劇が入り込む隙間はない。
トラキア人が顔を上げる。
口の周りにこびりついた血が、外気に触れて急激に冷え、パリパリと薄い皮膜となって硬化している。男が顔の筋肉を動かすたびに、その赤い皮膜がメキメキとひび割れ、粉になって雪の上に落ちる。
赤いフケ。
クセノフォンは、男の顎から剥がれ落ちるその一枚の赤いフケの軌道を、やけに細かく目で追っている。風に煽られ、トラキア人のすり減ったサンダルの右側に着地した。サンダルの革紐の結び目には、泥と馬の糞がカチカチに固まっている。その上に赤いフケが乗った。ただそれだけの現象。意味はない。だが網膜はその異常なほどの細部を克明に記録し続ける。脳髄が過負荷で焼き切れるのを防ぐための、強制的なピントずらし。
「おい。ポンプの圧が落ちたぞ」
アカイア人が苛立たしげに馬の腹を蹴りつける。
ドス。ドス。
太鼓のような鈍い反響。馬の鼻から漏れていた白い排気が、プツリと途絶えた。茶色いガラス玉が完全に固定される。眼球の表面に、早くも薄い霜が降り始める。
自動供給機が停止した。
水分の補給の相終了。
「皮を剥げ。熱が逃げる前に肉を切り分けろ」
クセノフォンの喉から、乾いた摩擦音が飛び出す。自分の声ではない。この巨大な飢餓のシステムが、彼の声帯をただの出力スピーカーとして利用しただけだ。
男たちが一斉に青銅の刃物を抜き、肉の解体に取り掛かる。
肉塊に群がる肉塊。
刃と骨が擦れ合う、甲高い音の連続。
クセノフォンは自分の冷え切った胃の底で、さっき飲み込んだ自らの胃液が酸っぱいガスを発生させるのを感じた。腸が雑巾のようにねじれ、タンパク質を要求して暴れる。
腹が減った。
強烈な鉄の匂いが鼻腔を支配している。
彼は舌なめずりをして、自分の唇のひび割れから滲んだ血を舐めとった。塩辛い。そしてひどく冷たい。




