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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十一章:雪山の中の獣たち
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凍結した階級と燃えない湿木

 白の圧死。

 日没という概念はない。ただ、空間の明度が灰色の濁りから完全な黒の粘体へと移行しただけだ。吹雪。風が雪を叩きつける。顔面の皮膚に無数の細い針が突き刺さる痛覚。

 行軍停止。野営。

 雪を掘る。手首から先の感覚がない肉の棒で、固まった氷の層を引っ掻く。指先の爪が剥がれ、黒い血が雪を汚す。その血も一秒で凍る。

 火を熾す。

 死に直結した絶望的な土木作業。

 拾い集めた湿った木切れ。雪解け水をたっぷり吸い込み、中心部までグズグズに腐ったスポンジ。その表面の灰色の樹皮がめくれ上がっている。裏側に緑色のカビ。カビの繊維一本一本が極小の氷柱に覆われてツンツンと逆立っている。どうでもいい。だがその微細な氷のトゲが、火打ち石が火花を散らすたびに、網膜の裏側でチカチカと明滅する。

 カチン。カチン。

 火花の鈍い反射。

 誰の指だ。黒い垢と血が爪の間に地層のように固まっている。火打ち石を叩く指。指の関節が異常に膨れ上がり、皮膚が裂けている。

 火がつかない。

 ただ、嫌な匂いのする白い煙がジワリと立ち昇る。

 煙。

 容赦のない化学的な刺激。眼球の表面を直接塩もみされるような鋭い痛覚。涙腺が壊れたように液体を垂れ流すが、その涙が頬骨の上で即座に凍りつき、目の下に分厚い氷の隈取りを作る。


「吹け。もっとだ」

「肺が凍ってる。息が出ない」

 煙を吸い込む。肺胞の裏側まで、湿ったカビと酸っぱい木のヤニが入り込む。気管支が痙攣を起こす。

 ゴホッ。ゲホァ。

 肺袋が裏返り、喉から飛び出しそうになる猛烈な咳き込み。緑色に濁った粘液の塊が雪の上に吐き出される。雪を黄色く溶かし、すぐに表面がシャーベット状に固まる。


 チロ。

 微かな、本当に微かな赤い舌先。炎。

 熱。

 絶対的な指標。

 その瞬間、周囲の黒い肉塊が一斉に動いた。

 垢と羊脂と凍った鼻水でコーティングされた男たちの顔面が、頼りない赤い光にヌラリと照らし出される。眼球だけが異常な血走りを帯びて、炎の根元に釘付けになっている。

 陣取り。いや、殺し合いだ。

 熱量という絶対神への奉納儀式。


「おい、ここは隊長の席だ。どけ」

 赤いマント。擦り切れて泥だらけのボロ布。それを羽織ったクレタ人の百人隊長が、前に割り込もうと体をねじ込む。

 横から伸びてきた足。凍りついたサンダルの分厚い踵。

 ドン。

 隊長の膝の裏を容赦なく蹴り飛ばす。膝の関節が嫌な音を立てて逆方向に折れ曲がりそうになる鈍い衝撃。

「火に階級があるか。俺の冷え切った金玉を温めるのが先だ」

 蹴ったのは欠けっ歯の軽装歩兵だ。階級章など最初からない。あるのは、炎に1ミリでも近づこうとする巨大な質量だけ。


「退がれ。俺は隊長だぞ」

「うるさい。お前の階級章で火が燃えるのか。燃えるならそのマメ粒みたいな脳ミソごとくべちまえ」

 押し合い。肉と肉の摩擦。

 隊長が雪の上に仰向けに転がる。誰も助け起こさない。むしろ、空いた空間に三人の兵士が犬のように四つん這いで殺到し、炎に顔を押し付ける。近すぎる。前髪がチリチリと焦げ、動物の毛が燃える強烈なタンパク質の悪臭が漂う。だが誰も退がらない。皮膚が火傷で水ぶくれになろうが、熱を細胞に叩き込むのが最優先だ。


 クセノフォンは少し離れた場所から、その蠢く肉の団子を見下ろしている。

 胃の底で、冷え切った石がゴロゴロと鳴る。

 アテネの法。軍事的規律。指揮系統。

 数万の言葉で構築された見えない骨組みが、たった一つの小さな赤い炎の前で、あっけなくドロドロに融解した。

 権力とは何か。

 市場(アゴラ)での弁論か。王家の血筋か。

 違う。

 他人を火から突き飛ばすための腕力。それだけだ。

「火との距離」が、新しい階級を決定する。炎から一尺の距離にいる者が王であり、三尺離れた者は奴隷だ。一番外側で雪に埋もれて震える者は、すでに人間ではない。ただの冷凍肉の在庫だ。


 湿った木切れは燃えることを拒絶し続けている。

 シュウシュウと不快な音を立てて、内部の水分を煙に変えるだけ。炎は一向に大きくならない。

 男たちはその頼りない赤光を囲み、重なり合い、押し合い、肘で隣の男の肋骨を突き上げる。グシャ。誰かの鼻の軟骨が折れる音。血の匂い。

「押し出すな。火が消える」

「お前がどけ。お前の脂だらけの顔面を燃料にするぞ」

 言葉ではない。ただの排泄音。

 クセノフォンは自分の両手を見る。紫を通り越して白黒のまだら模様になった皮膚。関節は石のように固まり、動かすたびにメリメリと鳴る。

 火が欲しい。

 網膜の奥で、その原始的な欲望が明滅する。

 だが彼は飛び込まない。飛び込めば、自分もまたあの肉の団子の一部に成り下がる。規律の崩壊。指揮官の死。それは一万の怪物が完全に自律的な捕食者へと変質するスイッチだ。

 彼は冷え切った槍の柄を、石化した指で強く握り直す。

 指の腹と木目の間で、わずかに残った水分が凍りつき、皮膚を剥がそうとする痛覚。

 その痛みが、唯一の意識の繋ぎ目。


「火の番を二人決めろ。それ以外は一歩下がれ」

 クセノフォンの喉から、声帯の摩擦音ではない、冷たい青銅の反響音が飛び出した。

 肉の団子がピタリと止まる。

 充血した無数の眼球が、一斉に彼を睨みつける。殺意。純粋な熱量の奪い合いを邪魔する異物への憎悪。

「下がれと言った。従わない肉は、俺が火から切り離す」

 槍の石突きで、凍った地面を叩く。ガキン。硬質な響き。

 暴力の予感。

 火から遠ざかる恐怖よりも、いま目の前で槍に腹を貫かれる確率のほうが高いという即物的な計算。

 兵士たちが、渋々、数センチだけ体を後ろに引く。

 火の周りに、わずかな空間の歪みが生まれる。

 規律。

 それは徳でも法でもない。ただの殺戮の効率化。

 燃えない湿った木切れの上で、緑色のカビの氷柱が、チリチリと音を立てて溶け始めた。カビの死骸が焦げる匂い。胃酸が再び喉元までこみ上げる。飲み込む。

 炎は、相変わらず貧弱な舌先を震わせているだけだ。

 その赤い光の中で、クセノフォンは一万の獣の首輪を握り直す。冷え切った鎖の感触が、手のひらにへばりついて離れない。

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