表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十章:一万人の怪物
52/59

無秩序という名の牙

 乾燥した風が背後から土埃を運んでくる。土埃の中に、馬の蹄が地面を叩く微振動が混ざる。

 ペルシャの追撃部隊。

 空が突然、無数の黒い線を吐き出した。

 ヒュッ、ヒュッ。空気を切り裂く摩擦音。

 乾燥したバビロンの土に、鉄の鏃が突き刺さる。プスッ。カッ。石に当たって火花が散る。誰かのすね当てに矢が弾かれ、甲高い金属音が耳の奥で反響する。

 密集陣形。ファランクス。盾を重ねて亀の甲羅を作り、槍の壁で敵の突撃を待つ。それがアテネの軍事的教練。教本通りの防衛戦術。

 しかし、右翼の端で何かが千切れた。

 青銅の丸盾が、土の上に無造作に放り出される。

 欠けっ歯のトラキア人たち。軽装歩兵の群れ。彼らは教練の記憶を完全に胃液で溶かして排泄済みだった。

 彼らの眼球の焦点は、ペルシャ騎兵の戦術的動きには合っていない。彼らが見ているのは、騎兵の腕で下品に光る黄金の腕輪であり、騎兵が跨る馬の分厚い大腿の筋肉だ。馬肉。何日も飢えた胃袋が、極端な収縮を起こして脳髄に直接命令を下す。

 陣形が崩壊した。

 命令はない。合図もない。

 トラキア人たちが、一斉に陣を飛び出した。ただの汚れた肉の塊の突進。

 青銅の剣を頭上で振り回し、口の端から白い泡を飛ばしながら、彼らはペルシャの騎馬隊へ向かって全力で駆け出した。


 ペルシャの騎兵の顔に、明らかな戸惑いの痙攣が走るのが見えた。

 正規軍。彼らは相手が盾を構え、恐怖で後ずさることを計算式に組み込んでいた。

 だが目の前で起きているのは戦争の力学ではない。

 飢えた害虫の群れが、巨大な餌に向かって一直線に這い寄ってくる生理的現象だ。

 騎兵が弓を引く暇もない。

 一番先頭のトラキア人が、馬の首に直接飛びついた。剣で人間を刺すのではない。男は馬の首の動脈に、自分の持っていた短い鉄の刃をねじ込んだ。

 ブシュッ。

 熱い馬の血が、男の垢まみれの顔面を真っ赤に染め上げる。

 馬がいななき、前足を高く上げる。騎兵がバランスを崩し、落馬した。

 背中から土に叩きつけられる鈍い衝撃音。

 ペルシャ兵の装飾過剰な甲冑が、不格好に歪んで土に食い込む。兜の端についた赤い房飾りが、泥と血を吸って黒く変色する。その細部の変化。クセノフォンは冷え切った槍の柄を握りしめながら、その房飾りの染まり方だけを異常な執着で見つめていた。赤い糸が黒に変わる。それだけだ。


「陣形が崩れている。右翼が勝手に突出したぞ」

 横でアカイア人の部隊長が、甲高い声で叫んだ。彼の声帯は焦燥でひび割れている。唾液の飛沫がクセノフォンの左頬に付着した。拭わない。生温かい。不快だ。

「構うな」

 クセノフォンは、自分の口から出る声が、驚くほど平坦なことに気づいた。

「あいつらは鎖をちぎった狂犬だ。好きに噛みつかせろ。戦術より飢えのほうが強い」

 部隊長は目を剥いたが、クセノフォンはもう彼を見ていない。


 落馬したペルシャ兵の群れに、ギリシャの浮浪者たちが群がっている。

 軍事行動ではない。解体作業。

 男の爪の間に、ペルシャ兵の新しい血が入り込む。ねっとりとした赤い粘膜。男は悲鳴を上げる敵の顔面をすり減ったサンダルの踵で踏みつけ、腕輪を力任せに引きちぎる。腕輪が肉に食い込んでいたため、ペルシャ兵の皮膚ごと剥がれた。黄色い脂肪の粒が太陽の光を反射する。

 男はむしり取った黄金をすぐに口の中に放り込み、奥歯で噛んだ。純度の確認。それからまた、別の死体の衣服を剥ぎにかかる。

 馬の死体には別の数人が群がり、生の肉をその場で短剣で切り裂いている。湯気の立つ馬の内臓に素手を突っ込み、血まみれの肝臓を引きずり出す。彼らはそれを頭上へ掲げ、意味不明の奇声を上げた。


 ペルシャの正規軍は恐慌(パニック)に陥った。

 計算外の欲望。

 死を恐れないのではない。死の恐怖よりも、他人の肉を食い、黄金を奪うという純粋な略奪本能が圧倒的に凌駕している。

 統制された暴力は、無秩序な暴力の絶対的なカロリーの前に屈する。

 騎兵たちが慌てて馬首を返し、逃走を始める。背後を見せた敵の背中に、トラキア人たちが拾った石を投げつける。石が兜に当たるカーンという間抜けな音。

 勝った。

 戦術の勝利ではない。胃袋の勝利だ。

 クセノフォンは胃液が逆流するのを感じた。酸っぱい唾液を飲み込む。

 アテネの市民兵。誇り高きファランクス。

 その骨格は完全に溶け落ちた。寄せ集めの軍隊。規律の穴。

 だが、その「穴」こそが、この極限の生存競争において唯一の突破口となる。

 統制を失った浮浪者たちの剥き出しの欲望が、帝国軍の美しい戦術を物理的に噛み砕いたのだ。

 クセノフォンの内奥で、またあのどす黒い快感が蠢く。

 人間の底抜けの醜悪さ。それを指揮する自分。

 彼は泥まみれの部下たちが引きずってくる血だらけの馬肉の塊を見下ろしながら、右足の親指をサンダルの中で無意味に反らせた。土の冷たさが、足の裏から直接脳髄へ突き抜けていった。ただ、それだけだ。前へ進む。奪う。消化する。排泄する。巨大な歯車が、血の潤滑油を得て一気に回転速度を上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ