燃える天幕、削ぎ落とされる肉
火が点く。ただの燃焼運動ではない。一万人の過去を強制的に消去する物理的切断だ。
野営地の中央。ペルシャ太守が残していった豪華な天幕が、骨組みごと炎に包まれる。分厚いペルシャ絨毯が熱を食い、どす黒い煙を吐き出す。絨毯の端に金糸で刺繍された、頭の二つある鳥の模様。その鳥の目玉が熱で一瞬膨張し、チリチリと音を立てて真っ黒なイボへと収縮した。どうでもいい細部だ。だがクセノフォンの網膜には、その鳥の断末魔だけが異様な鮮明さで焼き付いた。
甘ったるい香料と獣脂の混ざった煙が、低く這いずり回る。肺の奥まで侵入してくる粘り気のある悪臭。気管支が拒絶反応を起こす。
男たちの充血した眼球から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。悲嘆ではない。煙の微粒子が粘膜を刺す純粋な物理的刺激。眼球が必死に異物を排泄しているだけだ。汚れた頬に、涙が白っぽい筋を引く。すすり泣きすら聞こえない。ただ、ゲホ、ゴホという湿った咳の連鎖。
「俺の銀の杯を燃やす気か」
煙の中から、間抜けな叫び声が鼓膜を叩いた。
見れば、シラクサ出身の小太りの男が、汚い麻布に包んだ塊を胸に抱え込んでいる。男の顎から垂れた脂汗が、布の表面に染みを作っている。
「投げろ」
クセノフォンは冷たく言い放つ。
「親父の形見だ。アテネの職人が打った銘品だぞ」
「銀は食えない」
隣にいた欠けっ歯のトラキア人が、小太りの男の鳩尾を槍の石突きで躊躇なく突いた。鈍い打撃音。男が「げぇ」と蛙の潰れた声を出して蹲る。その手からこぼれ落ちた銀の杯を、トラキア人は足の甲で器用に蹴り上げ、炎のど真ん中へ放り込んだ。
「荷物が重ければお前が死ぬ。お前の死体を運ぶ手間を省かせろ」
杯は熱の中で鈍く光り、やがてただの黒い金属の塊へと姿を変えた。
財産。ステータス。アテネの職人の誇り。
そんなものは、このバビロンの凍った土の上では、胃袋を膨らませるカロリーの足しにもならない。ただ歩行の推進力を削ぎ落とす重力だ。重量は死に直結する。
荷車が斧で叩き割られる。乾いた木の割れる音。車輪の輻が次々とへし折られ、焚き火にくべられる。
昨日まで兵士たちが生活と呼んでいた余分な布、予備の革紐、サイコロ、乾燥したイチジクの入っていた空の木箱。すべてが炎の餌になる。所有権の完全な放棄。
クセノフォンの胃の底で、得体の知れない快感が蠢いた。他人の大事な持ち物が灰に変わっていくのを見る、どす黒い優越感。俺たちは今、完璧に空っぽになろうとしている。内臓の裏側を直接撫で回されるような、卑劣な安堵。
ズルリ。
足元で泥を擦る音。
視線を落とす。這いつくばる男。ふくらはぎに矢を受け、傷口の周りが赤紫色に腫れ上がり、ブヨブヨと波打っている。切開された皮膚の間から、黄色い膿と黒ずんだ血が混ざって滲み出ている。強烈な腐敗臭。
男の指が、前を歩こうとするアカイア人のすり減ったサンダルの革紐に絡みついた。
「連れて行け。歩ける。俺はまだ歩ける」
男の指の関節が、白く変色するほどの異常な握力。爪の間に泥と他人の垢がびっしりと詰まっている。
アカイア人は無表情だった。ただ、右足を力任せに振り払う。
ブチリ。
サンダルの古い革紐がちぎれ、同時に這いつくばった男の親指の爪が根元から半分剥がれた。
赤い血が飛び散り、アカイア人のすね当ての青銅を汚す。
アカイア人は立ち止まらない。振り返りもしない。ただ一歩、北へ向かって足を踏み出しただけだ。
残された男は、剥がれた爪を押さえて声を殺して呻いている。
冷厳な事実。歩けない肉はゴミだ。機能しない部品。一万人の巨大なムカデから、壊れた足が一本切り離されただけのこと。
余分な捕虜が広場の隅に引き出される。女と子供は売れるから残す。歩行の邪魔になる怪我をしたペルシャ兵。青銅の剣が一閃する。
肉を断つ湿った音。首の断面から、白っぽい気管の軟骨が覗く。血が弧を描いて飛び散り、乾いた土に一瞬で吸い込まれる。血だまりすらできない。土の圧倒的な渇き。
クセノフォンは、肺の奥まで焦げた匂いを吸い込んだ。
過去の栄光。未来への蓄え。それらは今、この炎の中で完全に消滅した。
俺たちの肉体から人間という余分な装飾が削ぎ落とされた。
残ったのは、右足と左足を交互に前に出す歩行の機能。そして、前を塞ぐ肉体を槍で突き刺す殺戮の機能のみだ。
俺たちは、巨大な一つの動く胃袋だ。
燃え盛る炎を背に、一万の武装した浮浪者たちが北へ顔を向ける。
炎の熱で背中がチリチリと焼ける。だが彼らの顔に当たる風は、どこまでも凍りつくように冷たい。前進する準備は整った。肉体の軽量化は完了した。
クセノフォンは槍を高く掲げ、何も言わずにただ前方へ向かって振り下ろした。
ザク。
一万のサンダルが同時に泥を踏みしめる音。巨大な生体機械が、ゆっくりと、だが致命的な質量を伴って起動した。歩行が始まる。




