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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第十章:一万人の怪物
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多数決という名のカロリー計算

 夜が明ける。いや、ただ空の黒いカサブタが剥がれて、病的に白茶けた光がバビロンの凍った土の上に漏れ出しただけだ。

 気温。殺人的な冷え込み。すり減ったサンダルの革紐がカチカチに凍り、足首の肉に食い込んで微小な裂傷を作っている。痛覚はとうの昔に麻痺して、今はただひたすらに痒い。

 野営地の中央の窪地。四本の木の足が生えた不器用な台……いや、ただの壊れた荷車の残骸の上に、クセノフォンは立っている。彼が体重を移動させるたび、腐りかけた木板がギィギィと嫌な音を立ててしなる。

 見渡す。一万の肉袋。

 頭部を物理的に切断されたばかりの巨大なムカデの胴体が、行き場を失って蠢いている。

 男たちの口から、白い蒸気が断続的に噴き出している。何日もまともな固形物を胃に入れていないため、彼らの吐く息は純粋な酸素の交換ではなく、酸っぱい胃液のガスを排出する排気孔の役目しか果たしていない。一万個の酸っぱい息の塊が空中でぶつかり合い、淀んだ膜を作っている。

「アテネの弁論大会の真似事か。票の代わりに俺たちの命を数える気だ」

 最前列。欠けっ歯のトラキア人が、鼻の穴から垂れた青洟を手の甲で乱暴に拭いながら吐き捨てた。

「言葉で腹は膨れない。だが、あいつの言葉は一番効率よく他人の腹をかっさばく方法を知っている。そこに賭けるだけだ」

 隣のアカイア人が、首の後ろにできた吹き出物を掻きむしりながら答える。爪の間に黄色い膿が詰まる。彼はそれを軍衣の裾で無造作に拭い、また掻いた。

 民会(エクレシア)。民主主義。アテネの誇る崇高な政治システム。

 笑気ガスを大量に吸わされたような、場違いな滑稽さ。

 この凍りついた泥の窪地で、腹を空かせた高度に武装した浮浪者たちが多数決をやろうとしている。ペルシャ太守の刃がすぐ首筋まで迫っているというのに、彼らは「誰に従うか」を決めないと右足の一歩も前に踏み出せない。完全にプログラム化された家畜の習性。

 クセノフォンは胃の奥がひくひくと痙攣するのを感じた。吐き気ではない。ただ内臓が空っぽの空間を持て余して、勝手に収縮運動を繰り返しているだけだ。

 視線の端。足元に転がっている折れた槍の柄。その木目に染み込んだどす黒い血の染みが、奇妙な顔の形に見える。右目が大きすぎる不格好な顔。どうでもいい。すり減った踵で踏みつける。


 クセノフォンは声帯を震わせる。

 空気を肺の底から押し上げる、純粋な物理的労働。

「俺たちは帰る」

 声が出た。自分の声ではない。喉に張り付いた乾いた痰を無理やり削り落とすような、金属的なきしみ。

「太守は俺たちの頭を刈り取った。だが、胃袋は残っている」

 一万の眼球が、一斉にクセノフォンに突き刺さる。白目が黄ばみ、毛細血管が破裂して赤く染まった、汚いガラス玉の乱反射。

「ペルシャの犬どもは、俺たちがこのまま飢えて勝手に死ぬのを待っている。だが俺たちは死なない。俺たちは食う」

 真理ではない。ロゴスではない。

 ただのカロリー摂取の宣言。

「東も西も南も、すべて敵だ。残されたのは北の道だけだ。道じゃない。俺たちが踏み潰したペルシャ人の顔面が、明日の道になる」

 クセノフォンのこめかみの血管がドクドクと波打つ。脳髄に血が回っていない。猛烈な立ちくらみ。だが喋る。舌を動かし続けなければ、この一万の肉塊はただの腐肉に変わる。

「神は助けない。アテネの法もここまで届かない。俺たちを救うのは、お前らが今握っているその鉄の棒の先だけだ。俺がその棒の突き先を決める」

 唾が飛ぶ。凍った土の上にポツリと落ち、一瞬で乾燥して消える。

「俺の指揮で、明日他人の肉を食うか。それともここで自分の爪を齧って死ぬか。選べ」


 沈黙。

 風が、誰かの破れたマントをばたつかせる音だけがやけに大きく響く。

 民主主義。投票。

 白い石と黒い石を壺に入れる優雅な手続きはない。

 一人の男が、持っていた青銅の丸盾の表面を、槍の石突きで力任せに殴りつけた。

 ガァン。

 耳の奥の三半規管を直接針で刺されるような、鼓膜が破れそうな不快な高音。

 続いて、隣の男が叩く。

 ガァン。

 波が広がる。致死性の伝染病のように。

 ガァン、ガァン、ガガン、ガァン。

 一万人が一斉に金属を殴りつける。賛意。いや、ただの狂騒だ。恐怖と飢餓をごまかすための、物理的な音の爆発。

 空気が振動し、地面の小石が跳ねる。

 クセノフォンの足の裏に、その金属の振動が直接伝わってくる。腸がビリビリと震える。

 選ばれた。

 アテネの崇高な政治システムが、明日のカロリーを確保するための純粋な生存確率の計算式へと完全に劣化した瞬間。

 彼らはクセノフォンの理念に賛同したのではない。彼の言葉が、最も効率よく他者の内臓を引きずり出し、自分たちの胃袋を満たす機能を持っていると「計算」しただけだ。

 機能主義。純粋な肉の算術。


 クセノフォンは盾の狂騒を見下ろしながら、自分の唇の端が勝手に歪むのを感じた。

 卑屈な自尊心が泥の中から首をもたげる。

 俺は王になった。ソクラテスの問答など一生かかっても辿り着けない、絶対的な生殺与奪の頂点。

 一万人の命が、俺の舌の動き一つにぶら下がっている。

 なんという醜悪な優越感。なんという悪趣味な喜劇。

 彼は下腹部の奥で、ぞわりとした生温かい快感が広がるのを自覚した。膀胱のあたりが奇妙に熱い。失禁しそうなほどの高揚感が神経を焼く。

 盾の音は止まらない。

 金属の乱打が、バビロンの凍った空気を粉々に切り裂き続ける。

 耳鳴りが止まらない。キィィィィという甲高いノイズが脳髄を掻き回す。

 クセノフォンは右手を挙げた。

 ピタリと、一万の腕が止まる。

 完璧な制御。巨大な怪物の運動神経が、クセノフォンの脳髄と完全に接続された。

「火を起こせ」

 彼は荷車の上から吐き捨てた。

「荷物を燃やす。歩く機能以外のすべてを、今ここで灰にしろ」

 多数決は終わった。

 これより先、彼らをつなぎ止めるのは、言葉ではなく、焦げた肉と血の匂いだけだ。

 冷たい風が吹き抜け、クセノフォンの汗ばんだ首筋を不快に撫でた。鳥肌が立つ。彼は、自分が巨大なバケモノの脳味噌に成り果てた事実を、冷え切った胃の底でゆっくりと咀嚼していた。

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