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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第九章:首のない肉体と理性(ロゴス)
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神殺しの産声

「出発だ!」

 クセノフォンの声が、黎明の空気を引き裂いた。

 荷車から飛び降りる。泥が重く跳ね上がり、すり減ったサンダルの甲を汚す。

 もはや誰も立ち止まらない。

 一万の重装歩兵が一斉に槍を構える、大地を揺らす金属的な反響。

 ガシャン。ズシン。

 個々の恐怖は、巨大な一つの殺意のシステムへと完全に吸収された。

 夜明けの病的に白茶けた空。太陽はまだ姿を見せないが、地平線の端が白く濁り始めている。

 バビロンの冷え切った大気が、彼らの吐き出す白い息を不気味なもやのように漂わせる。


 クセノフォンは、野営地の中心に立つ。

 足元には、灰にまみれたプロクセノスの首。半分開いたカサカサの目玉が、相変わらず無意味に上を向いている。

 彼は、その首をまたいだ。

 視界の端にも入れない。

 ただの障害物。歩行の邪魔になるだけの、5キログラムの生ゴミ。

 一瞥もくれず、前へ踏み出す。


「隊列を組め! 盾を重ねろ!」

 各隊の隊長たちが、クセノフォンの命令を復唱し、怒号を飛ばす。

 昨夜のパニックで味方を切りつけた男も、震えて失禁していた男も、今はただの無表情な歯車として所定の位置に収まっている。

 彼らの手には、冷え切った青銅の槍。

 穂先に結露した水滴が、土に落ちる微かな音。ポツリ。

 それは、彼らが流すことのなくなった涙の代用品だ。


 クセノフォンの右隣。

 顔の半分を血で染めた年配の隊長が、重い丸盾を構えながら並走する。

「若いの」

 しゃがれた声。

「アテネの法は消えた。ペルシャの契約も消えた。これから俺たちは、何を法として歩くんだ」

 男の口調には、もう反抗の色はない。

 ただ、システムを駆動させるためのパラメータの確認。

 クセノフォンは前を見たまま、槍の柄を握り直す。

 木の繊維が、手のひらの皮に完全に食い込んでいる。接着。

「法はどこにある」

 クセノフォンの唇が薄く歪む。

「俺の槍の届く範囲だ。それ以外はすべて敵だ」

 冷徹な定義。

 神の意志も、国家の枠組みも、道徳的善悪も存在しない。

 物理的な射程距離だけが、唯一の絶対的真理ロゴスとなる。

「俺たちが踏み潰した跡が道になり、俺たちが奪った肉が血肉になる。殺して奪え。それが我々の新しい法だ」


 決断の完了。

 神殺しの産声。

 ゼウスの加護を騙りながら、クセノフォンの内面ではすでにすべての神が屠られている。

 神も法もない広大な空白の空間で、彼の理性が、暴力の絶対法則として君臨する。

 受動的な被害者(商品)から、能動的な略奪者の王(害虫の頭目)への完全な反転。

 一万の肉塊は、もはや帰還の希望を胸に抱く哀れな傭兵ではない。

 彼らは、六千キロの道のりにあるすべてを食い尽くす、一つの巨大な怪物として生まれ変わった。


 ザク、ザク、ザク。

 一万の足音が揃う。

 歩行という単純な物理運動が、圧倒的な質量を伴って大地を削り始める。

 退路は完全に絶たれた。

 背後には、首を失った友の肉片と、燃え尽きた野営地の残骸。

 前方には、果てしなく続く敵国の荒野と、無限の飢え。

 クセノフォンは肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、そして、暴力の推進力となる最初の呼気を吐き出した。

 巨大な怪物が、血塗られた六千キロの帰還の道へと、その重い一歩を踏み出した。

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