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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第九章:首のない肉体と理性(ロゴス)
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起爆装置としての理性(ロゴス)

 ウオォォォン。

 バビロンの冷たい風が、一万の恐慌(パニック)を乗せて地を這う。

 火の粉が舞い、青銅の武器が同士討ちでぶつかり合う鈍いノイズ。

 クセノフォンは、野営地の中央にある荷車の残骸に足をかけた。

 すり減ったサンダルの底が、ひび割れた木の車輪の軸にガリッと食い込む。

 一段高い場所。物理的な優位性。

 彼は深呼吸をした。

 さきほどの嘔吐で傷ついた気管の粘膜が、乾燥した冷気に晒されてヒリヒリと痛む。

 肺胞が限界まで膨らむ。肋骨が内側からギリギリと軋む。

「聞け!!」

 声帯の強烈な振動。

 肺の底から空気を絞り出す、ただの物理的な圧力波。

 だが、その音量は、周囲で争っていた数十人の動きをピタリと止めるだけの質量を持っていた。

 裂けた下唇から滲んだ血が、塩辛い味とともに舌の端に広がる。


「泣き叫ぶな! 互いの肉を削り合うな!」

 クセノフォンは、手に持った槍の石突で、足元の車輪をガンガンと叩きつけた。

 木と金属の激突音が、周囲の鼓膜を無理やり叩く。

「太守は俺たちの頭を切り落とした! だからどうした!」

 一人の男が、血走った目でクセノフォンを見上げた。

「どうしただと? 俺たちは終わりだ! 契約は破棄された! ペルシャの王が俺たちを皆殺しにする!」


 クセノフォンは男を指差した。

「皆殺し? 誰が誰を殺す? あの天幕で震えている太守が、俺たち一万の密集陣形(ファランクス)を正面から砕けるか! 砕けないから、騙し討ちで将軍たちの首だけを盗んだんだ!」

 論理のすり替え。

 恐怖のベクトルを、ペルシャへの怒りと己の強さの錯覚へと強制的に向ける。

「我々はアテネの法を失った! キュロスの金貨も消えた! だが、お前たちの手に握られているその青銅の重さはどうだ! 軽くはなっていないはずだ!」


 ざわめき。

 恐慌(パニック)の波が、一瞬だけ淀む。

「ゼウスは我々を見捨てていない!」

 クセノフォンは天を指差した。病的に白茶けた夜明け前の空。そこには星も神もいない。ただの真空だ。

「神はペルシャの裏切りを罰する! 誓いを破った太守の首を、我々の槍で突き刺すことを望んでおられる!」


 荷車の横で、顔の半分を血で染めた年配の隊長が立ち上がった。

「嘘をつけ、若造が!」

 隊長は、折れた剣の柄をクセノフォンに投げつけた。金属の塊が、クセノフォンのすね当てにガキンと跳ね返る。

「お前がゼウスを捏造して、俺たちに槍を握らせる気だろ! アテネの詭弁で、俺たちをまた地獄の底へ歩かせる気か!」


 クセノフォンはすね当ての痛みを完全に無視し、隊長を見下ろして笑った。

 口の端が吊り上がり、血が再び滲む。

「そうだ」

 声のトーンを落とす。だが、その声は異様なまでの重低音を響かせ、周囲の男たちの耳の奥にねっとりと絡みついた。

「俺の嘘で、お前らの胃袋を満たしてやる」


 沈黙。

 風の音だけが間を埋める。

「神がいるかどうかなんて、俺にはどうでもいい」

 クセノフォンは、野営地全体に響くように、ゆっくりと言葉を区切った。

「だが、お前らがその場に這いつくばって泣いている限り、明日の朝飯は一粒も手に入らない。ゼウスという嘘が、お前らの足を一歩前に進めさせ、隣の男と一緒に槍を構えさせるなら、俺は何度でもゼウスの名を騙る!」


 真理(ロゴス)の完全な放棄。

 言葉(ロゴス)は、もはや世界の真実を解き明かすための鍵ではない。

 それは、一万人の脳髄に「前進」と「殺意」というコマンドを強制入力するための、純粋な起爆装置(トリガー)

「俺は嘘をつく! だが、お前らがその嘘に乗って槍を突き出せば、ペルシャの倉を破り、羊の肉を奪い、胃袋を膨らませる『現実』が手に入る!」


 隊長は口を半開きにしたまま、反論の言葉を見失っていた。

 クセノフォンは槍を高く掲げた。

「神はいないかもしれない! だが、我々一万人の暴力はここにある! 我々が動けば、それが新しい法になる! 我々が食い荒らす道が、新しい国になる!」

 起爆装置のスイッチが、カチリと押し込まれた。

 言葉のウイルスが、極限の飢餓と恐怖に震える男たちの細胞に、猛烈な勢いで感染していく。

 クセノフォンの網膜に、一万人の目の色が、怯えから剥き出しの狂気へと反転していくプロセスが明確に映し出された。

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