家畜か、害虫か
「ひぃぃ!」
足元の暗がりから、突然、鋭い金切り声が爆発した。
泥の中にうずくまっていた若い男が、頭を抱えて痙攣している。
彼の右太ももには、さきほどのパニックで誰かの槍の穂先がかすった浅い裂傷がある。血はすでにゼリー状に固まりかけているが、男の震えは止まらない。
両手のひらで、自分の両膝を外側から強引に押さえつけている。
爪が革鎧の端を引っ掻き、ギリギリと嫌な音を立てる。
「ペルシャだ……太守様が来る……皆殺しだ……」
男は自分の恐怖を、物理的な圧力で封じ込めようとしている。だが、震えは骨を伝わり、地面の小石をカタカタと鳴らしている。
クセノフォンは、その男を見下ろした。
視覚的入力。
白く変色した男の指の関節。
過呼吸で上下する胸郭の不規則なリズム。
喉の奥から漏れる、ヒュー、ヒューという湿った気管のノイズ。
そこに同情はない。ただの「故障した部品」の挙動確認。
「ペルシャに……」
男が顔を上げる。泥と涙と鼻水で顔面がコーティングされ、人間というよりは不格好な粘土細工のようだ。
「降伏しよう……武器を捨てて、這いつくばって……そうすれば、殺されない。飯がもらえる……」
奴隷。
いや、この状況での降伏は、奴隷という身分すら保証されない。
ただの「声帯のついた肉」としての完全譲渡。
王の庭で、気まぐれに餌を与えられ、飽きられれば首を刎ねられる絶対的な家畜への志願。
クセノフォンの喉の奥。
さきほどの嘔吐で傷ついた粘膜に、血と埃の混じった痰がへばりついている。
カァッ、ペッ。
彼はそのざらついた塊を、男のすぐ横の泥に吐き捨てた。
黄色い痰が、月光を反射してヌラリと光る。
「俺たちは、世界で二番目に古い職業だ」
クセノフォンの声は、自分でも驚くほど低く、ひび割れていた。
声帯の摩擦が、ダイレクトに耳の奥へ響く。
「体を売って、何が悪い……そう言いたいのか」
男は必死に頷いた。
「そうだ! アテネの誇りなんて、クソの役にも立たねえ! 俺は生きたい! 家畜でもいい!」
男の口から飛んだ唾が、クセノフォンのすね当てに張り付く。
「馬鹿か」
クセノフォンは、槍の石突を男の顔の数センチ横の泥に、ズブリと突き刺した。
「ヒッ」
男が息を飲む音。
「首のない体を買う物好きはいない」
クセノフォンは、柄を握ったまま男を見据える。
「太守が買ったのは『将軍たちの首』だ。俺たちのような手足の肉は、買い叩かれるどころか、ただの在庫処分の対象だ。お前は家畜になれると思っているが、向こうにとってお前は、ただの『駆除すべき害虫』だ」
市場価値は完全にゼロ。
商品としての耐用年数は、プロクセノスの首が切り落とされた瞬間に終了した。
彼らはもはや、雇い主に労働力を提供する契約労働者ではない。
「なら、どうしろって言うんだよ!」
男が泣き叫ぶ。
「俺たちは、自給自足の強盗になる」
クセノフォンの脳内で、論理の歯車が完全に噛み合った。ガキン。
奴隷としての生存を乞う受動的な肉袋か。
それとも、自らの意志で他者を食い破る能動的な暴力装置(害虫)になるか。
選択肢は二つしかない。
そして、前者の生存確率はゼロだ。
「強盗……」
男が呆然と呟く。
「そうだ。ペルシャの王が俺たちを養わないなら、俺たちが王の領土を食い荒らす。村を焼き、倉を破り、女を奪い、飯を食う」
契約による労働からの転落。
それは道徳的な堕落ではない。
純粋なカロリー摂取のための、最も効率的なシステムの構築。
クセノフォンは、男の胸ぐらを片手で掴み、強引に引きずり起こした。
「立て」
男の膝がガクガクと笑っている。
「お前が生き残る道は、這いつくばって餌を待つことじゃない。前の奴の背中を見て、横の奴と一緒に槍を前に突き出すことだ。それ以外に、お前の胃袋を満たす方法はこの世界に存在しない」
クセノフォンは男を突き放した。
男はよろけながら後退し、尻餅をつく。
だが、その目からは先ほどの完全なパニックの色が、ほんの少しだけ薄れていた。
代わりに、得体の知れない暴力の論理に対する、微かな感染の兆候。
クセノフォンは男から視線を外し、混沌とする野営地全体を見渡した。
一万の肉の塊。
これを、ただの烏合の衆から、一つの巨大な「意志を持った害虫」へとクラスチェンジさせる。
そのためには、言葉の機能を変異させる必要がある。
真理を語るための道具ではない。
殺意を伝播させるための、ウイルスとして。




