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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第九章:首のない肉体と理性(ロゴス)
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家畜か、害虫か

「ひぃぃ!」

 足元の暗がりから、突然、鋭い金切り声が爆発した。

 泥の中にうずくまっていた若い男が、頭を抱えて痙攣している。

 彼の右太ももには、さきほどのパニックで誰かの槍の穂先がかすった浅い裂傷がある。血はすでにゼリー状に固まりかけているが、男の震えは止まらない。

 両手のひらで、自分の両膝を外側から強引に押さえつけている。

 爪が革鎧の端を引っ掻き、ギリギリと嫌な音を立てる。

「ペルシャだ……太守様が来る……皆殺しだ……」

 男は自分の恐怖を、物理的な圧力で封じ込めようとしている。だが、震えは骨を伝わり、地面の小石をカタカタと鳴らしている。


 クセノフォンは、その男を見下ろした。

 視覚的入力。

 白く変色した男の指の関節。

 過呼吸で上下する胸郭の不規則なリズム。

 喉の奥から漏れる、ヒュー、ヒューという湿った気管のノイズ。

 そこに同情はない。ただの「故障した部品」の挙動確認。


「ペルシャに……」

 男が顔を上げる。泥と涙と鼻水で顔面がコーティングされ、人間というよりは不格好な粘土細工のようだ。

「降伏しよう……武器を捨てて、這いつくばって……そうすれば、殺されない。飯がもらえる……」

 奴隷。

 いや、この状況での降伏は、奴隷という身分すら保証されない。

 ただの「声帯のついた肉」としての完全譲渡。

 王の庭で、気まぐれに餌を与えられ、飽きられれば首を刎ねられる絶対的な家畜への志願。


 クセノフォンの喉の奥。

 さきほどの嘔吐で傷ついた粘膜に、血と埃の混じった痰がへばりついている。

 カァッ、ペッ。

 彼はそのざらついた塊を、男のすぐ横の泥に吐き捨てた。

 黄色い痰が、月光を反射してヌラリと光る。

「俺たちは、世界で二番目に古い職業だ」

 クセノフォンの声は、自分でも驚くほど低く、ひび割れていた。

 声帯の摩擦が、ダイレクトに耳の奥へ響く。

「体を売って、何が悪い……そう言いたいのか」


 男は必死に頷いた。

「そうだ! アテネの誇りなんて、クソの役にも立たねえ! 俺は生きたい! 家畜でもいい!」

 男の口から飛んだ唾が、クセノフォンのすね当てに張り付く。


「馬鹿か」

 クセノフォンは、槍の石突を男の顔の数センチ横の泥に、ズブリと突き刺した。

「ヒッ」

 男が息を飲む音。

「首のない体を買う物好きはいない」

 クセノフォンは、柄を握ったまま男を見据える。

「太守が買ったのは『将軍たちの首』だ。俺たちのような手足の肉は、買い叩かれるどころか、ただの在庫処分の対象だ。お前は家畜になれると思っているが、向こうにとってお前は、ただの『駆除すべき害虫』だ」


 市場価値は完全にゼロ。

 商品としての耐用年数は、プロクセノスの首が切り落とされた瞬間に終了した。

 彼らはもはや、雇い主に労働力を提供する契約労働者ではない。

「なら、どうしろって言うんだよ!」

 男が泣き叫ぶ。

「俺たちは、自給自足の強盗になる」

 クセノフォンの脳内で、論理の歯車が完全に噛み合った。ガキン。

 奴隷としての生存を乞う受動的な肉袋か。

 それとも、自らの意志で他者を食い破る能動的な暴力装置(害虫)になるか。

 選択肢は二つしかない。

 そして、前者の生存確率はゼロだ。


「強盗……」

 男が呆然と呟く。

「そうだ。ペルシャの王が俺たちを養わないなら、俺たちが王の領土を食い荒らす。村を焼き、倉を破り、女を奪い、飯を食う」

 契約による労働からの転落。

 それは道徳的な堕落ではない。

 純粋なカロリー摂取のための、最も効率的なシステムの構築。


 クセノフォンは、男の胸ぐらを片手で掴み、強引に引きずり起こした。

「立て」

 男の膝がガクガクと笑っている。

「お前が生き残る道は、這いつくばって餌を待つことじゃない。前の奴の背中を見て、横の奴と一緒に槍を前に突き出すことだ。それ以外に、お前の胃袋を満たす方法はこの世界に存在しない」

 クセノフォンは男を突き放した。

 男はよろけながら後退し、尻餅をつく。

 だが、その目からは先ほどの完全なパニックの色が、ほんの少しだけ薄れていた。

 代わりに、得体の知れない暴力の論理に対する、微かな感染の兆候。


 クセノフォンは男から視線を外し、混沌とする野営地全体を見渡した。

 一万の肉の塊。

 これを、ただの烏合の衆から、一つの巨大な「意志を持った害虫」へとクラスチェンジさせる。

 そのためには、言葉(ロゴス)の機能を変異させる必要がある。

 真理を語るための道具ではない。

 殺意を伝播させるための、ウイルスとして。

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