表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第九章:首のない肉体と理性(ロゴス)
45/60

内なる贈与者の解体

ズキン。ズキン。

後頭部から首筋にかけて、ドクドクと脈打つ血流のノイズ。

クセノフォンの鼓膜の内側で、老人の声が反響し始めた。

湿った排気音を伴う、あの独特の低い声。

『問え、クセノフォン。善く生きるとは何かを』

ソクラテス。

アテネの路地裏。泥と犬の糞を踏み固めた老人の分厚い足の裏。安酒の空き瓶の底で死んでいる銀蝿。

その記憶のフラッシュが、網膜の裏側に唐突に張り付く。


『不知の自覚』

自分が無知であることを知れ。真理を求めよ。

だが、今のこの空間で、その言葉はどれだけの重量を持つ?

クセノフォンの足の裏。

すり減ったサンダルの革を突き破るように、バビロンの土の圧倒的な冷たさが神経に直接入力されてくる。

冷え切った革鎧が胸郭を圧迫し、呼吸のたびに肋骨を内側に押し込む。

重い。

物理的な重量が、形而上の問いを完全に圧殺する。


「黙れ」

クセノフォンは声に出した。

誰に向けたのか。脳内の老人か、それとも痙攣する野営地の狂乱か。

彼自身の口の端から、さきほどの吐瀉物の酸っぱい臭いが再びふわりと立ち昇る。

『問え。君の魂は、何によって満たされるのか』

老人の声が、しつこく耳の奥で反響する。

「善く生きるな」

クセノフォンは、青銅の槍の柄をギリギリと握りしめた。

関節が白く変色し、手のひらの皮が木の繊維に食い込む。

「ただ息をしろ」

真理の探求。そんなものは、安全な都市の城壁の内側で、満腹の胃袋を抱えた市民だけが享受できる娯楽(エンターテインメント)だ。

ここでは、カロリーの無駄遣い。

脳の処理能力を浪費する致死的なバグに過ぎない。


クセノフォンの右隣。

暗闇の中から、火の光の中にぬっと顔を出した男。

右目が潰れ、ゼリー状の液体が頬を伝って落ちている。

男は狂ったように笑いながら、地面に落ちていた羊の骨をガリガリと齧っている。

『善く生きるとは何か』

骨を砕く鈍い音が、老人の問いを物理的に粉砕する。

「呼吸の邪魔になる問いは」

クセノフォンは槍の石突で、足元の土を強く叩いた。ガン。

「喉を切り裂いて捨てろ」


哲学の機能停止。

クセノフォンは、脳内の中枢神経系から「倫理」や「探求」といったモジュールを、一つ一つ意図的に強制終了(キル)していく。

プチ。プチリ。

回路が切断されるたびに、不思議なほど視界がクリアになっていく。

恐怖でぼやけていた一万人の肉の塊が、単なる「物体」の集合として網膜に再マッピングされる。

過去の栄光。未来への希望。

そんなものは存在しない。

あるのは、次の一歩を踏み出すためのカロリーと、筋肉の収縮を促す絶対的な「現在」の入力信号だけだ。


「ゼウスよ……」

左手前方。槍の柄にすがりつくようにして泣いている若い兵士。

「ゼウスは、我々を見捨てたのか……」

祈り。

これもまた、無駄なカロリー消費。

神という架空のクラウドにデータを送信しても、返ってくるのはバビロンの冷たい風だけだ。

クセノフォンは、その泣き声の周波数に一切の同調を示さない。

彼の脳は今、純粋な算術機械へとダウングレード(いや、アップグレード)された。

この一万の肉の塊を、どうやって生きたままギリシャまで運ぶか。

いや、違う。

どうやって、この巨大な暴力を「効率よく」稼働させるか。

それだけだ。


内なる贈与者(ソクラテス)は解体された。

腹の中の鉛の球は消え、代わりに、氷のように冷たく、刃物のように鋭い論理の結晶が形成されつつある。

クセノフォンは、泣いている若い兵士の横を通り過ぎた。

すり減ったサンダルが、泥の上の血だまりを踏み抜く。

ビチャリ。

跳ね上がった黒い血が、彼のすね当てにこびりつく。

もはや、不快感はない。

それはただの「液体」。

世界は、物理的な質量と運動エネルギーの計算式へと完全に還元された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ