内なる贈与者の解体
ズキン。ズキン。
後頭部から首筋にかけて、ドクドクと脈打つ血流のノイズ。
クセノフォンの鼓膜の内側で、老人の声が反響し始めた。
湿った排気音を伴う、あの独特の低い声。
『問え、クセノフォン。善く生きるとは何かを』
ソクラテス。
アテネの路地裏。泥と犬の糞を踏み固めた老人の分厚い足の裏。安酒の空き瓶の底で死んでいる銀蝿。
その記憶のフラッシュが、網膜の裏側に唐突に張り付く。
『不知の自覚』
自分が無知であることを知れ。真理を求めよ。
だが、今のこの空間で、その言葉はどれだけの重量を持つ?
クセノフォンの足の裏。
すり減ったサンダルの革を突き破るように、バビロンの土の圧倒的な冷たさが神経に直接入力されてくる。
冷え切った革鎧が胸郭を圧迫し、呼吸のたびに肋骨を内側に押し込む。
重い。
物理的な重量が、形而上の問いを完全に圧殺する。
「黙れ」
クセノフォンは声に出した。
誰に向けたのか。脳内の老人か、それとも痙攣する野営地の狂乱か。
彼自身の口の端から、さきほどの吐瀉物の酸っぱい臭いが再びふわりと立ち昇る。
『問え。君の魂は、何によって満たされるのか』
老人の声が、しつこく耳の奥で反響する。
「善く生きるな」
クセノフォンは、青銅の槍の柄をギリギリと握りしめた。
関節が白く変色し、手のひらの皮が木の繊維に食い込む。
「ただ息をしろ」
真理の探求。そんなものは、安全な都市の城壁の内側で、満腹の胃袋を抱えた市民だけが享受できる娯楽だ。
ここでは、カロリーの無駄遣い。
脳の処理能力を浪費する致死的なバグに過ぎない。
クセノフォンの右隣。
暗闇の中から、火の光の中にぬっと顔を出した男。
右目が潰れ、ゼリー状の液体が頬を伝って落ちている。
男は狂ったように笑いながら、地面に落ちていた羊の骨をガリガリと齧っている。
『善く生きるとは何か』
骨を砕く鈍い音が、老人の問いを物理的に粉砕する。
「呼吸の邪魔になる問いは」
クセノフォンは槍の石突で、足元の土を強く叩いた。ガン。
「喉を切り裂いて捨てろ」
哲学の機能停止。
クセノフォンは、脳内の中枢神経系から「倫理」や「探求」といったモジュールを、一つ一つ意図的に強制終了していく。
プチ。プチリ。
回路が切断されるたびに、不思議なほど視界がクリアになっていく。
恐怖でぼやけていた一万人の肉の塊が、単なる「物体」の集合として網膜に再マッピングされる。
過去の栄光。未来への希望。
そんなものは存在しない。
あるのは、次の一歩を踏み出すためのカロリーと、筋肉の収縮を促す絶対的な「現在」の入力信号だけだ。
「ゼウスよ……」
左手前方。槍の柄にすがりつくようにして泣いている若い兵士。
「ゼウスは、我々を見捨てたのか……」
祈り。
これもまた、無駄なカロリー消費。
神という架空のクラウドにデータを送信しても、返ってくるのはバビロンの冷たい風だけだ。
クセノフォンは、その泣き声の周波数に一切の同調を示さない。
彼の脳は今、純粋な算術機械へとダウングレード(いや、アップグレード)された。
この一万の肉の塊を、どうやって生きたままギリシャまで運ぶか。
いや、違う。
どうやって、この巨大な暴力を「効率よく」稼働させるか。
それだけだ。
内なる贈与者は解体された。
腹の中の鉛の球は消え、代わりに、氷のように冷たく、刃物のように鋭い論理の結晶が形成されつつある。
クセノフォンは、泣いている若い兵士の横を通り過ぎた。
すり減ったサンダルが、泥の上の血だまりを踏み抜く。
ビチャリ。
跳ね上がった黒い血が、彼のすね当てにこびりつく。
もはや、不快感はない。
それはただの「液体」。
世界は、物理的な質量と運動エネルギーの計算式へと完全に還元された。




