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傭兵隊長クセノフォン  作者: 世間の果て
第九章:首のない肉体と理性(ロゴス)
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嘔吐による倫理の排泄

 ウッ。

 腹の底。

 重い鉛の球が、胃壁に直接衝突した。

 クセノフォンは突然、膝を泥に落とした。

 右手の槍の柄を地面に突き刺し、体を支える。木の繊維がキシリと悲鳴を上げた。

 限界だ。

 脳内(システム)が処理できる嫌悪感の最大値を、完全に超えた。

 横隔膜が意志とは無関係に、下から上へと強烈に跳ね上がる。

 食道。粘膜の管を、強酸の塊が猛スピードで逆流してくる。

 口を塞ごうとした左手のひらの隙間から、それは一気に爆発した。


 ブボァ。

 黄色と緑色が混ざった、生温かい液体の噴出。

 足元の泥の上に、べちゃりと広がる。

 胃液の酸っぱい臭いが、瞬時に鼻腔を占拠する。

 吐瀉物の中に、夕食で無理やり胃に詰め込んだ未消化の豆の粒が、原型を留めたまま大量に混ざっている。

 ゴホッ、ゲホッ。

 気道に酸が入り込み、強烈な咳き込みが起こる。

 涙腺が崩壊し、鼻水がだらしなく流れ落ちる。

「ハァ……ハァ……」

 クセノフォンは四つん這いになり、泥の中に顔を近づけたまま喘いだ。

 口の端から、糸を引いた透明な唾液が、さっき吐き出したばかりの黄色い池に向かって垂れ落ちる。


 アテネの法。市民皆兵の誇り。

 ソクラテスの問答。正義。徳。

 それらは今まで、彼の脳髄のどこかに、薄皮一枚で保護されて格納されていた。

 だが今、胃の激しい収縮運動とともに、それらはすべて「異物」として認識され、物理的に体外へ排泄された。

 内臓が、高尚な理念を完全な「毒」と判定したのだ。


 火の向こう側。

 干し肉の袋を抱えたまま、味方の剣に切りつけられた男がよろけながら近づいてきた。

 鎖骨からダラダラと黒い血を流し、息も絶え絶えになっている。

 男はクセノフォンの吐瀉物を見て、ひきつったように笑った。

「ヒッ……吐いたか、アテネの」

 男の口から、血の泡が飛ぶ。


「アテネの法は、そんなにまずかったかよ」

 クセノフォンは顔を上げない。

 泥にまみれた自分の手首を見つめている。

 甲冑の冷たさが、胸の皮膚を不快に圧迫している。

「ああ」

 掠れた声。喉の粘膜が酸で焼かれ、声帯がうまく震えない。

「正義も徳も、ただの腐った豆だ」

 クセノフォンは、泥の上の豆の粒を、すり減ったサンダルのつま先でぐちゃりと踏み潰した。

「腸を冷やすだけのゴミだ」


 精神的葛藤などない。

「市民としての自分」と「傭兵としての自分」の対立というような、甘美で文学的な煩悶は一秒たりとも存在しない。

 あるのは、生命維持装置としての内臓の冷徹なジャッジだけだ。

 高尚な理念はカロリーを消費する。

 思考は酸素を浪費する。

 この死臭に満ちた極限の空間で、それらは生存確率を著しく低下させるバグに過ぎない。

 内臓はバグを嫌悪し、痙攣を起こして強制的に排除した。ただそれだけの唯物論的なプロセス。


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、クセノフォンは乱暴に革の小手で拭った。

 青銅の鋲が頬の肉をこすり、ヒリヒリとした痛みが走る。

 だが、その痛みが心地よい。

 痛覚は「現在」の確かな入力信号だ。

 過去の栄光も、未来の希望も、すべては脳が作り出すノイズ。

 今の彼に確かなのは、喉の焼けるような痛みと、胃袋の空っぽな軽さ、そして鼻をつく強烈な酸の臭いだけ。


「ヒッ、ヒヒ」

 血まみれの男が、干し肉の袋を抱え直して再び走り去ろうとする。

「俺は食うぞ。アテネの法より、このカチカチの肉のほうがよっぽどマシだ」

 男の背中が、暗闇の中に溶けていく。

 その後ろ姿は、もはや人間ではない。

 生存枠を確保するために、別の個体の肉を削り取ることに特化した、ただの剥き出しの機能。


 クセノフォンはゆっくりと立ち上がった。

 膝の震えは止まっている。

 胃液をすべて吐き出したことで、腹の底にあった奇妙な重みが完全に消え去っていた。

 恐ろしいほどの空洞。

 その空洞に、冷たい夜風が流れ込んでくる。

 彼は自分の吐瀉物を見下ろし、そして、そのすぐ横に転がっているプロクセノスのカサカサの目玉を一瞥した。


 倫理の排泄は完了した。

 ここからは、純粋な殺意とカロリー計算のフェイズだ。

 クセノフォンは、槍の柄を握り直した。

 木の繊維に染み込んだ自分の汗が、今度は不快感ではなく、確かな接着力として手のひらに馴染むのを感じた。

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